廬(いおり)を結びて人境に在り 而(しこう)して 車馬の喧(かまびす)しき無し 君に問う 何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと 心遠(はる)かにして 地自ら偏ればなり 菊を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと) 悠然として南山を見る 山気(さんき) 日夕に佳く 飛鳥(ひちょう) 相与(あいとも)に還る 此の中に真意有り 弁ぜんと欲して 已(すで)に言を忘る 「飲酒」 陶淵明 |
[ホームページ] へ戻る | 1.独逸から墺太利へ | 2010.10.18 |
2.墺太利 | 2010.12.09 |
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3.年の初めの | 2011.01.08 | |
4.東風吹かば | 2011.02.19 | |
5.生(いのち)あるもの、、、 | 2011.04.09 | |
6.一期一会(いちごいちえ) | 2011.05.13 | |
7.有朋自遠方來 | 2011.06.08 | |
8.金色堂 | 2011.07.31 | |
9.重陽の節句 | 2011.09.09 |
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10.グリンデルワルト(スイス) | 2011.11.20 |
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11.めでたさも、、、 |
2012.01.13 |
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12.いざさらば | 2012.03.03 |
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13.ムシデン(離別譜) | 2012.04.16 |
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14.国破れて | 2012.07.01 |
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15.心の旅 | 2012.08.24 |
16.勿忘草 | 2012.10.28 |
17.除夜の鐘 | 2012.12.31 | |
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1.独逸(ドイツ)から墺太利(オ−ストリア)へ | 2010.10.18 |
Allianz Arena ミュンヘン, ドイツ 2010.8.20 |
酷暑の夏からあっと言う間もなく急に秋になり、今や秋もたけなわの10月も半ばを過ぎた. それでも未だ夏の感覚が抜け切らず、秋よいずこと思うのは私だけでしょうか? 寂しさは その色としも なかりけり 槙たつ山の 秋の夕暮 寂蓮法師 新古今和歌集 心なき身にも あはれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ 西行法師 新古今和歌集 今夏は来春のスキ−行の偵察のためオ−ストリアのチロル地方に出かけた. チロルと言えば先ず思い浮かべるのは、インスブルック(Innsbruck)で次にザンクト アントン(St.Anton)である. 随分昔にザンクト アントンで滑ったことがあるがもうさっぱり当時のことを覚えていない. 欧州の地図を見ていると、オ−ストリアのチロル地方に行くにはウイ−ン経由で行くよりはドイツのミュンヘン経由で行く方が楽そうだと思った. そこでドイツのミュンヘンへ直行便で飛びそこから列車でインスブルックに行くことにした. インスブルックをベ−スにしてザンクト アントンや時間があればドイツのガルミッシュ−パルテンキルヘンなどに日帰りで行こうと考えた. 直行便は夕刻ミュンヘンに着くが、丁度その日に強豪 FC Bayern Muenchen 対 VfL Wolfsburg のサッカ−対戦があったので、中央駅の近くのホテルにチェックインするのももどかしい思いでサッカ−場のアリアンツ アリ−ナ(Allianz Arena)へ急行した. Wolfsburgには先のサッカ−のワ−ルドカップ日本代表チ−ムキャプテンを務めた長谷部選手が在籍しているが怪我で出場しなかったのは残念だった. 日本で手に入れた入場券を正規のチケットに交換するのに手間取って入場出来たのは後半戦開始直前だった. 接戦だったが地元のFC Bayern Muenchen が2対1で勝ちスタンドは大騒ぎだった. 開始時間が20:30(日本との時差7時間を考慮すると、日本時間の午前3時半)だったので、後半戦頃にはもう眠くて仕方がなかった. 機中殆ど眠れなかったので試合の観戦中にコクリコクリとなった. だが席は地元Bayern Muenchen のファンの真っ只中で全員総立ちで応援しいるのに、まさか居眠りも出来ず眠気を払って一緒に応援した. 会場のアリアンツ アリ−ナ(Allianz Arena)は上の写真のように外壁が照明に映えてとても美しく見えた. 翌日はミュンヘン中央駅でウイ−ン(Wien)駅行きの列車に乗りインスブルックに向かった. オ−ストリアのことは次の機会に書くとしてここではドイツの有名なスキ−場であるガルミッシュ・パルテンキルヘン(Garmisch-Partenkirchen)について書くことにする. 長い間、ドイツのスキ−場でも一度滑ってみたいと思っていた. 然しスイスなどと違ってスキ−場の名前を全く知らない. でも何故か昔冬季オリンピックを開催したガルミッシュ・パルテンキルヘンだけは知っていたので、どうしても訪問し、偵察をしたかった. ガルミッシュ・パルテンキルヘン(Garmisch−Partenkirchen)は1936年の第4回冬季オリンピックを開催したが、当時開催地としては規模が小さいというのでGarmischとPartenkirhenの二つの町が合併してオリンピックを誘致したので長い名前になったそうだ. インスブルックから各駅停車の列車で1時間20分強、国境を越えてドイツに入ると直ぐにガルミッシュ・パルテンキルヘンがある. ここにはドイツ最高峰のZugspitze(2962m)が聳えている. 山頂近くまで登山電車だけで登ることも出来るがロ−プウエイと併用する方がずっと早く登れる. スイスの3000m級の高山を幾つも見ているとドイツ最高峰が2962mとは少し低すぎる感があった. 頂上近辺から周りを見ると結構尖ったピ-クを持つ山並みが連なっているが、スキ−場に適した場所を見つけ出せなかった. この地はスキ−場でも有名なのだか、多くのロ−プウエイやリフト等があるのかどうか不明だった. もっと調査する必要があったがインスブルックへ戻る列車の時間が来たのでこれ以上の調査や町の散策は出来なかった. インスブルック〜ガルミッシュ・パルテンキルヘン間の列車の旅は車窓から景色を眺めながらのんびり過せてとても良かった. 日本では車で走っていて隣の県に差し掛かると、ここからxx県という表示が良く出るが、ドイツとオ−ストリアの国境を列車で越える際には車窓からは何の表示も見えずいささか拍子抜けだった. |
Zugspitze 2962m (Garmisch-Partenkirchen, ドイツ) 2010年8月24日 |
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2.墺太利(オ−ストリア) | 2010.12.09 |
インスブルック近郊の山並 2010.08.22 |
何時の間にやら12月になってしまった. 12月と言えば「師走」という言葉が出てくるが、私は何故か「師走ともなりぬれば、、、」という言葉(?)を思い出す. 昔昔の何かの物語か、随筆の書き出しだろうと思うのだが思い出せない. 多分源氏物語か枕草子か徒然草あたりだろうと見当をつけて調べてみたがその通りの文章はどうも無さそうだ. 来年の12月に再びこの文が脳裏を横切るだろう. 今夏は酷く暑かった. それに関連があるのだろうか今秋も暑いほどの気温の日々が続き、そして暦の上の冬を迎えても未だ例年よりは暖かい. いつもの桜並木の散歩道を歩いていると暖かい日差しの中を桜の枯葉がヒラヒラと頭上に落ちてくる. 自力で歩くのは難しそうなお婆さんが歩行機に頼ってゆっくり歩いている. 疲れるとそれに腰掛けてのんびり日光浴をしている. 急ぎ足で通り過ぎる私を見て、何でそんなに急ぐのかと怪訝な表情をする. 平凡な日の平凡な時間が流れる. でも私に限って言えば、平和な瞬間をつくづく有難いと思う. 季節は夏に戻る. ドイツのミュンヘンから列車で国境を超え長年憧れていたオ−ストリアのインスブルック(Innsbruck)に来た. インスブルックと言えば冬季オリンピックを2回(1964年と1976年)開催したスキ−ヤ−憧れの地である. 私もその一人だが現地に来て驚いた. 夏場はのんびりした山岳リゾ−トとばかり思っていたが、実際は沢山の観光客が訪れる観光地なのだ. 特に旧市街などは観光客で溢れんばかりだった. 冬にはスキ−場になると思はれる山に上がってみた. 終点を目指すリフトの下を見ると結構な人数が歩いて上がって行く. よく見ると年配の方々も見受けられその元気さにはとても驚いた. 山に上り周りを見渡して感じたのは、スイスと異なり鋭鋒が見えず、岩山ではなく砂山ばかりである事だった. 勿論上方には木々は無く殺風景であるが冬は全てが雪で覆われて美しく見えるのだろう. インスブルック市内を巡る観光バスが運行されている. 座席には日本語の案内が聞けるイヤホンが付いていて楽だった. 日本語なら観ることに集中しても説明は良く分る. 英語なら聞くことに集中しないと説明が理解出来ないしドイツ語なら殆ど分らないので疲れてしまう. 毎日、朝食時にホテルのレセプションへ行きその日の訪問場所の天気予報をPCで調べて貰った. 前の週は雨天と寒い日の連続だったのが幸いに我々の滞在時は好天に変わった. 但し贅沢は言えなかったが暑さは今年の東京並で、異常に暑く閉口した. ザンクト アントン(正しくはザンクトアントン アム ア−ルベルグ,St.Anton am Arlberg)はインスブルックから列車で1時間ほど西の地に位置し、ア−ルベルグ峠にあるのでアム ア−ルベルグと呼ばれるが普段は省略されている. アルペンスキ−発生の地として知られる有数のスキ−リゾ−トであり、観光地である. 旅をすると驚くことが多いがザンクト アントン駅で下車して驚いた. 降車したのは我々を含めて数人だった. あっという間に人気が無くなり駅の出口を探すにも尋ねる人は皆無だった. インスブルックで溢れていた観光客はここにはいなかった. 村のインフォメ−ションに行き地図を貰いロ−プウエイ乗場を尋ねたら、一番大きいロ−プウエイはその日は運休日だったのでガッカリした. その日は月曜日だった. 仕方なく小さいロ−プウエイとリフトを乗り継いで上に行った. 山並はインスブルックと同じだったが下を見ると滑りやすうそうな勾配で楽しく滑れそうに思えた. 下ってスキ−博物館に寄ったらここも休館だった. 休館日を調べないで行ったのも拙かったが、文句を言いつつも、夏の観光客の多い時でも休むのだなと感心してしまった. インスブルックへ戻る列車の時間を気にしながら村の中心街をぶらぶら歩いたが全くのように観光客の姿はなく、村は眠っているようだった. インスブルック〜ザンクト アントン間を結ぶ列車は谷間を走り、車窓からは下の写真のようなチロルの山々が見える. |
車窓から眺めるチロルの山 2010.08.23 |
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3.年の初めの | 2011.01.08 |
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ベランダから見る日の出 2010.12.24 |
年の初めの 例(ためし)とて 終りなき世の めでたさを 松竹立てて 門ごとの 祝う今日こそ 楽しけれ 唱歌 「一月一日」 日本全国ほぼ大雪と悪天候に見舞われての元日であったが、関東地方は幸いにも好天に恵まれた穏やかな正月を迎えて大変気持ちが良かった. つい冒頭のような歌を口ずさむと年齢がばれてしまうが、何故だろうか大晦日と元日では気持ちが異なる. 長い間の習慣なのか、年の暮れにはどうしても過去を顧みる気持になるが元日は未来を見据える心境になる. 前にも書いたが日本では年の瀬にはベ−ト−ヴェンの交響曲第九番の演奏が人気がある. 私は第4楽章の合唱で歌われるシラ-(ヨハン クリストフ フリ-ドリッヒ フォン シラ−,Johann Christoph Friedrich von Schiller)の詩、An die Freude(歓喜の歌)が大好きである. Wikipediaによれば、この詩はシラ−の詩作品「自由賛歌、1785年」がフランス革命後,ラ・マルセイ−ズのメロデイ−でドイツの学生に歌われていたのでそれを書き直して[歓喜に寄せて、An die Freude 1803]にしたところベ−ト−ヴェンが歌詞として1822年−1824年に引用書き直したものとある. この詩を読むと感動して身が引き締まる思いになる. この詩がもたらす緊張感と共に新年を迎えると冒頭の唱歌のような穏やかなゆったりした気持ちの新年を迎えることが出来るのである. しるしなき 物を思はずは 一つきの濁れる酒を 飲むべくあるらし 古への 七(なな)の賢(さか)しき人たちも 欲(ほ)りせしものは 酒にしあるらし なかなかに 人とあらずは酒壷に なりにてしがも 酒に染みなむ 価なき 宝といふとも一つきの にごれる酒に あにまさめやも 夜光る 玉といふとも 酒飲みて情(こころ)を遣(や)るに 豈に(あに)如(し)かめやも 以上 万葉集 「酒を讃むる歌」 太宰師大伴卿(大伴旅人) 新年は祝い酒、新年会 など酒を酌み交わす機会が多い. 上の句の先人のように、酒に飲まれることなく酒に癒され、酒を頼って生きて行く人生も又楽しからずやである. そして正月を迎えて想う風情は、この句に尽きる. 田児の浦ゆ 打出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける 万葉集 山部赤人 |
マッタ−ホ−ン 遠望 2009.02.03 |
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4.東風吹かば | 2011.02.19 |
梅の花 と 鶯 2007.02.07 |
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘れな 菅原 道真 (すがわらのみちざね) 拾遺和歌集 いつもの散歩道の梅の花が咲いている. 同じ場所で毎年春が来ると同じように咲いている. とかくこの世は浮き沈みが早く、激しいがこの梅の木は気がつけば同じように花をつけている. 上の写真と全く同じように咲いている. 写真を撮ろうと思ったがなかなか鳥が来てくれないので古い写真を借用した. 2月も半ばを過ぎ受験シーズンの真直中である. 受験と言えば学問の神様と呼ばれている菅原道真を思い浮かべる人も多かろう. 数日前、関東地方にも数センチ積もるほどの降雪があった. 昔々のことだが私は早稲田大学の第一理工学部を受験した. 3月8日のその日に都内に8センチも雪が積もった. 幸い合格したが結果的には他の大学に入学した. でも今でも早稲田大学のファンである. 雪が降ってももう春の淡雪と言えよう. 春が近づくと私はいつも「早春賦」という歌を思い浮かべる. 受験勉強に明け暮れていたその頃は「4当5落」と言われる程ひたすら勉強(受験勉強)をした. 「4当5落」とは4時間しか眠らないで勉強すれば受験に合格、5時間眠ると受験に失敗するの意味である. 私が通っていた高校は県内屈指の受験校であった. 高校の入学試験に合格したら、未だ入学式も始まらないのに召集がかかり、いきなり大学の入学試験問題を解かされた. 校内の廊下にはその年の大学入学者(卒業生)名が一年間貼り出されていた. また年に数回の模擬試験(全教科)があり上位数十名の名前が貼りだされた. その頃は高校までは汽車で通学した. 家から駅まで15分くらい歩き、高校のある市まで汽車に20分位乗り、また高校まで30分位歩いた. 手元には常に通称赤尾の豆単(旺文社創業者の赤尾好夫氏著作、「英語基本単語、熟語集」のこと)を持ち歩きながら英単語を丸暗記した. 土曜日に問題を渡され、日曜日に自宅で解答を書き、月曜日に提出すると水曜日に添削された用紙が帰ってくるという高校生活だった. また毎日放課後に2時間くらいの補習授業があり、夏休みは殆ど休まず冬休みも大晦日と元日のみ休むだけであとは登校して受験に備えて補習授業を受けた. 2月のその頃はもう直ぐ春が来る(つまり自分の受験勉強も早く終り大学に進学したい)期待感もあり、よく歩きながら口ずさんだ歌が「早春賦」である. 「 早春賦 」 吉丸 一昌 作詞 中田 章 作曲 春は名のみの 風の寒さや 谷のうぐいす 歌は思えど 時にあらずと 声もたてず 時にあらずと 声もたてず 昨夏、今春のスキ−に備えてオ−ストリアのインスブルックとザンクト・アントンに偵察に行ったが今春はどうしようかと熟慮の結果自分の体力等も考慮してオ−ストリア行きを諦めた. しかしスキ−の魅力を諦めることは出来ず、通いなれた北海道のニセコアンヌプリに来週出かけることにした. |
ニセコの夕暮れ 2010.2.3 |
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5.生(いのち)あるもの、、、 | 2011.04.09 |
こぶし 「季節の花 300」 http://www.hana300.com より 2011.03.27 |
3月11日に起きた東日本大震災に遭遇し亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表します. 被害を受けた方々に心からお見舞いを申し上げます. そして当夜私がお世話になった避難所の栃木県小山市立小山第二小学校体育館を運営されていた小山市役所のご担当の皆様、小学校教職員の皆様のご親切に深く感謝申し上げます. 弥生三月、もう直ぐ卒業式そして入学式と心弾む春が北国に来る筈だった. 然し何と惨いことか東北地方に春をもたらす自然がその前に地震、津波という災害を持って来てしまった. そして追い討ちをかけるように福島第一原発の事故が続いた. これらの影響で東京を除く(都下は含まれるが)関東一円が輪番制停電に悩まされることになってしまった. 3月11日の14時過ぎに、私は翌日に福島県田村市の親戚で営まれる法事に出席すべく東北新幹線に乗っていた. 何気なく車内の電光表示のニュ−スを見ていたら突然表示が消えた. 直ぐ車内放送があり停電だと知った. 多分急ブレ−キが掛ったのだろう、列車は小山駅を惰性で通過して停車した. その直後凄まじい縦揺れが来て、正に航空機が乱気流に遭遇して激しく上下するように列車が揺れた. 必死に前の座席の背もたれにしがみついた. 車内は停電したので非常灯がつき車掌のアナウンスも暫くはあったが電源の保持のため次第に少なくなった.2〜3時間後に列車を降りて徒歩で約1km離れた小山駅に向かうことになった. 外は暗闇になり自分の荷物を抱えて線路上を歩くのはたいへんだった. やっとの思いで小山駅にたどり着くと避難所に向かうように案内された. 市内は停電で暗く、前を歩く避難者を見失なわないように15分〜20分ほど歩き小山市立第二小学校の体育館に辿り着いた. そこには既に100人位の避難者がいた. 真っ暗闇の体育館には非常灯が1個点灯しており、市役所の職員の方々、学校の教職員の方々が徹夜で世話をして呉れた. ペットボトルの水を1本、夕食にパックにお湯を入れて作るご飯、朝食に炊き立てのパック入りご飯を貰った. 翌日には幸いにも大宮駅〜東京駅間のJRが運行していたので、タクシ−に3人相乗りして2時間半位かけて大宮駅に行き座間市の自宅に戻ることが出来た. 新幹線内で地震に遭遇した時は夢中になって帰宅する方法ばかりを考えていたが、後日冷静になって振り返ると、時速200km以上で走行中の新幹線内にいて脱線転覆もせずよくぞ生還出来たと身が震える思いである. 数日前のNHKの番組で知ったことだが、地震発生時に東北新幹線では27本の列車が走行中であったが、東京〜青森間に設置した7(9?)個の地震計の一つが地震を感知し発した停止(電源遮断)信号で停車した. その1分数十秒後に地震が来たそうである. 福島第一原発の地震対策のお粗末さに比べてJRの地震対策のお蔭で私は命を救われたと思っている. 生(いのち)あるものは死するが世のならい、 現世を通って永遠におもむく. --ウイリアム・シエイクスピア 「ハムレット」 1幕2場 別宮貞徳 訳 Thou knowst 'tis common , all that live must die. Passing through nature to eternity -- William Shakespeare [Hamlet] i.2 今回の災害で亡くなった方、行方不明の方は合わせて26,000人を超えるという未曽有の大惨事になってしまった. 自然の為せることとは言え、生あるものは死するが世のならいとシエイクスピアは書くが、その前に為したいこと、夢、希望が多々あった筈である. 4月になり、こぶし咲き、北国に春が来て、東京は桜が咲き、大好きな沈丁花の香もほのかに漂うが、数多くの人がこんなことになろうかとは夢にも思はず世を去ってしまったと思うと、やり切れない思いで鬱々たる日々を過ごしている. |
ニセコアンヌプリ 2011.02.26 |
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6.一期一会 (いちごいちえ) | 2011.05.13 |
鯉のぼり 子供の国 2011.04.12 |
3月11日の東日本大震災と福島第一原発の事故からもう2か月も経つのに未だ体育館等で不自由な日々を過ごされている方々が大勢いらっしゃる. 心からお見舞い申し上げます. Golden Weekも始まってみればあっという間もなく終わってしまった感がある. 端午の節句と呼ばれる5月5日の子供の日に何軒の家族が「菖蒲湯」に入っただろうか? 多分もうそんな時代ではないのだろう. でも何歳になっても昔母親が作って呉れた柏餅を忘れられない. 今では小さい子も居ず、自宅で作るより楽なので買ってしまう柏餅を食しながらつい幼な心に戻り童謡を口ずさんでしまう. 柱の傷は おととしの 五月五日の背くらべ 粽(ちまき)たべたべ兄さんが 計ってくれた 背のたけ きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ 「背くらべ」 作詞: 海野 厚 作曲: 中山晋平 上の歌詞で 柱の傷はおととしの、、、とあり何故 去年の、、、ではないかと思う人は多いだろう. 御多分に洩れず私もその中の一人である. 諸説ある中で、海野 厚が早稲田大学在学中に一番の詩を書いたが、彼は背くらべの翌年は病気療養のため帰省しなかったので、おととしの、となったというのが正解らしい. 28歳の若さで結核のため亡くなったのは残念である. 連休は概ね好天に恵まれたが、ここ数日は雨ならぬ大雨の警報が出る日々が続いている. 沖縄方面は梅雨の走りだそうだ. 以下は前に書いた文だが再度載せたくなった-----「 梅雨といえば、先ず思い浮かべるのはあじさい(紫陽花)だが、亡き母が一番好きな花はあじさいと言ってたのを懐かしく思い出す. 最近孫から好きな花の名を聞かれたが、よくよく考えてみると花は好きだが自分には特別この花が好きという花がない. ただ特別に好きな植物はある. もう花の咲く時期は過ぎたが、日本なら沈丁花の木、花、香りが好きだ. それは遠い昔スウエ−デンに駐在していた頃、白夜の夏の夜、仕事に疲れての帰宅時に最寄の地下鉄駅から住んでいたアパ−トへ歩く道筋に沈丁花に似た香りの木が沢山あり、この香りで何故か気持ちが癒されたことが今でも記憶に強く残っている. この香りが沈丁花の香り、匂いにとても似ている. 白夜といえば東山魁夷の世界を思う. 彼の北欧を描いた絵を見ると思い出す光景がある、 丁度夏至を過ぎた頃スウエ−デンの北の方に仕事で行き湖の側に泊まった. 夜の午後11時頃湖の側の針葉樹林が未だ薄明るい夜空にぼやっと浮かんだ光景に何か夢見心地になった思い出と重なるからだ 」----- 雨天でなければ連日いつもの散歩道(自分は思索の小道と呼ぶ)を歩く. 桜は散り、つつじが色とりどりに咲き、あじさいは未だだが、名を知らぬ幾種類もの花が咲いている. 人数も少なく、前を遮られることもなく、のんびりと歩きながら何かを想う. 東日本大震災避難者が食料難、物資難だったことを思うと、何もなかった終戦時の生活を、其のころの思い出、そして中学生、高校生、大学生時代の友人、恩師、住んでいた町のこと. 会社勤めの頃の上司、同僚、部下のこと.他界した両親、兄、友人、知人、同僚たちのこと.などなど. 珍しくTVで映画を見た.題名「おとうと」である. 映画では「キュ−ポラのある街」以来の吉永小百合を見たかったからである(TVのCMでは見かけるけれど). 会社の上司で、且つ大学の先輩が熱烈なサユリスト(小百合フアン)なのでふと彼のことを思ったので. 「一期一会(いちごいちえ)」という言葉がある. 茶の湯の心得を説く言葉であるが転じて「一生に一度しかないこと、一度かぎりのこと」などにも使われている. 一度しかない出会いとか、記憶に留めたい出来事などにはそのように思うこともあろう. 昔と違い70歳を超える我が人生を人は長過ぎるとは言わないだろう. では我が人生での出会いの中で一期一会の出会いとは何なのか? 誰なのか? そうと何時決められるのか? ご主人がドイツ人の知人がいる. 今はスイスに住み先月男の子に恵まれた. スイスだから鯉のぼりや、それこそ菖蒲湯などは無いだろうと、お子さんの健やかな成長を願いつつ、散歩道を歩きながら想像している. 思索の散歩道から戻ると時にはHomepageの更新に精を出す. 下の写真にあるように、自宅のPCコ-ナに陣取り文案を練るが短い文章でも結構時間がかかる. 文章は短くても回を重ねると、塵も積もれば何とやら、、であり、今回で118回目となる. 更新は自力でFTPを起動してUploadをしている. HTMLソ-スのデバッグは分厚いHTMLタグ辞典と首っ引きで行っている. |
自宅のPC コ−ナ− 2011.05.12 |
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7.有朋自遠方來 (友あり遠方より来たる) | 2011.06.08 |
Cortina d'Ampezzo (コルチナ ダンペッツオ, イタリ− ) 2005.02.07 |
[ Pippa's
song ] The year's at the spring; And day's at the morn; Morning's at seven; The hill-side's dew-pearled; The lark's on the wing; The snail's on the thorn; God's in his heaven---- All's right with the world! Robert Browning 歳はめぐり、春きたり 日はめぐり、朝きたる. 今、朝の七時、 山辺に真珠の露煌(きらめ)く. 雲雀、青空を翔け、蝸牛(かたつむり)棘の上を這う. 神、天にいまし給い、地にはただ平和! 平井 正穂 訳 この [ Pippa's song ] は前に(2002年11月15日)一度 「上田 敏 訳」 で載せたことがあるが今回は「平井 正穂 訳」を引用してみた. この詩を読むといつも心が和む. そして「古今集」のこの歌を思い出すのである. ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらん 紀 友則 作 もう6月になり東日本大震災と福島第一原発の事故から3か月過ぎようとしている. それなのに国政は乱れ、ひたすら避難されている方々に厳しい負担を負わせ続けている. とても上の詩のような平和な気持にはなれず、正に静心なく散る花の心境である. 一日も早い復興を願って止まない. 凡そ35年も昔のことだが工作機械メ-カ-の「営業技術部」という部門で課長職をしていた. 当時の部長と同僚(後輩)の計16名が先日集まった. ほぼ毎年1回は集る. 90歳になられた元部長の方は益々お元気で驚くばかりである. 元同僚達はいつまでも若くはなく、定年になったと聞いて時の流れの速さにあらためて気付かされた. 嬉しいことに遠く長崎県や愛知県からも馳せ参じてくれたのだ. 元部長の方や元同僚の元気な様子を見て大変嬉しかった. 長崎の友人(元同僚)は都会の生活を止めて山の中で猪と格闘しながら農業を営んでいる. 彼を想うと朋友という言葉を思い浮かべる. 私の世代では古い友をポンユウ(漢字では朋友と書く)と呼ぶ. 朋友という言葉から次のような孔子の言行録が浮かんでくる.
彼らとは仕事で苦楽を共にしたという熱い思い出がある. 朝昼そして夜と全く昼夜なく、常に新しい技術を求めて試行錯誤を繰り返し、多くの国に出向き技術指導をして貰った. 彼らなら出来るという信頼感があったからこそ躊躇なく仕事の差配が出来た. 良い仲間に恵まれて幸いだったと今でも思い感謝している. そういう朋友達と一席を囲めたのは楽しいことであった. 彼らの顔には当時の、若き頃の、面影が宿っているが、35年も経つと「光陰矢の如し」と月日の流れの速さを思い唖然とし、丸暗記して覚えた漢詩を口ずさむのである.
関東地方は既に梅雨入りした. ここ数日は散歩時には降雨がないが路傍では紫陽花の花が咲き始めた. 青、薄紫、薄黄色、と咲き出したが、やはり雨それも霧雨のような弱い雨の中でこそ一段と映えるのだと思う. 鳩の鳴き声を聞きながら散歩していたら突然季節外れの鶯の声がはっきりと聞こえて驚いた. 故郷の福島県田村市の私の家(空家)のある地域は福島第一原発に近いが、「計画的避難区域」や「緊急時避難準備区域」のいずれにも属していない. そろそろ地震の影響を調査しに行こうかと考えながら散歩している. |
Val d'Isere (ヴァル デイゼーレ、フランス) 2006.02.05 |
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8.金色堂 | 2011.07.31 |
アイガー北壁(Eiger 3975m) 2008.7.5 |
いつの間にか時は過ぎ明日は8月である. 梅雨が明ける前の6月後半から猛暑が続きもう梅雨明けと言っても良かろうにと思う内に7月の声を聞くや否やに梅雨明け宣言となった. 昔昔の中学生の頃全国作文コンクールなどで入賞したのを良いことに、俳句でも入賞を狙って応募したことがあった. 自分ながらに自信作であったが、結果は入選外だった. その時の俳句をいまでもはっきりと覚えている.七夕の 折り鶴褪せし 日照りかな 七夕の笹飾りにつけた折り鶴が日照りで色褪せるのだから多分月遅れの8月の七夕だったのだろう. いつもの散歩道の桜並木が老木となり30本以上切り倒されてしまい日影の道が短くなった. 炎天下の歩き(散歩の風情ではなくひたすら歩くだけ)も日影を求めて4kmから3kmへと短くなった. 今年は梅雨空の下で映える紫陽花をゆっくり眺めた記憶がないが、散歩道には今が盛りのひまわりの近くに紫陽花がションボリ咲き残っている. 色褪せし 紫陽花多き 日照りかな パリにある国際教育科学文化機関(UNESCO,ユネスコ)の世界遺産委員会が日本時間6月26日に平泉を世界文化遺産に登録することを決めた. 中尊寺 金色堂(藤原4代の遺体が眠る)などだ. 中尊寺のことは詳しく知らないが、金色堂と聞けば私は松尾芭蕉を思い浮かべる. 夏草や 兵どもが 夢の跡 五月雨の 降りのこしてや 光堂 そして更に思いを馳せて山形県の立石寺(山寺)を想う. 閑さや 岩にしみいる 蝉の声 北大の学生だった頃、夏休みが終わり常磐線平駅(いまはいわき駅)から札幌駅まで列車で向かう時、一の関駅あたりで無性に平泉で下車したい誘惑に駆られた. 金色堂を想い、中尊寺を想い、昔の栄華を想うのだ. そして突然芭蕉を想うのである. また芭蕉から立石寺を想い、いつか訪れたいと願ったのである. 数年前念願かなってやっと立石寺を訪ねることが出来たが、金色堂は願ってから50年が過ぎたいまでも訪問する機会に恵まれない. やはり待たずに実行あるのみとつくづく思う. 不思議と芭蕉は冬には思い起こさない. 冬休みや春休みには、スキ−道具を携えて札幌から福島県の家に帰る途中、ニセコや蔵王に寄るので忙しかったのだ!!! |
Grindelwald 駅 2008.7.5 |
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9.重陽の節句 | 2011.09.09 |
北大旧理学部 2011.08.19 |
今年の夏は暑かった. かてて加えて節電対策でどこもかしこもク−ラ−の設定温度は高くなり、もう参ったという日々が続いた. そして9月になり少し涼しくなったと思いきや再び猛暑が戻り、残暑という表現はあてはまらない昨今である. 然し注意して耳を傾ければ、本格的な秋の到来を前にして必死に鳴く蝉の声や秋を待つが如き虫の音に秋の到来をつくづく感じ、これまでに幾度となく書いた好きな歌が何げなく脳裏をよぎるのである. 秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 藤原敏行朝臣 古今和歌集 9月は私の誕生月である. 随分齢を重ねてしまったが、そのせいか昔のことが懐かしくなり、人恋しくもなって来た. なぜか9月になると必ず思い起こす言葉がある(2003年に既に書いた). それは Festival of Cyoyo (重陽の節句)である. 節句とは、一寸調べたら、昔は移り変わる季節の節目を祝う記念日だそうだ.現在にも五つの節句が伝えられている. 1月7日 七草粥で新年を祝う「人日(じんじつ)の節句」 3月3日 ひな祭り 「上巳(じょうし)の節句」 5月5日 こどもの日 「端午(たんご)の節句」 7月7日 「七夕の節句」 9月9日 菊花の香りの酒で月を愛でる「重陽の節句」 9月9日が Festival of Cyoyo と呼ばれることを知ったのは、高校生の時にラフカデイオ ハ−ン(小泉八雲)の「怪談(KWAIDAN」を読んだからである. 八雲は妻の節子から聞き取った日本各地の怪談や幽霊話を集めて情緒豊かな文学作品にしたが、静子の出身の出雲地方の方言からKAIDANではなくKWAIDANになったそうである. 「重陽の節句」の話の筋は「雨月物語」から来ているようだが、英語の勉強で日本の古い行事を知ったのも、考えればおかしなことである. 8月の半ば、札幌に出かけた.大学時代の恩師が春の叙勲で「瑞宝中綬章」を受章された.弟子の中の有志(元副学長とか、高専の校長とか、大学の教授とか、皆偉い方々ばかり)が受章祝賀会を札幌で開いたので、祝辞を述べさせて貰おうと夏の札幌を訪問した. 最近は平均して年に一度くらいは札幌を訪れている. ニセコのスキ−の帰路とか、何かの会合とかでせいぜい1〜2泊の慌ただしさであるが、でも行けば何とか時間を見つけて母校を訪問している. 訪問に特別の目的はないが、母校のキャンパスに入ると自然に学生時代の事が思い出され懐旧の想いにひたるのである. 10月初めに学生の時4年間世話になった寮(会津寮)のOB会が札幌で開かれるので出席を楽しみにしていたら都合がつかず欠席せざるを得ず残念である. 半世紀近い昔、わずか20名程の在寮生が財政的にはどこからも援助されず、完全自治体で運営していた貧乏な寮だったが、皆が自由に生活し夜を徹して朝まで議論に耽った日々のことは、真に貴重な経験をしたと今でも忘れ難い. 近くには仙台寮(宮城県出身者用)、巌鷲寮(岩手県出身者用)、秋田寮、信州寮(長野県)などがあり、夜な夜な(一寸大袈裟)酒を飲んでは大声で騒ぎ、スト−ムと称して他の寮の部屋にまで侵入し暴れまくった. 騒いでいるのが聞こえるから、そのうちスト−ムが来るとばかりに、冬でも2階にバケツと水を準備して、侵入者に頭から浴びせては両者一緒になり騒いだ. 近所の家の住人には随分迷惑をかけたのだが、文句を言われた記憶は皆無である. スト−ムの歌 (一) 札幌農学校は蝦夷が島 熊が棲む 荒野に建てたる大校舎コチャ エルムの樹影で真理解く コチャエ コチャエ (二) 札幌農学校は蝦夷が島 クラ−ク氏 ビ−アンビシャスボ−イズとコチャ 学府の基を残し行く コチャエ コチャエ |
北大構内 2011.08.19 |
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10.グリンデルワルト(スイス) | 2011.11.20 |
グリンデルワルト駅 1966年 星 光一 作 |
秋なのに春というのも可笑しいが今日は正に小春日和でとても暖かい. いつもの散歩道を歩いていると汗だくになってしまった. 歩きながらボンヤリとスイスのスキ−の事を考えていた. 長い間憧れていた冬のスイスへは会社勤めの身では長い休暇は取れず行けなかった. やっとビジネスの世界から引退して、さあ長らくの夢を叶えようと最初に選んだのがGrindelwald(グリンデルワルト,スイス)だった. 学生時代はクラスの友人達と近隣の山々に1泊スキ−によく出かけた. 札幌近郊の無意根山や春香山や時には数泊でニセコアンヌプリ等々であった. 私の卒論の担当教授であった主任教授の先生は北大山岳部OBで、好んで学生と一緒に山スキ−に出かけた. 山小屋では酒を飲みながら学生に如何に生きるべきかという人生講座を語って下さった. 先生のご家族もよく我々学生と一緒に滑った. 酔いが回るにつれ先生が話すのはGrindelwaldの事だった. もう話の内容は全く覚えていないがGrindelwaldという地名だけは記憶にはっきりと残っていた. 引退して最初に選んだスキ−場がGrindelwaldだった. そこには有名なアイガ−(Eiger,3975m)北壁が聳え立っている. 北壁と言えば、グランドジョラス(Grandes Jorasses、4208m)北壁、マッタ−ホルン(Matterhorn,4478m)北壁と並び三大北壁の一つとして有名である. 更に槇 有恒が東山稜初登攀した山でも有名である. 上の絵はその恩師の作品である. 本頁はGrindelwaldが本題であり、私がGrindelwaldに興味を抱いたのは恩師の語り種からだった. もう恩師は他界されてHomepageに載せる許可を得ることは出来ないが、独断で恩師とGrindelwaldを想い読者に作品を紹介させて貰う. 「....落葉がヴェッタ−ホルンのいただきに当たっていた. 山肌は紫色に、雪はバラ色に染まって、比類なく美しい光景だった. 谷はもう暗く、氷河はわずかに全体が白く見えるだけで、そのかたち姿はさだかではなかった. 圧倒的な高度感という言葉を、私は、私が好んで書く山岳小説の中に時々用いるけれど、このグリンデルワルドの谷に立って、ヴェッタ−ホルンを見上げるときの気持ちは圧倒的高度感を通りこして、なにか、自分自身とはかかわりのないところに立たされているようだった. グリンデルワルドの村はずれで眺めた落日の光景は、私が今まで考えてもみなかったものであった.....」 新田次郎 著 「アルプスの谷 アルプスの村」 昭和39年7月 新潮社 刊行 スイスに興味を持ったのは冬ニセコアンヌプリに登った時に近くのイワオヌプリ(1116m),ニトヌプリ(11080m),チセヌプリ(1134m)等へ縦走した時だった . その時ニセコアンヌプリの北側に真白に輝く山が見えた. それがワイスホルン(1046m)だった. 日にちが暫く経ってその山が多分スイスのMatterhornの北方に位置するWeisshorn(4505m)の名をなぞっているのだろうと思った. あまりにも白く、美しくて、将来是非滑ってみたい山と思った. その山はスイスにある. 恩師から聞かされていたGrindelwaldもまたスイスにある. 新田次郎著「アルプスの谷 アルプスの村」 が刊行された時はむさぶりつくように繰り返し繰り返し読んだ. そして読む度にスイスへの憧れは募るばかりだった. 2002年3月初旬、引退後最初に躊躇なく選んだのはスイスのスキ−場はGrindelwaldであった. やっとスイスに行ける嬉しさで心も晴々とJTBのツア−に申し込んだ. 一緒に行く相棒もいなくて単身で行くことにした. Zurichの空港で同じツア−に参加したご夫妻と知り合った. 数日間独りで滑っていたのを見かねたのか一緒に滑ろうと誘って頂いた. スキ−が取り持つ縁でその後Zermattには2回、Cortina d’Ampezzo(イタリ−)、Val d’Isere(フランス)、ニセコアンヌプリ、苗場等ご一緒させて頂いた. また夏にはスイスの旅先でお会いしたこともあった. ご夫妻にはいろいろお世話になり感謝している. 然し齢を重ねると動作もスロ−になり周りの方々に迷惑をかけるようになった. いろいろ悩み、考えた末に来春のGrindelwaldで一応アルプスのスキ−を終えることにして、あとは体力の続くかぎり北海道のニセコアンヌプリで滑ろうと思っている. という事で来春1月下旬から2月上旬まで約2週間一人でスイスのGrindelwaldに行くことにした. 単身だと家族が心配するので難しいところでは滑らないまでも(もう望んでも無理)現地でガイドを頼もうと考えていたら、スイス在住の友人(ドイツ人ご一家)から一緒に滑ろうと親切にも声をかけて頂いた. 恥も外聞もなくご好意に甘えることにした. もうがむしゃらに滑る気は無くのんびり楽しみたい. Grindelwaldと聞けばいつも恩師を思い出すが、例え滑ることを止めても、それはずっと変わらない. |
グリンデルワルト 駅前通り 2008.07.04 |
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11.めでたさも、、、、、、、 | 2012.01.13 |
ベランダから見る 日の出 2012.01.10 |
謹んで新年のご挨拶を申し上げます.今年もどうぞ宜しくお願い致します. 昨年3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震・津波及び福島第一原発事故」の犠牲者と被災者の方々へ心からのお悔みとお見舞いを申し上げます. 私自身東北新幹線の車上で大地震に遭遇し、故郷の福島県田村市も福島原発の真西30数キロの位置にあって様々な影響を受けたこと、被災者の方々が苦難に向き合いながら新年を迎えたことを思うと、とても めでたい 気分にはなれない. めでたさも 中くらいなり おらが春 小林一茶 数日前、朝日新聞朝刊の「天声人語」で一茶のこの句が紹介されていた気がするが、一茶とは違う理由でめでたさは中くらいと言うか、例年のように新年を祝う気分にはなかなかなれない. それでも被災者の方々が復旧・復興に向かって懸命に努力されているのを思うと、祝う気分になれずとも建設的な気持を持ち将来に向かうことを年の始めに誓うのである. 少し気分を変えようと昔の句集を紐解いてみた. あるはなく なきは数そう世の中に あわれいずれの 日まで 嘆かん 小野小町 新古今和歌集 いつまでも大災害の被害を嘆いていても何も解決しない. 気持ち、意志の転換こそ強く望まれる. 正月(むつき)立つ 春の初めに かくしつつ 相(あひ)笑(ゑ)みてば 時じけめやも 大伴家持(おおとものやかもち) 万葉集 正月(むつき)立ち 春の来たらば 斯(か)くしこそ 梅を招きつつ 楽しみ終(を)へめ 紀男人(きのおひと) 万葉集 明日よりは 春菜摘まんむと 標(し)めし野(ぬ)に 昨日も今日も 雪はふりつつ 山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと) 万葉集 目下日本列島は寒波に覆われている. 座間市の我が家も窓の外では、朝方にはマイナス4℃を記録した. それでも上の句にあるように、正月の文字は春の到来を思わせる. いつもの散歩道を歩いていたら、母親と一緒に歩いて来た3〜4歳くらいの子供に出会った. 彼が「もういくつ寝るとお正月、、、」と歌っていたのを聞いて思わず笑ってしまった. でもかなりの日数眠ると確かに次の正月はやってくる. 子供たちが大きくなりその未来が輝いていることを祈っている. 寒波に伴う雪景色をTVで見ていたら、昔よく歌われた童謡、 「春よ来い」 、を懐かしく思い出した. 「 春よ来い 」 作詞 相馬 御風(ぎょふう) 作曲 広田 龍太郎 春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒(はなお)のじょじょはいて おんもへ出たいと 待っている 最近の傾向としてやたら昔のことを懐かしむようになった. 病気の理由として加齢によると言われることがあるが、懐古することも加齢のせいなのだろうか? 自分のことを 「よぼよぼ爺さん」 と呼んでいるがそれは自分としては反語として呼んでいる積りでもある. 年頭に際し、私の拙い文章を読んで下さっている読者の方々へ深くお礼申し上げます.今年も折に触れ心に思うことを書き綴って参ります. |
Zermatt ( ツエルマット,スイス )駅前 2009.02.04 |
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12.いざさらば | 2012.03.03 |
雲海(1) Grindelwald(スイス) 近郊 Maennlichen 2230m 写真: Naomi Knaf-Sato 2012.02.01 |
雲海(2) Grindelwald(スイス) 近郊 Maennlichen 2230m 写真: Naomi Knaf-Sato 2012.02.01 |
袖ひぢて むすびし水の 氷れるを 春立つ今日の 風や解くらむ 紀貫之 古今和歌集 4年に一度しか来ない2月29日、日本列島は大雪に見舞われた. 関東地方にも珍しく積もるほどの雪が降った. 私の住む座間市では凡そ5cm〜10cm位積もった. 翌日は3月というのに降雪騒ぎで大変だったが、振り返って思えば時には東京でも3月の降雪はあった. もう半世紀以上も前のことだが、今でもはっきり覚えているが、3月8日に都心で8cmほど積もったことがあった. それは私が早稲田大学第一理工学部を受験した日であった. ついでに記すと幸い合格出来たが国立大学にも合格したので悩んだ末に国立大学への入学を決めた. 東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな 菅原道真 拾遺和歌集 菅原道真と言えば受験の神様として良く知られているが、学生の時卒論の締切日に何とか間に合わせようとフウフウ言ってたいた3月初めに札幌では雪が降り受験生が大変だったのを覚えている. 梅には鶯が欠かせないが、今年は暖冬異変ならぬ寒冬異変なのか梅の開花が遅い. 鶯の声も聞こえない. いつもの散歩道に沿って梅ノ木もあるが未だに蕾は膨らんでいない. ただ散歩道沿いの庭にある盆栽の梅だけが満開で気を吐いている. 天気予報に依れば近々暖かい日があるらしいのできっと梅も一気に開花するだろう. 雪のうちに 春はきにけり 鶯のこほれる涙 いまやとくらん 藤原高子(たかいこ) 古今集 この散歩道には桜の古木が140本、約2kmほど並んでいて3月末頃はそれは見事に花を咲かせている. 然し1956年に植樹されたのでもう古木となり、強風で倒れる危険から次々に切倒され、前は散歩時に上を向いても枝しか見えなかったが今はくっきりと空が見えるのは良し悪しである. それでも市や近傍の自治会の努力で4年計画で若い桜が植えられ、新しい散歩道が造られるのでその完成を楽しみに工事中の散歩道を歩いている. 石いわ)激(ばし)る 垂水(たるみ)のうへの さわらびの 萌え出づる 春になりにけるかも 志貴皇子 万葉集 弥生3月は卒業式の季節. 私の小さい頃は小学、中学、高校の卒業式では先ず送り出す側が 「蛍の光」 を歌い、続いて卒業生が 「仰げば尊し」 を歌うのが定番だった. 大学の卒業式には出席したが式次第は覚えていない. はっきり記憶しているのは、卒業式終了後卒論の担当教授のお宅に同じ卒論講座の卒業生(6人)が伺い卒業を祝っていただいた事である. 今やこれらの歌は前世紀の遺物となってしまったのだろうか? 「蛍の光」はスコットランド民謡「Auld Lang Syne,オ−ルド ラング ザイン」に起因しているそうだが、「仰げば尊し」は米国の「Song for the Close of School」が原曲らしい. 小学校唱歌 「蛍の光」 螢の光、窓の雪、書読む月日、重ねつゝ、 何時しか年も、すぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く。 スコットランド民謡 [Auld Lang Syne ] (1) Should auld acquaintance be forgot, and never brought to mind ? Should auld acquaintance be forgot, and auld lang syne ? (CHORUS) For auld lang syne, my dear,for auld lang syne, we'll tak a cup o' kindness yet,for auld lang syne. ---------------------------------------------------------- 文部省唱歌 「仰げば尊し」 仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも はや幾年(いくとせ) 思えばいと疾(と)し この年月(としつき) 今こそ別れめ いざさらば 「Song for the Close of School」 We part today to meet, perchance, Till God shall call us home; And from this room we wander forth, Alone, alone to roam. And friends we've known in childhood's days May live but in the past, But in the realms of light and love May we all meet at last. 「蛍の光」は主として別れの場面で歌われ、演奏される事が多いように思う. 未だ青函連絡船が青森と函館を結んでいた頃は出港の度にドラの音と共に「蛍の光」を聞いた. 大学の休みで札幌と両親の待つ故郷を往復する度に聞いた. 「仰げば尊し」の歌詞にある いざさらば を口ずさむと、小学校、中学校、高校、大学で共に学んだ級友の中で卒業以来一度も会っていない同期生を想う. まさに卒業式が いざさらば の日になってしまったのだ. 消息も分からない皆、今どうしているのだろう? 1月下旬、もう冬には滑ることも、訪れることもないだろうと 「さらば」 を告げようと、スイスのGrindelwaldに3回目の訪問をした. 三浦雄一郎氏のように80歳でエヴェレストに登ろうとする気力、体力はもう自分には無いし、無理に滑るとなれば周囲の人達に迷惑を掛けるのでそれは避けたいと思うからである. それでもスイスのZurichから同行してくれた友人の若いご夫婦には大変世話になり感謝している. Grindelwald訪問については次回書くことにする. さて東日本大震災が発生して間もなく一年が経とうとしている. 3月11日の午後、私は故郷の福島県田村市に向うべく東北新幹線の車中にいて大地震に遭遇した. 已む無く小山市立第一小学校体育館に緊急避難したことは前に書いた通りである. その際起きた福島第一原発の事故で故郷は(第一原発から真西に約30km)放射線の汚染に晒されて怯えている. 私が亡き両親を介して先祖から受継いだ多少の森や林、田、畑、古い農家などは当分何も出来ず荒れるに任せるしかないのだろう. 先祖や両親の墓参もままならぬことは悲しいことである. 東日本大震災で被災された方々の一日も早い復旧と復興を心から願い、お祈り致します. |
Oberjoch(First) 2500m Grindelwald(スイス) 近郊 2012.01.30 |
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13.ムシデン(離別譜) | 2012.04.16 |
Wetterhorn 3692m 遠望, Grindelwald. 2012.02.03 |
昨日は雨が降り一日中寒かった. 玄関先の桜も満開だった花が散り雨に濡れた地面を真っ白に埋め尽くしていた. 思わず「春雨じゃ、濡れて行こう」というセリフが口から出た. 行友李風作の戯曲「月形半平太」にある有名なセリフを、子どもの頃友達と遊びながらよく口にしたものだ. どうしてこのセリフを覚えたのか全く覚えていない. 数日前、満開の桜が散り始めた花吹雪のなかいつもの桜並木の散歩道を歩いた. ふと次のような文が脳裏に浮かんだ. 「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母様が、「あ」と幽かな叫び声お挙げになった.、、、、」 太宰 治 作「斜陽」の書き出し文である. 何で今頃この文がと思いつつ歩いていると、別の書き出し文を思い出した. 「キリマンジャロは、高さ19710フィ−トの、雪におおわれた山で、アフリカ第一の高峰だといわれる. その西の頂きはマサイ語で”神の家”と呼ばれ、その西の山頂すぐそばには、ひからびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている.、、、」 ヘミングウエイ 作 「キリマンジャロの雪」の書き出し文である. (Kilimanjaro is a snow-covered mountain 19710 feet high, and is said to be the highest mountain in Aflica. Its western summit is called the Masai"Ngaje Ngai", the house of God. Close to the western summit there is the dried and frozen carcass of a leopard,,,,,) [ The snow of Kilimanjaro] by Ernest Miller Hemingway 何故高い山の頂に豹が登ったのだろうかと単純に不思議に思ったのでこの書き出しを覚えているのだ. そう言えばあの頃は、つまり18歳前後の頃、ヘミングウエイ の「老人と海、The Oldman and the Sea」とか「誰が為に鐘はなる、For whom the Bell Tolls」 やモ−ム(William Somerset Maugham) の「雨、Rain」とか「赤毛、Red]とか「月と六ペンス、The Moon and Sixpence」 などを貪り読んだ. はたまた難しくて分からないぞと先生に言われながらも オルダス・ハクスリ−「Aldous Leonald Huxley」の著書に挑んだが何を読んだか覚えていない. それからシェイクピア(William Shakespeare) に移り、「ロミオとジュリエット、Romeo and Juliet」や「ハムレット、Hamlet」や「マクベス、Macbeth」などを読んだ. 然し彼の文章には現在使用されてない単語、つまり日本流に言えば古文、がかなりありとても難しく最終的には易しい英語に直した文章を読んだ. 余談だが引退してからハムレットの舞台になったデンマ−クのHelsingorにあるクロンボ−城(Kronborg Slot)に5〜6回は通った. 英語を読むのに疲れると 三木 清 の 「哲学入門」 に挑戦したがさっぱり理解出来なかった. それでも「哲学」の本を少しかじって、現世に彷徨う魂の行く末を見極める試行錯誤の世界の入口を見たような気がした. 我が青春万歳! [祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ] 平家物語の書き出し文. 満開の桜の木からは花びらが雪のごとく落ちてくる. 道も真っ白になりあたかも雪道を歩くが如しである. そろそろ往復3kmの散歩道も終わりに近づいた. 昨年夏ごろ来春は(つまり今年のこと)スイスのGrindelwaldへスキ−に行こうと決めた. ここ数年白内障を患い、日常生活には殆ど問題ないのだが、スキ−の時は日光が射さない曇天や雪降りの日には雪面や周囲が真っ白になり、とても滑ることが難しくなっていた. 日が射している限り雪面が良く見えて快適に滑ることが出来た. 医師に勧められても手術を受ける決断がつかず今日に至っている. かてて加えて加齢のせいか動作がスロ−になり靴やスキ−の着脱に時間がかかり、転んだら一人ではなかなか起き上がれない等同行者に迷惑をかけることが多くなった. それなら引退後初めて行った、いろいろな想い出のある(既述)、Grindelwaldへ3回目の訪問をして長年憧れてきたアルプスのスキ−に終止符を打とうと考えた. 同行者を募れば迷惑を掛けるだろうと思い単身で出かけ、転倒した時の助けや、家族を安心させるために、現地でガイドを頼む積りだった. スイス在住の若い友人夫妻へのメ−ルにそのことを書いたら、親切にも生後10か月の赤ちゃんともどもGrindelwaldへ連れて行き一緒に滑って呉れることになった. 感謝、感謝、多謝である. ドイツ語を今更にわかじこみで勉強しても間に合わないので何とか錆びついた英語でコミュニケ−ションを取らせて貰うことにした. 2012年1月下旬Amsterdam経由で約2週間の一人旅(尤もスイスのZurichとGrindelwaldでは大人3人赤ちゃん1人の4人旅)に出た. Grindelwaldでは案の定曇天の日には殆ど滑れなかった. 周りが真っ白になるのでコ−スの端が分からず雪の壁に突っ込んだこともあった. そうなると近くで滑っていた人達が大急ぎでやって来て、Are you OK?と声をかけてくれた. 然し曇天ばかりではなかった. 日が射すと雪面が良く見えて気分よく滑ることが出来た. 我が人生、もうここで滑ることはないと思うと少し感傷的になり、思わずムシデンを口ずさんだ. 大学生時代に山スキ−の合宿で盛んにこの歌を合唱した. その時は歌の意味なぞ分からぬままひたすら合唱した. 「Muss i’ denn」 ドイツ民謡 作詞、作曲、和訳者 不明 Mus i' denn, mus i' denn Zum Stadtele hinaus, Stadtele hinaus, Und du, mein Schatz, bleibst hier. Wenn i' komm, wenn i' komm, Wenn i' wiederum komm Wiederum komm Kehr i' ein, mein Schatz, bei dir. Kann i' auch net allweil bei dir sein, Han i' doch mein Freud' an dir. Wenn i' komm, wenn i' komm, Wenn I' wiederum komm, wiederum komm, kehr i' ein, Mein Schatz bei dir. 行かねばならない 行かねばならない 町を出て 町を出て 恋人である君をここへ残して 戻って来られたならば 戻って来られたならば もう一度戻って来られたならば もう一度戻って来られたならば 私は帰る 恋人である君のそばへ 君のそばにいられない時でさえも 私にとっては君のそばにいられることこそ喜び 戻って来られたならば 戻って来られたならば もう一度戻って来られたならば もう一度戻って来られたならば 私は帰る 恋人である君のそばへ 山合宿では、ドイツ民謡の「Lore」やイタリア民謡の「山の大尉」なども大声で、輪唱で歌った. Grindelwaldには土曜日INの土曜日OUTで1週間Chalet(貸別荘)にあたかも合宿のように4人で滞在した. おぼつかない英語でも毎日十分話が出来て、尚且つ10ケ月の赤ちゃんに遊んで貰い、楽しく過ごさせて貰ったことで、忘れ得ぬ思い出を作る素晴らしい旅となった. 帰路はLuzernまで車で送ってもらい、そこで別れを告げ再び一人旅となった. 丁度寒波襲来でGrindelwaldを発つ日は朝方の玄関先で零下18度だった. Luzernも寒くとても市内観光をする気分にはなれなかった. しかし折角観光しょうと寄ったのだからと1時間位歩き、1333年に造られたヨ−ロッパ最古の木造橋、「カペル橋、Kapellbruecke」を渡ってホテルへ逃げ戻った. 帰宅してつくづく考えた. もうアルプスでは滑らないがもう少し滑りたいと. 日本で滑ることにして、ニセコアンヌプリでのんびり滑るたいと. それならば白内障を何とかしないといけない. 丁度免許証の更新も9月にあるのでそれに間に合うように一大決心をして両眼の手術を受けることを決めた. |
カペル橋(Kapellbruecke) Luzern (スイス) 2012.02.05 |
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14.国破れて | 2012.07.01 |
福島第一原発の真西約30kmにある無人の我家 2012.06.01 |
国破山河在 国破れて山河在り 城春草木深 城春にして草木深し 感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ 恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 烽火連三月 烽火 三月に連なり 家書抵万金 家書 万金に抵る 白頭掻更短 白頭 掻けば更に短く 渾欲不勝簪 渾て簪に勝えざらんと欲す 杜甫の五言律詩 「春望」 昨年3月11日に大地震と津波が来襲した時、私は故郷の福島県田村市に向かうべく東北新幹線に乗っていた. 車中で地震に遭遇し故郷に辿り着けなくなり栃木県小山市に避難した. その後やっとの思いで帰宅することが出来た. あの時以来一度も故郷に行かず、両親、祖父母、先祖などの墓参にも行かず、私が受継いだ農家等の様子も分からなかった. 一度大地震を経験するともう新幹線に乗るのも恐怖心が先に立ち逡巡してしまった. やっと心を決めて5月末から田村市の山あいにある我が家を訪ねた. 亡き両親から受継いだが今はもう8年以上も無人の状態である. 地震の影響で漆喰の壁が崩れ落ちた場所が数か所あり、更に棚も落ちたところがあった. 背戸(裏山)の木も数本大分傾き、屋根にかかりそうになっていた. もう人が住むことは無いと思っているが、代々続いた家なのでこの先どうしようかと悩んでいる 家の周りは草が生い茂り、正に荒れ放題である. 流石に恥ずかしくて、田村市のシルバ−人材センタ−に頼んで草刈を行って貰っている. 因みに上の写真で右奥が古い農家、中央右が風呂場、中央左奥の黒い小屋が米蔵(昔籾を貯蔵していた)、左のビニ−ルハウスのある畑は隣家に使用して貰っている. 背戸(裏山)の木々の殆どは雑木なので薪くらいにしかならない. 墓所には両親、祖父母、戦争で若くして亡くなった叔父、先祖代々の4柱の石碑がある. 私が数年前に地震に備えて全て基礎から直したので何の被害も受けてなかった. 頃は6月初め、鶯が啼き、蛙が鳴くのを聞くととてもゆったりした気分になり暫し喧噪の社会を忘れてしまった. はっと我に返り思うのは杜甫の詩 「春望」 の書き出しであった. 安禄山の反乱で、国が壊され、秩序も破棄され、機構も破られ、人々の拠りどころは全て無くなってしまった.それでも山や河は昔変わらぬ姿を見せている. 自然を除いてありとあらゆるものが破壊され、国は破れてしまった. 余りの悲しさで白髪をかきむしる度に髪は薄くなり簪を支えることも出来なくなった. と 杜甫は 「春望」 に書いた. 翻って現在の我が国はどうだろう. 昨年3月の東日本大震災で東北地方は海岸沿いに壊滅的な被害を受けた. 然し被災者の方々はボランテアの助けも借りて何とか回復を図って来た. 多くの被災者を抱える県、市、町、村の行政府もまた復旧、復興に全力を出している. 国や国会議員の仕事、働きはどうだったか? 国は破れていない. 山河も在る. 故郷に来て思うのは、色がついていないので簡単には分からないが、空を飛び而して地上に舞い降りた原発事故による放射能の汚染の現状である. 故郷の他の方達もそうだが、私の田、畑などは立ち入り可能だが、心から安心して作付が出来る日はいつ来るのだろう. 一刻も早く復興の小槌の音が高らかに聞こえてくることをひたすら願うのである. 雨は降る降る 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨が降る 雨は真珠か 夜明の霧か それとも私の 忍び泣き 「城ケ島の雨」 作詞:北原白秋 作曲:梁田 貞 関東地方は6月9日に梅雨入りした. 最近の梅雨はひたすら雨が降る日と快晴の日が入り混じり長い年月を歩んで来た私などには梅雨と言われても印象が異なり、梅雨の最中という実感が湧かない. 梅雨のイメ−ジは,連日朝から夜までしとしとと雨天が続く日々のことだ. 大雨でない限り、傘をさしてでも、毎日3〜4kmのWalkingを行っている. 散歩というと何かのんびり歩いている感じがするので、最近は主にWalkingという言葉を使い一生懸命歩いていると自己満足している. 梅雨どきに歩くと色とりどりに咲いてる「紫陽花(あじさい)」がそこここに見受けられる. 先日の朝日新聞の「天声人語」で触れていたが、紫陽花の学名は「Hydrangea」といい「水の容器」という意味だそうだ. 梅雨の言葉で紫陽花を思い浮かべるのは私だけではないだろう. 亡き母がよく好きな花は紫陽花と言ってたことを思い出す. 「紫陽花や 藪を子庭の 別座敷」 松尾芭蕉 遠くの方から聞き覚えのあるピアノの曲がゆっくりと聞えて来た. 次第に大きくなる音につられて曲名を思い出そうとした. 今自分はどこにいるのか見当がつかない、不思議な感覚に襲われた. やっと分かった. 娘の家に来ていたのだった. ピアノは小学三年生の孫娘が弾いていた. 曲名はGrieg (Edvard Hagerup Grieg) 作曲のピアノ協奏曲第一楽章だった. そういえば数年前ノルウエ−のBergenに行った時、郊外のTroldhaugenにあるGriegの家に行き、湖に面した小さな小屋(そこで作曲に明け暮れていた)を訪れたことを思い出した. 娘宅に来てうっかり昼寝をしてしまった或る梅雨の日のことだった. ここ数年は専ら桜並木の散歩道でWalkingに精を出している. この散歩道を見つけるまでは我が集合住宅の前にあるゴルフ場を一周していた. 然し周回道は車の往来があり落ち着けなかったが、近くに人と犬と自転車だけの散歩道を新しくみつけたのでもうゴルフ場一周はしなくなった. 4階の私の部屋の窓からゴルフ場が見えるが、高い所からの眺めはどうかと思い5月の晴れた日に12階にある展望デッキに上がってみた. ゴルフ場はその通りゴルフ場にしか見えないが、相模原市と大和市に跨って属し、展望デッキがある我が集合住宅は座間市に属している. つまり私は数分歩けば座間市から相模原市や大和市に行ける. 日本は島国だがら国境の向こうは海だけれど、例えば欧州では陸(地)続きで家と家の間に国境線があったり、或いはひょっとして家の中とか、庭に国境線があるのだろうかなど想像している. 多分国境近くでは国境を接する国々両方の言葉が通じるのだろう. |
我が集合住宅の展望デッキから見下ろす相模カンツリ−クラブ 2012.05.24 |
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15.心の旅 | 2012.08.24 |
Ingrid Bergman "Adam Had Four Sons, 1941" (wikipedia public domain) |
福島県立磐城(いわき)高校の同級生の仲良し7人(いわき市3名、東京都1名、神奈川県3名)で毎年1回温泉旅行に出かけている. 今年は10月に「花巻温泉・平泉」を訪問する. 札幌の大学(北海道大学)で学んだので休みで帰省する度に東北本線の平泉を通過していた. 一度で良いから途中下車して中尊寺や金色堂を目の当たりにしたかったが実現出来なかった. 故郷の家の縁側の先に桐の木が1本立っていた. 学生の頃夏休みで帰省して、9月も間近になると、再び家を離れ札幌へ戻る頃と思い、縁先でひぐらし(鳴き声からカナカナ蝉と呼んだ)の声を聞き、夏の終わりを感じていた. 桐の木を眺めていると、時には大きな桐の葉がふわっと落ちるのを見て天下の秋も近いと感傷的になった. 桐と言えば、中国の「淮南子(えなんじ、思想書)」 に 「 一葉 落ちて天下の 秋を知る 」 という文言がある. その後日本の豊臣政権時代に淀君に疎まれ解任された 片桐且元 が 「 桐一葉 落ちて天下の 秋を知る 」と詠った. 大阪城落城の故事として知られている. 後に坪内逍遥の戯曲(歌舞伎「桐一葉、きりひとは」)がある. 縁先の桐一葉が落ちるのを見て、栄華の衰退を感じ、札幌への途中通過する平泉で松尾芭蕉が詠んだ句を想うのであった. 夕暮れ時に聞くひぐらしのカナカナと鳴く声で感傷的になった. あの頃から既に50年以上も過ぎたがやっと今秋平泉を訪問出来ると思うと感無量である. |
夕立の 雲もとまらぬ 夏の日の傾く山に ひぐらしの声 古今和歌集 式子内親王 暮がたき 夏のひぐらしながむれば そのこととなく 物ぞ悲しき 続(しょく)古今和歌集 在原業平 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 (平泉) 松尾芭蕉 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 (立石寺) 松尾芭蕉 |
ところで上の句の「夏草や、、、」は平泉で奥州藤原氏滅亡の500年後に松尾芭蕉が詠んだ句であり、「閑さやは、、、」も誰でも知っている芭蕉の有名な句である. 閑さや とか 静けさや とか 静かさや とか諸説紛々らしい. 数年前に訪れた山形県の山寺「(別称 立石寺[りっしゃくじ])」で詠まれた句であるが、蝉の種類で斉藤茂吉(昭和初期の歌人、山形県出身) と 小宮豊隆(夏目漱石門下、芭蕉研究家) の大論争となった. 斉藤はアブラ蝉を主張し、小宮豊隆はニイニイ蝉を主張した. 結局ラチがあかず現地調査をした. 句が出来た新暦7月13日にはアブラ蝉は鳴いておらずニイニイ蝉の勝利となった. 今外界(隣のゴルフ場)では蝉の鳴き声がとても賑やかである. 先ずミンミン蝉の大合唱から始まり、何時の間にやらアブラ蝉が引き継ぎ、幽かにヒグラシの声も聞こえる. 夕暮れどきにはつくつく法師も加わった. 連日30℃を超える暑さで茹だっているが、蝉にとっては僅かな日々しか生きられない「生の証し」だろうと思えば煩いとはとても言えない. 最近旧い映画を数本TVで見た. Casablanca (カサブランカ、Ingrid Bergman、Humphrey Bogart), Breakfast atTiffany's(テイファニ−で朝食を、Audrey Hepburn, George Peppard), Sabrina(麗しのサブリナ、Audrey Hepburn, Humphrey Bogart)である. Casablancaのテ−マ曲 [as time goes by (時の過ぎゆくまま)] や Breakfast atTiffany'sでヘプバ−ンが歌っていた「Moon River」などを聞きながら昔を懐かしみつつゆっくりと見た. |
You must remember this A kiss is still a kiss, a sigh is just a sigh The fundamental things apply As time goes by And when two lovers woo They still say, "I love you" On that you can rely No matter what the future brings As time goes by Moonlight and love songs Never out of date Hearts full of passion Jealousy and hate Woman needs man And man must have his mate That no one can deny Well, it's still the same old story A fight for love and glory A case of do or die The world will always welcome lovers As time goes by Oh yes, the world will always welcome lovers As time goes by |
これだけは覚えていてほしい キスといえば、キスをすることだし 溜め息といえば、やっぱり溜め息をつくこと つまり大切なものは何も変わらないんだ 時が流れようとも... そして恋人同士はいつの時代も “愛している” と囁き合う だから信じることが出来るのさ この先どんな未来が待ち受けていようとも 時が流れようとも... 月の明かりや愛の歌は 決して時代遅れになりはしないし、 嫉妬や恨む心だってなくなりはしない 女は男を必要とし、 男もまた女を求める これは誰にも否定することなんて出来やしないさ それが昔から続く変わらぬ物語 愛と名誉のために闘い、 生きるも果てるも、 愛し合う者たちはこれからも皆から祝福される 時が流れようとも... |
Moon river, wider than a mile I’m crossing you in style some day Old dream maker, you heart breaker Wherever you’re going, I’m going your way Two drifters, off to see the world There’s such a lot of world to see We’re after the same rainbow's end Waiting round the bend, My huckleberry friend Moon river and me |
ム−ン・リバ− 水面に広がる遥かなる月影の河 私は、この「あなた」という河の真ん中をいつか堂々と渡ってみせるわ その昔・・・夢をくれたのもあなた そして何も言わずに去って行ったのもあなた でも私はあなたの行くところなら たとえどんな所だって追いかけていくわ 私たち二人 今日もそれぞれどこかの世界をさまよう旅人 こんなにも知るべき世界があったのね でも結局最後は私たち あの同じ虹の向こうできっとまた会える だから、あのムーン・リバーを越えた 虹の角あたりできっと待ってて 私の親愛なる友だち ム−ン・リバ−・・・あなたと私 |
これらの映画を初めて見たのは多分大学生か、卒業して東京で会社勤めを始めたばかりの頃だと思う. 外国に行くなど夢の更に夢の時代だったから、とても新鮮な印象を受けた. イングリッド・バ−グマン
の知性を感じさせる美貌と情熱的な演技を素晴らしいと思った. 彼女に初めて会ったのは(映画で)ヘミングウエイの作品を映画にした「誰(た)が為に鐘が鳴る、For whom the bell tolls」 だった. オ−ドリ−・ヘプバ−ンがアメリカ訛りではない英語を話し(英国人である)気品あふれる女性として「ロ−マの休日、Roman Holiday」で演じた姿に魅せられた. ハンフリ−・ボガ−トのトレンチコ−トに身を包み、ソフト帽を被ったタフガイのイメ−ジに憧れた. まさか映画を見て数年後に会社の初めての海外駐在員としてイングリッド・バ−グマンの国(スウエ−デン)に駐在し、頻繁にオ−ドリ−・ヘプバ−ンの国(英国)や、ハンフリ−・ボガ−トの国(アメリカ)を訪れ仕事をしようとは考えもしなかった. 1964年ストックホルムに赴任することになった. 当時は1$=\360の時代で、今日のようなガイドブックなどは全く無く何の知識もなく出かけた. それでも「ロ−マの休日」で見たスペイン広場の光景から似たような感じかと思った. しかし全く異なり、言葉(スウエ−デン語)も分からぬままの手探りのスタ−トだった. 後日数回ロ−マのスペイン広場に行ったが映画から予想したほど広くはなく一寸がっかりした. 今は昔をただ懐かしむことしか出来ないのは、考えれば悲しいことである. 大学生のころの自分は、何も分からなかったままに、それでも未来(将来)には輝かしい何かが待っていると信じていた. 勉強に疲れても、仕事が大変でも先の人生輝いていると思えば苦労ではなかった. いつまでも、いつまでも、未来は未来. 旧くを偲べばそれだけ未来が輝く.
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16.勿忘草 | 2012.10.28 |
中尊寺境内にある松尾芭蕉の像(芭蕉翁像云々の碑の写真と合成) 2012.10.11 |
或る晴れた秋の日の昼下がり、いつもの散歩路には人影がなく、秋とはいえ猛暑が続いた為か人々は外へ出るのを拒んでいるようだった. 然し自然は素直に季節の花々を咲かせていた. 歩きながら色鮮やかに咲いている花々の名前はコスモス以外は全く知らない. 不思議なことに突然 「勿忘草(わすれなぐさ)」 という名前を思い出した. 勿論これまで現物に出会わせたことは全くない. この言葉でオ−ストリアのウイ−ン出身の女優 Romy Schneider を思い浮べた. 然し彼女と勿忘草とは何の関係もなく,音楽映画 「Vergiss
Mein Nichit(忘れな草)」 の Sabine Bethmann と混同してしまった. 何故思い出したかただ不思議に思うだけだった. シェ−クスピア作の喜劇形式の戯曲に 「夏の夜の夢、A Midsummer Night's Dream」 があるが、作品にある、夏至の夜に妖精が集う森、に夏ではなく秋に出向き妖精に会ったような気分であった. 多分暑さで思考回路がおかしくなったのだろう. 因みに英語では Forget-me-not,ドイツ語では Vergissmeinnichit でありこの花は欧州から輸入され名称もそのまま和訳されたことが分かる. 忘れ草 我が紐に付く香具山の 古(ふ)りにし里を 忘れむがため 大伴旅人 万葉集 古典和歌には「勿忘草」とは正反対の「忘れ草」を詠った歌があるが、「勿忘草」は見当たらないようだ. 念願叶って岩手県平泉町を訪ねることが出来た. 「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也、、、、、」は松尾芭蕉が書いた日本を代表する紀行作品集である「おくのほそ道」の序文である. 芭蕉は1689年5月16日、弟子の可合曽良を伴い、江戸深川の採茶庵を出発し凡そ2400km,150日に渡る旅に出た. その旅の現岐阜県大垣市までのことを書いたのが「おくのほそ道」である. 私は「おくのほそ道」に出てくる奥州藤原氏繁栄の象徴である中尊寺に参り、松尾芭蕉の句に浸りたかったのだ. 芭蕉は平泉で「国破れて山河あり、城春にして草青みたり、、、」という杜甫の詩を思い浮べ、藤原氏三大の栄華を金箔で覆われた金色堂(現国宝)に見い出し 五月雨の 降り残してや 光堂 と詠んでいる. また義経終焉の地 高舘 では義経非業の死を悲しみ 夏草や 兵どもが 夢の跡 と詠んだ. 藤原家の偉業に感嘆し、義経の悲運に栄華の後の儚さを知って詠んだのだろう. 秋の東北路、平泉は晴天には恵まれず小雨ぱらつく薄曇りだった. 然し反ってその天候の方が良かった. 落ち着いた静寂の中、静かに参道を歩き往時の繁栄を偲ぶのに似つかわしい感じがした. 翌週は伊豆半島に出かけた. 1962年同期入社の、かっての同僚達と年に一度の旧交を温める旅に参加した. 名所旧跡を訪ねた後に 浄蓮の滝 に行き着いた. 伊豆と言えば先ずは川端康成の短編小説 「伊豆の踊子」 を思い出す. 滝の近くに、この作品に出て来る学生と踊子の像があるが実際には 「伊豆の踊子」 には浄蓮の滝は登場してないと思う. 川端康成は、湯ヶ島の旅館に4年半滞在して1926年にこの短編小説を発表した. 1968年日本人初のノ−ベル文学賞を受賞した. 丁度その頃私はスウエ−デンに住んでいたので、日本大使館の要請で現地の川端康成受賞歓迎委員を務めた、と思っていた. 然し1968年には帰国していたのでよくよく考えると、1965年にノ−ベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士の受賞歓迎委員を務めたのだった. 何回も会合を重ねたが、授賞式直前に博士は風呂場で転んで足を骨折したので式には出席出来ず、歓迎委員会も解散となった. 浄蓮の滝と言えば、演歌好きでない私も 石川さゆり が歌う 「天城超え」 は知っている. 天城峠は静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境にあり、天城峠を超える旅路が天城超えである. 峠の下を貫通する旧天城トンネルは「伊豆の踊子」にも登場している. 「伊豆の踊子」がとても有名な作品なので、「天城超え」は何か「伊豆の踊子」に関連して作られた歌かと思った. 然し下に記した歌詞を読む限り、孤独に悩む学生(第一高等学校生)の淡い恋心と旅情を書いた作品とは、あまりにもかけ離れた世界を描いた歌であり、全く関係がない. 強いて共通点と言えば天城峠を超える旅路が、直接的か比喩的かの違いがあるが、書かれ、歌われていることだけだろう. 「天城超え」 歌: 石川 さゆり 作詞: 吉岡 治 作曲: 弦 哲也 隠しきれない 移り香が いつしかあなたに 浸みついた 誰かに盗られる くらいなら あなたを殺していいですか 寝乱れて 隠れ宿 九十九(つづら)折り 浄蓮(じょうれん)の滝 舞い上がり 揺れ堕ちる肩のむこうに あなた・・・山が燃える 何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え |
浄蓮の滝 (説明看板の写真と合成) 2012.10.16 |
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17.除夜の鐘 | 2012.12.31 |
横浜 みなとみらい の夜景(1) 2012.11.10 |
冬は、つとめて.雪の降りたるはいふべきにもあらず.霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし.昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし. 春は、あけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる. 上の文は言わずと知れた清少納言の随筆 「枕草子」 の書き出しである. 実際の文章の順序は春から始まり冬に終わる. 然し今は冬、新年を目前にして大雪に見舞われている地方もあり、いきなり春の気分には浸れない. 冬はつとめて. つまり冬は早朝が良いとある. 確かに未だ薄暗きところに燦然と日が上がるのを寒さに震えながら眺めるのは気分の良いことである. ただ今年も押し詰まりそんな呑気なことなど言えず、人は新年を迎える準備でさぞや気忙しいことだろう. 正月を迎える準備と言えば、大掃除をして鏡餅を供え、松飾りをする事など習慣として行なって来た. 近年近所を見回すと玄関に松飾りなどない家も見受けられる. 10年前くらいまでは私も車に松飾りをしたものだが、今春よくよく観察したら殆どの車に松飾などなかった. 除夜の鐘は寺院の梵鐘を108回つくが、何故108回かといえばそれは煩悩の数というのが一般的な解釈である. 自分としては煩悩というより、この鐘の音を聞くと無性にこれまでの生き様を想い昔を懐かしんでしまうのである. 物心がついたのは5〜6歳の頃か(然し何事も殆ど覚えていない)、戦争で父を川崎に残し家族3人で福島県三春町に疎開したこと、食べるものがなくどんぐりの粉まで食べたこと(苦くてとても口に入らなかった)、 通っていた小学校が火事で全焼し午前の部、午後の部と別れた二分学級になったこと、父親の転勤で移った中学校でいじめられたこと、高校では四当五落(4時間しか寝ないで勉強すれば合格、5時間以上寝れば不合格)を合言葉に寝食を惜しんで勉強したこと、大学では寮生活を楽しみ毎日夜半まで議論をしたこと、真面目に授業に出たが山岳スキ−にうつつを抜かしたことなど. そして想う、日頃会うこともない友は何をしているだろうかと? 明日知らぬ 我が身と思へど暮れぬ間の けふは人こそ悲しかりけれ 朝露の おくての山田かりそめに 憂き世の中を思ひぬるかな 紀貫之 古今和歌集 年が明ければ気分も晴れて爽やかに新年の抱負なぞ考え始める. 春は、あけぼの が良いと清少納言は書いたが、私は春と言えば童謡・唱歌の「春よ来い」を思い浮べる. 童謡・唱歌 春よ来い 作詞: 相馬御風 昨曲: 弘田竜太郎 春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている 春と言えば心が温まるような、齢を忘れて輝かしい未来が待っているという期待感があり心ウキウキとなる. 私の一番好きな歌 「早春賦」 は心ウキウキとはかけ離れた、辛い気分にさせられた歌である. 大学の受験勉強がうまく行かず憂鬱な日々を過ごしていた頃、雪道を歩きながらいつも口ずさんでいた. 今でも青春を思い浮べさせる最高の歌として心に残っている. 唱歌 早春賦 作詞: 吉丸一昌 昨曲: 中田 章 春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず 今春のスイス、Grindelwaldでのスキ−の際に降雪時や曇天下で雪面が良く見えなかった. 恐らく患っていた白内障のせいだと自分で勝手に決めつけて夏に白内障の手術を受けた. 新年1月末に北海道のニセコアンヌプリで滑って手術の結果を確かめることにした. 間もなく新しい年を迎えようとしています. 今年も私の拙い文章を読んで頂き有り難うございました. 新年もどうぞ宜しくお願い致します. 新年が健康に恵まれ幸せな年でありますように心からお祈りいたします. |
横浜 みなとみらい の夜景(2) 2012.11.10 |
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