記憶を辿って |
今更ながらだが、齢を重ねた現在記憶力にも衰えが来たようだ. そこでこの際、私ごとを書くのも気が引けるが、大げさに言えば記憶力に挑戦し自分の過ぎし跡を辿ってみたいと思うようになった. ちょっと専門的なところもあるが、しばしお付き合い下さい. 尚文中に気晴らしとして配置したスイスの写真は[ グリンデルワルド日本語観光案内所 ] のご好意により提供されたものです. |
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(1).卒業論文 | 2004/04/26 | |
(2).しょうゆ油 | 2004/06/05 | |
(3).NC(数値制御)工作機械 | 2004/07/05 | |
(4).NC(数値制御)工作機械(その2) | 2004/07/31 | |
(5).金型加工 | 2004/09/02 | |
(6).4 POSTER | 2004/09/26 | |
(7).記憶 | 2004/11/01 | |
(8).読書(古典) | 2004/12/06 | |
(9).読書狂い | 2005/01/01 | |
(10).言葉 | 2005/02/01 | |
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1.卒業論文 | 2004年04月26日 |
随分昔のこととなったが、1958年(昭和33年)、北の国の大学に入学した. 入学時は大きく文類、理類、水産、医類に分けられていて、私は理類の学生となった. 1年半後に希望とそれまでの成績により、工学部、農学部の各学科、獣医学部へと分かれた.そして工学部の、創設間もない精密工学科1期生30名の一人となった. 時間さえあれば滑ったり、山歩き(といっても近くの山だけ)ばかりしていたので自分は勉強熱心な学生ではなかったと思っている. ただ工学部では最初の1年は午後は毎日実験があり、そのレポ-ト書きで大変だったので、余り時間に余裕はなかった. 教養部(理類時代)の同級生に野鳥の研究がしたいと、農学部林学科に進んだ者がいた. 彼は国立公園のレンジャ-(管理官)になって目的を達した. 私は精密工学科に進んだが確たる将来の目的が掴めずこの友人が大変羨ましかった. 勉強はしなかったが、授業では真面目に講義を聞いた. 手元にまだある「精密加工学第一」、「機械設計学」、「精密機器設計特論」、「機械振動学」などなどのノ-トにはびっしりと書き込みがあり、夫々が参考書として出版出来そうなほどである. 数ある講義の中で「機械振動学」や「機構学」などは大変難しかった. 精密工学の講座内容から、機械工学科の「材料力学」や「熱機関」等、電気工学科の「電気回路理論」や「電気工学」等々の講義も受講した. 自分に限っていえば、あとでこれら他学科の講義が工作機械メ-カに就職した我が身には大変役に立った. |
Wetterhorn と 村の教会( 2004.01.03 ) | Wetterhorn 3701m ( 2004.04.01) |
卒業するには卒業論文が合格しなければならない. 当時精密工学科には「精密加工学講座」、「精密機器学第一講座」、「精密機器学第二講座」、「自動制御工学講座」、「物理工学講座」の5講座があり、学生はこれらの講座のどれかに入って卒業論文を完成させた. 私は三年目学生の時工作機械メ-カ-に実習に行ったり、卒業後そこに就職する予定だったので「精密加工学講座」に入って卒論に挑むことにした. 余談だが当時は就職難などとはかけ離れていて、30名の卒業予定者に対して300社以上の求人があり、四年目学生になると同時に就職希望者は行き先が内定した. 私の卒論は「刃物形状の変更による切削工具性能の改善--試作せる新型工具の切削特性を中心として--」というタイトルである. 四年目学生の秋に講座担当教授に相談してテ-マを決め、秋から卒業直前まで講義はなく、ひたすら夜遅くまで実験をし且つ論文の推敲に努めた. 合格する為には定められた期限内に完成、提出し、教授、助教授の前でプレゼンテ-ションを10分内で行って論文審査の合格を受けることであった. 所定の、大学名の入ったA4サイズの論文用紙100枚以上の論文を級友と二人で書き上げた. 提出期限は何時だったかもう定かではないが、確か国立1期校の入学試験の頃だったから、3月3日か4日だったと思う. 論文は最初にPrefaceとして英文で序文を書くことになっていた. その後は緒言から始まり全て日本文である. また余談だが、後年工作機械メ-カから米国の材料試験機メ-カに移ったら、Director's Summaryという言葉に出会った. つまり機械やシステムの売り込みには膨大な量の資料を提出するが、客先の多忙な担当役員に理解して貰う為に要約した説明文を冒頭に添付する. 卒論のPrefaceみたいなものだと思った. 因みに日本での営業活動にはDirector's Summaryの如きものを添付しているだろうか? 提出時間の数分前に滑り込みで提出し一安心したが、審査に合格しないといけない.トリノコ紙に要点を列記し、10分間でいかに上手く説明出来るか、練習に練習を重ねた. 審査の教授、助教授は専門が違うので理解して貰えるように一生懸命だった. めでたく合格したと思ったら、喜びに浸る間もなく卒業式が待っていた. タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
2.しょうゆ油 | 2004年06月05日 |
5月は身辺忙しくて更新出来なかった. 私は元気ですのでご安心を! 材料を加工して製品、若しくは製品を構成する部品を製作するには、切削加工や成型加工などがある. 大学を卒業して工作機械メ-カに入社した. 最初の一年間は、現場実習をした. 色々な仕事をしたが、何といっても驚いたのは、タイトルにある「しょうゆ油」の匂いだった. 現場には金属切削用の種々の工作機械があった. 金属を切削する時には、工具(刃物)と被削材間で発生する熱を抑え、且つ工具の刃先の磨耗を抑える為に、機械加工時にいわゆる切削油(冷却剤)を使用する場合が多い. 現在はともかく、1962年頃は、食用の醤油の搾りかすを切削油として使用していた. この匂いが、煮込んだ醤油の匂いのようで大変臭くまた手などに付着すると簡単には消えなかった. 当時は、軽油も切削油として使われていた. 夏には、帰りの電車内で半袖の手からこれ等の匂いが周りに漂い、何とも恥ずかしかった. 現場実習でとても辛かったのは、一日中立ちっ放しで作業をする事であった. 一日が終わる頃には、足が本当に棒になったような感じだった. 然しこの経験から、40年以上過ぎた今でも、立つことに抵抗はない. |
5月の Wetterhorn (2004.05.03 ) | アイガ−北壁 ( 2004.05.03) |
入社当時は、自動化による省力化が最大の課題であった.その頃は自動化された工作機械と言えばカム制御自動盤や、倣い制御機などがあった. 代表的な機械として水平前後、水平左右、と座標に例えればX,Yの2次元で動く旋盤や上下方向が加わるX,Y,Zの3次元で動くフライス盤がある. カム制御自動盤には、例えば3枚の回転するカム(CAM)に接触している触子が直線状に動くことにより材料又は工具の動きを制御して、求められる形状の部品を加工するフライス盤などがある. このカムの形状が製品(部品)の加工精度に大きく影響した. 機械の精度と合わせて、プラス マイナス 10〜15 ミクロン位だっと思う. カムは円盤状に必要な形状を先ず罫書きする(書く). 熟練した腕がこの罫書き線に沿ってヤスリで曲面を丁寧に仕上げる. この曲面が製品制度になる. 当時は大変な作業だったが、カメラのボデイ加工などには不可欠な機械であった. 倣い制御とは、モデルにトレ-サと呼ばれる触子を当て、常にこの触子の傾き(倒れ)をゼロにするように制御(油圧制御が大半だった)して、モデルと同じ形状の製品を加工した. カム制御機械、倣い制御機械に加え、入社当時の1962年頃プログラム制御機械が開発された. これは電話の交換機を利用して機械を制御した. X,Y,Zの3方向に直線的に動く機械は、移動軸に付いているドッグ(突起物)がスイッチに当たると停止する. 寸法はドッグを移動させて設定する. スイッチが動作すると機械の動きが停止し、電話の交換機が次のステップへ移る. 制御盤上には、碁盤の線のような配線がしてあり、ステップと移動方向の交点にピンを差し込んでおく. 電話の交換機のステップが移る度に、前後、左右、又は上下方向に機械が動く. 写真つきの説明でないと分かりにくいと思うが、実習を終えて最初に携わったのがプログラム制御方式の開発、改良だった. ところで工作機械の世界では、精度を表すのにミクロンを使用している. 実際にはミリメ-トル単位だが、表現は 例えば 10 ミクロン を 1/100 (ミリ)、 1 ミクロンを1/1000 (ミリ)と表現する. インチ採用の国々にも輸出するが、そこでも同じように表現する. 但し 1インチが25.4mm だから、1/1000 インチ は 2.54/100 mm である. 従って2.54 ミクロンは 1/10,000 となり One Tens of Thousand となるが、実際には One Tens と呼ぶ. 1/10 も同じく One Tens となり一寸紛らわしいが精度の桁が違うので間違うことはない. カム制御、倣い制御、プログラム制御の機械では精度は人間が介在する. そこで次の世代の省力化機械として世界で開発されたのが、無人加工を狙った数値制御(Numerical Control)である. 私はこれこそ工作機械業界の20世紀最大の発明だと思っている. NC(Numerical Control)については、次回に譲ることにする. タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
3.NC (数値制御)工作機械 | 2004年07月05日 |
私が自動化機械の開発に初めてたずさわったのが前項で書いたプログラム制御の機械だった. 然し現実には、製品の加工精度は機械固有の精度+機械操作員がセットするドッグの位置で決まるので、完全な自動化とは言い難かった. 入社3年目の1964年にアメリカとカナダに出張した. その時同業のKerney & Trecker (スペルはうろ覚え)社を訪問する機会があった. 工場見学で数値制御のマシニングセンタ(Machining Center、多数の異なる工具を自動交換して製品を加工する機械)を目にして大変驚いた. 数値制御とは、簡単にいえば、工具(刃物)が装着してある主軸の回転数、それの3次元方向( 回転軸や、更にXYZの3次元方向に平行する軸方向 )の移動方向、 送り速度、 位置決寸法、 などを数値で制御することを言う. 現在は機械の可動部分のかなりを制御していると思う. 日本では、英文の Numerical Control からNCと呼ばれた. 諸外国では Computer Numerical Control から CNC と呼んでいたような記憶がある. アメリカで実際に稼動しているNC工作機械を見て驚いたが、日本では私が入社した会社が1958年(頃)世界初といはれた数値制御フライス盤を既に開発していた. ただ実稼動せず研究室に置いてあったのは残念だった. 数値制御工作機械が実用化され工場の現場で稼動出来る為には、主として (1) 機械の優れた、剛性、熱特性(熱変位が少ない)、低摩擦摺動面 (2) 位置決め軸の駆動モータの性能 (3) プログラムの簡単な制御装置 (4) 信頼性の大きい機械と制御装置 (5) プログラミング用ソフトウエアと安価なComputer (後日) 等々の条件を満足する必要があった. |
Kleine Scheidegg 駅から見る Eiger ( 2004.06.07 ) | 夕焼けの Eiger ( 2004.06.07 ) |
1958年(頃)に開発されたNCフライス盤は、磁気テ-プに書き込んだ指令を読取って油圧シリンダを制御し、3軸 (X,Y,Z軸) を同時に動かす制御方式であった. 当時としては画期的な機械であったが、コンピュ-タなどのの電子部品は電気的ノイズに弱く、誤動作の心配があった. 駆動系として油圧サ-ボ( 油圧シリンダ- )が使用されたが、応答性、作動油の温度の影響、サイズと駆動力 等の問題から継続して使用されなかった. 開発が進むと共に、制御装置は、X,Y,Z 方向の直線方向しか制御しないPoint to Point 方式と、3次元同時制御の連続制御(Continuous Control)の2種類となった. 機械の X,Y,Z 軸を駆動するのは、油圧シリンダ-から油圧サ-ボモ-タ, 電気と油圧を併用する電気油圧パルスモ-タ、 電気パルスモ-タ、 電気サ-ボモ-タ などに発展して行った. 機械の位置決めの指令値も、5ミクロン(1ミリの5/1000) から 1ミクロン(1ミリの1/1000) になって行ったが、現在はどうなのだろうか? 機械、制御装置がOKでも、簡単に指令が出来なければ意味がなく、制御装置メ-カ,機械メ-カ、その他のソフトの会社などが競ってプログラミング の ソフトを開発した. 最初は、二次元の曲線を直線と円弧で近似した. 直線と円弧の交点は二次方程式を解いて求めた. その頃は電卓などは普及しておらず全て手計算か、対数表を使用した. プログラムの単位が5ミクロン( つまり1ミリ動かす指令は1000となる )だったので、対数表も7桁でないと足りず、欧州に駐在していた時は大学の図書館まで行って計算した. 指令値は最初は磁気テ-プに書き込んだが、装置が大変で、その後穿孔(センコウと呼ぶ)テ-プが主流となった. 指令値を紙テ-プにパンチャ-で穴をあけ、その紙テ-プを穿孔テープと呼んだ. ところで今は、例えばTVの電源をONにすれば当然のように映像が出るのと同じように、NC工作機械もスタ-トすれば無人で指令通り長時間動く. 機械現場では誰も当然だと思うし、信頼性も大きい. 開発当初は電気的ノイズ(例えばクレ-ンのモーターが回る、近くの機械のモーターが回る時などノイズが飛びNC制御装置に悪影響を与え、結果として機械が暴走した. その頃の、無人運転時に暴走しないかという心配と恐怖感は、忘れることが出来ない.. 余談だが、その後技術部在籍当時、重さ数キログラムもある、真空管方式の電卓を数十万円で会社が購入した. 便利このうえ無しだったが横を向いて運ぼうとして、ギックリ腰になった. それは今でも続いている! 因みに今なら、同じような電卓は数千円で購入出来るだろう. タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
4.NC (数値制御)工作機械(その2) | 2004年07月31日 |
工作機械メ-カ-に30年勤務してその殆どの期間をNC機の開発、応用技術の発展、販売に携わって来た. NCは外国(アメリカ)で最初に開発されたので、使用される用語は英語からの訳か、訳せないものはそのまま使用した. 勿論説明書など初めは無かったので、正確な意味は不明ながら使用していた. 日本工作機械工業会の発案で用語辞典を作成する事になり参加して知恵を絞ったこともあった. 最初に中国に売り込みに行った時は直行便など飛んでいなくて、香港のしんせん(SHEN ZHEN )から徒歩で国境を渡って入国したのを覚えている. 当然ながら中国語訳もなく毎日技術的な説明をしながら、現地の技術者と協議しながら一つ一つ対訳を作っていった. 今でも覚えているが、Backlash (バックラッシユ、歯車の歯面間の遊び)とかPitch Error Conpensation (ピッチ誤差補正)とか、簡単な用語でも新しく作るとなると時間がかかり大変であった. 紙テ-プ(穿孔テ-プ)で与えられた指令通りに機械が動き製品を加工するので、いわゆる無人加工機として省力化に多大な貢献をした. |
アイガ-北壁を眺める ( 2004.06.30 ) | バッハアルプゼ- ( 2004.06.30) |
省力化に目をつけて小企業でもNC機を設備した. 1階の工場でNC機を夜半も稼動させ、2階の居間で監視カメラを見て機械の動きをモニタ-するような例は安心だが、本当の無人で運転している例も多々あった. メ-カ-としてはそれがうたい文句なのだが、プログラムミスまでは売り手は防ぎようがなかった. 先に述べたが、切削時の潤滑油、切削油として軽油を使用している工場もあり、機械がプログラムミスなどで誤動作を起こし、取り付け具や材料に刃先以外のものが接触して高熱が発生し、軽油が点火して火災を起こす事故が何回も起きた. 火災対策の為にも水溶性の切削油が推奨されたが、水なので機械内に浸入して錆びを起こさない対策がかなり難しかった. 30歳の半ば頃かと思うが、FMS(Flexible Machining System)のはしりでエンジンのシリンダ ブロックの加工を4台のMachining Center(NC機に工具の自動交換機能をつけた機械)で無人加工する設備のSystem設計と電装を担当した. 1台の中央コンピュ-タ-で機械に指令を出し全体を制御するSystemで当時は画期的な設備であった. 顧客に搬入する前に工場で多くの客を招きお披露目があったが、いざ運転という時にコンピュ-タ-が突然動かなくなった. ことの重大さに顔面蒼白となり、一瞬どうなるかと思ったが、咄嗟に後ろに回りここぞと考えられる所を蹴飛ばした. 多分接触不良だったのか、それで動きだした. 自己診断機能など対策はされていたが、やはりコンピュ-タ-ですら原始的な方法がいちばん効果的だった. 無人加工による省力化も大切だが、複雑な曲面を加工する精度の良さもNC機の得意技であった. フランスのタイヤメ-カ-の技師が日本に来て、タイヤの曲面を測定するゲ-ジの片側(オス形)をNCフライス盤で加工させた. 私はドイツでDusseldorfの展示場にあるNCフライス盤を使用して、ゲ-ジのメス形を加工した. この技師が持参したオス形と私が加工したメス形がピタリと一致した. それ以来その会社には日本からかなりのNC機械が納入された. タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
5.金型加工 | 2004年09月02日 |
今我々が目にする工業製品の大半は金型を介して製造されていると言っても過言ではない. TV等の家電製品、自動車の大半の部品、化粧品の容器、時計、カメラ、等々、例を挙げればキリがない. 3次元の形状の品物は射出成型機などで成型され、2次元形状ではプレス機で打ち抜かれて完成する. 数値制御工作機械が開発されるまでは、極端に言えば、タガネとヤスリを使う熟練工による手作業か、木型などを倣って金型を加工する倣い工作機械によって金型が作製されていた. 当然ながら時間もかかるし、設計変更への対応は簡単ではなかった. 数値制御とは、工作物に対する工具の位置をそれに対応する数値情報でで指令する制御であり、それには指令情報,つまり数値制御工作機械を制御するために数値制御装置に入力として与えられる情報(プログラム)が必要である. 機械は正しい情報が与えられればそれに忠実に動くことから、熟練工に殆ど依存せず、また夜間の無人運転が可能になるなど省力化が可能となり、金型加工は勿論のことあらゆる製造現場に画期的な影響を与えた. |
8月のアイガ- ( 2004.08.01 ) | 8月のベッタ−ホルン( 2004.08.01) |
数値制御の利点を羅列すれば、 (1) 無人化運転、省力化 工具の交換が自動で行われるマシニングセンタでは、夜間の無人運転が可能となり、またマシニングセンタでなくとも一人の作業者で複数台の機械の操作が可能になり生産性が飛躍的に向上した. (2) 加工精度の均一化および向上 数値制御工作機械では機械本体の性能向上に伴い、位置決め制度、繰り返し精度等の一定の精度が保証されており、与えられた情報により加工が行われるので、作業者の熟練度による加工精度のバラツキはない. 金型の仕上げ工程におけるキャビテイ、コア−の型合わせも両方のバラツキが小さいので仕上げ時間の短縮が図れる. (3) 検査工程の省略 加工精度のバラツキが少ないので、従来の検査工程を大幅に省ける. (4) 複雑形状部加工の容易化 人手による加工では不可能に近い形状でも、NCに与える情報(プログラム)を作製出来れば容易に加工出来る. そもそも数値制御の開発の主目的がこの複雑形状の加工にあった. 以前はこのような形状のプログラミングには大型計算機を必要とし、金型工業 のような小規模な企業には手が出なかったが、小型計算機や金型専用のソフトウエアの出現でプログラミングを可能にし数値制御工作機械の導入を促した. (5) 図面変更に対する自由度 図面の寸法表示のみでは細部にわたって正確な形状を表せないデザイン物は、サンプルとして実際に加工してから形状の可否を判断する場合がある. 倣い加工ではモデルを作り直さないと形状変更出来ないが、数値制御加工ではプログラムを変更するだけでよく対応が早い. 以上数値制御機の有する利点をいくつか述べた. 金型の形状加工(製品部の加工)を行うには、加工方法が倣いであれ、数値制御であれ、その形状デ−タが何らかの方法で与えられていなければならない. しかし一般には金型の表面形状はデザイナ−の意匠感覚によって支配され、数式によって記述することが難しい複合自由曲面で構成されていることが多い. 超大型の計算機が必要であった時代から、現在は優れたソフトウエアと小型の計算機の出現で、難しい複合自由曲面のプラグラミングも容易となり、もはや数値制御工作機械は特定の企業のみが有する機械ではなく誰もがその恩恵に預かれるほど普及した. 数値制御が開発された当時は、切削加工の機械が大半であったが、その後ワイヤ−カット放電加工機や、放電加工機等々にも広まり、日本の金型加工技術の進歩を支えている. ベニスやベルリンなどで開催された金型工業会国際会議(International Conference of Special Tooling Association) で何回か日本の金型加工について講演する機会があった. 日本は他国に比べて金型加工における数値制御工作機械の使用率が圧倒的に大きいことから、欧州やアメリカの参加者から利用技術や高普及率について随分質問された. 日本人の国民性というか、器用さというか、日本の金型工業の現場ではかなりの作業者が図面を読んでプログラムをし且つ機械の操作もするというように一貫作業がよく行われていた. 一方諸外国では、プログラマ−とオペレ−タ(操作員)は別々の者が担当している例が多く、プログラマ−は加工技術に疎く、現場との意思の疎通が悪く、効率が上がらないのだろうと返事をしたものだった. 筆者の数値制御の知識は恥ずかしながらもう10年前から停滞している. 果たして現状はどう進歩、発展しているのであろうか? タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
6.4 POSTER | 2004年09月26日 |
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4 Poster ( Photo: Instron Japan Co.,Ltd ) | |
1991年に29年間仕事をした工作機械の世界から離れて材料試験機に携わるようになった. 工作機械はMother Machineと呼ばれ、工業界には不可欠な存在であるが、材料試験機もまた材料の基本的な情報、つまり引っ張り、曲げ、圧縮などの機械的特性を特定の環境(常温、高温、超高温、低温、極低温、真空など)の下で測定する為の重要な機械、システムである. 材料試験機については、機械系の者なら学生時代に多少は習っている筈で、そう物珍しい装置ではない. 私が入社した会社(アメリカに本社があり、アメリカ、英国、ドイツなどに工場がある)は材料試験機以外に、機械を構成する油圧アクチュエ-タの特性を生かして自動車の試験装置も製造、販売していた. 工作機械からいきなり自動車の試験装置に関わるようになり、全然見当もつかない機械、システムと対峙して大変戸惑った. 工作機械は、加工精度と加工時間が優先される.自動車では、安全性、耐久性、乗り心地等の試験が重要となる. 車の試験の解析に必要ななのはコンピュ-タと優れたソフトウエアであり、新米の自分にはこれらのソフトウエアのアルゴリズムを為す数学理論を理解出来ず随分苦労した. 参考書も見当たらず、車のメ-カではないので周りに質問する人もいなかった. 40歳の手習いどころか、50歳を過ぎて懸命に英国の工場から貰った英文の文献をひたすら読みまくった. 当時会社の戦略として、世界の有名自動車メ-カに採用して貰うべくアメリカで3名、英国2名、そして私の6人でプロジェクト チームを組み毎週のようにこの3カ国を結ぶ電話会議で戦略、戦術を練った. |
教会とヴェッターホルン ( 2004.09.02 ) | グリンデルワルドのメインストリート ( 2004.09.02) |
それほど多機種の試験装置を手がけたわけでは無かったが、印象の強い幾つかを羅列すると、 (1) すえ切り試験機 車のハンドルを急に大きな角度を切ると油圧システムが追従せず少し遅れて反応し大きな、許容以上の音がする. その程度を試験する. (2) Power Stearing Test System 現在のハンドル(Stearing)は殆どパワ-ハンドルであるが、走行時の道路状況に応じたハンドル システムの試験をする.5軸制御となる. (3) カタパルト 衝撃試験機 車の衝突を再現させ諸々の試験をする. 車体を破損させずに衝突試験が出来るように、衝突と同じ加速度で被試験体に力を加え擬似衝突状態にする. 通常線路上の台車の上に被試験体を載せて、静止状態の台車に力を加え種々の衝突状態を再現させるべく加速する. 例えば、Air Bagを膨らませる為の点火時間のタイミングとか、安全ベルトの強度などをテストする. 当然加速された台車を止めるには距離が必要なので体育館程度の施設が必要になる. (4) Multi Axial Shaking Table Simulation System X-Y Tableに回転軸を加えた多軸で例えばエンジンマウントなどを振り、その性能試験をする.多ければ7軸のシステムがある. このシステムは地震波で振ることも出来、自動車以外の構造物の試験などにも使用される. (5) 4 Poster (ここをクリック) 私には一番印象が深い. それは何とか日本で採用されたいと販売活動に全力を注入したからである. テスト車の車体に複数の歪ゲージを取り付け、走行時の車体の変位と加速度を記録する. そのまま写真のようにテスト車のタイアの下にアクチュエ-タを取り付け(実際にはセットされているアクチュエ-タに車体を載せる)、記録された状態になるように、アクチュエ-タを動かす. 車はF1のようなレ-ス場や、ベルギ-の石畳とか、カリフォルニアのぎざぎざ道路とか呼ばれる道路を走行し、研究所でその走行状態を再現させる. 耐久性試験、きしみ ガタガタ 解析、振動騒音 耳障り 分析、乗り心地 試験などを実施出来る. 写真はホンダがエンジンを供給していた頃のMcLarenに収めた装置である. McLarenには2回訪問したことを懐かしく思い出した. タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
7.記憶 | 2004年11月01日 |
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Waikiki Beach (ハワイ) の夕焼け 2004.10.10 | |
先日,2005年版のウイルス対策ソフトをインスト−ル中誤ってPCの全てを消してしまった. OSを再インスト−ルし、Back Upしてあったファイルを使用してほぼ復旧した. しかしHomepageのファイル類のBack Upをしていなかったので、サ−バ−からダウンロ−ドしようとしたが、FTPで接続出来ず大変困った. ついに自分のPCにあるHomepage BuilderとFTPとの通信がウイルス対策ソフトにより遮断されていることが分かり、「許可」にしてやっとダウンロ−ドしたところです. 何日も悪戦苦闘して参った、参ったです. ということで、ここからが本題です. 大分昔、未だテレビが普及していなかった頃の昭和27年4月10日から29年4月10日まで一世を風靡したNHKの連続ラジオドラマがあった. それが有名な、菊田一雄作「君の名は」である.ドラマの冒頭に流れるナレ−ションを覚えている人も多いと思う. 「忘却とは忘れ去ることなり. 忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」. |
ベランダから見るワイキキ海岸 ( 2004.10.10 ) | 海上から見るダイアモンドヘッド ( 2004.10.10) |
「記憶する」と「忘れる」は相反する意味を持つ言葉と思うが、「忘却」となると意思の力で忘れるとなり、強制的に忘れる響きがある. 辛い、嫌な経験をすれば、それを強制的に忘れようとするが、強制的でなく自然に忘れるのが普通で、それを人は記憶にないとか忘れたという. 脳の仕組みは分からないが、誰しも齢を重ねるにつれ「物忘れが多くなった」と実感するのではないか? もの忘れは経年変化で起き、痴呆症は病気であるが、直近の事柄は思いだせずに古い出来事などはよく覚えていると人は言う. 自分のことを省みれば、大半忘れていて呆然とする思いだ. 学校で勉強したことなどさっぱり思い出せず、小学、中学の同級生も殆ど覚えていないばかりか、先生方をも分からなくなり愕然となる. 受験生時代に丸暗記した歴史や化学、古文などについては多少覚えている(又は記憶がある)が、大学時代は専門分野は少し記憶がある程度だ. 社会人になってからのことは大分覚えているが、会社人間だったのか自分の子供や家庭の状況の記憶は薄い! あなたの記憶度はいかがでしようか? タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
8.読書(古典) | 2004年12月06日 |
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Waikiki Beach (ハワイ) の夕暮れ ( 2004.10.12 ) | |
小学校入学前の数年間、終戦前の川崎市に住んでいた. 当時の事は殆ど記憶にないが沢山の書物で壁を作り防空壕と称して遊んだことを覚えている. 東京大空襲でその家も焼けてしまった. 疎開先の家にも数多くの書物があった.文学全集や、美術全集などだった. こんな環境の中で子供から少年までの時代を過ごしたせいか読書が大好きになった. 高校に入り古文を学んだが、古典文学に魅了された. 漢文も学んだが、漢詩も好きになった. ただ受験勉強が忙しく、読書に十分時間が割けなかった. だからサワリだけの部分的な読書だった. 今なら十分時間があるが集中力が欠けてしまい、古典の一冊全頁を読破する自信がない. 古い順から書けば、万葉集、古今集、新古今集に心がうたれた.手元に一冊の本がある. 大塚巌徳、高木東一 共著の「萬葉古今新古今の研究、光風館発行」であるが、高校生の頃、1954年購入と記入がある. 頁が変色したこの本を繰返し、繰返し何度読んだか数えられない. 今も手元に置き、折に触れ読んでいるが、高校生の頃に引いた幾本もの赤い線が当時の好みの句々を示している. |
ワイキキ海岸の観光用潜水艦 ( 2004.10.12 ) | 潜水艦の窓から ( 2004.10.12 ) |
古典文学と言えばなんと言っても紫式部の「源氏物語」であろう. 11世紀初頭の作品で、日本文学の最高傑作と言われている. 後世に「物語」、「美術」、「謡曲」等に大きな影響を与えたと学んだ. 「更級日記」の作者は「源氏物語」を愛読していたそうだ. 作者の菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)について、女と書きむすめと読むのを昔不思議に思って少しかじった事を思い出す. 「十六夜日記」は阿仏尼の作で中世(鎌倉時代)紀行文学の傑作として知られているが、お墓が鎌倉の英勝寺にあることを最近知った. 著者が道中、鳴海の浦で詠んだ句、 「言問(ことと)はむ はしと脚(あし)とは あかざりし わが来(こ)し方の 都鳥かと」 を読むと、古今和歌集にある 在原業平朝臣の詠める、 「名にし負(お)はば いざ言問(ことと)はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」 を思い出すのである. 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとするなり」の書出しで有名なのがあの「土佐日記」である. 男文字は「漢字」で、女文字は「仮名」を意味していた. 作者は女性に扮して日記を書いたが、道中のはじめに馬(むま)のはなむけ(つまり餞別)を貰う. 船旅なのに何故馬なのだと冗談まじりに書いているが、後世普通に使用される餞別の起源はこの「馬のはなむけ」であったように覚えたが果たしてその通りなのだろうか? タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
9.読書狂い | 2005年1月1日 |
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Waikiki Beach (ハワイ) ( 2004.10.12 ) | |
ある時何気なく手に取った本が面白くて、次から次にその作家の本を捜し求めて読みふけって仕舞うという経験は誰しもあると思う. それは何だろう? 作家が好みに合うのか? それとも作品が自分好みなのか? 答えは分らないが多分私の場合は作品から作家へと繋がるのだと思う. 文学にも純文学とか大衆文学などの定義があるようだが、例えば森鴎外や夏目漱石などを純文学作家と呼ぶなら、私はこれらの作家の作品は好きである. でも私には気楽に読めて、リラックス出来る作品ではない(坊ちゃんなどは例外であるが). 私はかって海外出張の頻度が多く、月平均2回位の時もあった.外国で常に仕事ばかりでは嫌気がさすが、そんな時に持参した軽い本が随分気分を慰めてくれた. 確か米国のケネデイ大統領はイアン フレミング著「007 シリ−ズ」がお気に入りだったとか聞いているが、私は会社の友人に貰った本の1冊にこの「007」があり読後病みつきに なった. 当時はスウエ−デンにいたので日本の本は手に入らず、1冊読んだあとは専ら映画を見た. 訪問先の空港から街中へ向かう途中に、タクシ−の窓から映画の広告を見かけると必死で道順を覚え、仕事が終わるとその映画館に行った.もうイアン フレミングは亡くなったが映画は続いている.普段映画を見ることはないが、「007」だけは必ず見る. 帰国してからだが大阪に出張した帰路、車中用に大阪で文庫本を求めた. 新幹線の出発と同時に読み始めたら面白くて止められない. 新横浜まで一気に読んだが未だ終わらず降車したくなかった事があった. その本とはアリステア マクリ−ン(Alistair MacMlean)の「女王陛下のユリシ−ズ号、H.M.S.ULYSSES)である. 本当に息つく間もないほどの面白さであった. 後日書評によれば、彼はこの本が処女作で、グラスゴ−の無名の一教師が一夜にして世界的なベストセラ−作家になったのである. 第二作の「ナバロンの要塞、The Guns of NAVARONE」の映画を見た方も多いと思う. 本屋を探し回ってこの作者の本(20冊以上、今も手元にある)を全て購入した. 次に読み出したのがスウエ−デンの作家、マイ・シユ−バル、ペ−ル・ヴァ−ル−夫妻の作品の刑事マルチン ベック登場の一連の警察小説である.「ロゼアンナ」、「笑う警官」、「サボイ・ホテルの殺人」等々10冊前後のシリ−ズである. プロットがしっかりして読み甲斐があると同時に自分の知っている町の描写が多く懐かしい気持ちで読んだ. ご主人のペ−ル・ヴァ−ルー氏が48歳の若さで亡くなり作品がストップしたのは残念だ. |
ハワイ島の公園( 2004.10.12 ) | ヤシの木々 ( 2004.10.12 ) |
次から次へとお気に入りの作家作品を探し現在に至るが,これまでに、エド・マクベイン、E.S.ガ−ド−ナ(ペリイ・メイスン弁護士シリ−ズ),ロバ−ト・ラドラム、フレデリック・フォ−サイス,ケン・フォレット、等々をかき集めた.最近はトム・クランシ−やジョン・グリシャムであるが特にグリシャムは大のお気に入りとなった. ガ−ド−ナの弁護士ペリイ・メイスンが登場する裁判所の審理、弁論の過程がきめ細かく描写されていて実に読み甲斐がある. グリシャムの描く世界も弁護士の世界であるが、弁護士ペリイ・メイスンとはまた違う世界のような気がする. グリシャムの本が出るといち早く購入するが、何時読もうかと考えるのは楽しい. 昨年春出版された「テスタメント」などは秋まで大切に取っておき、ハワイに行ってヤシの木の下で寝転がって読んだ. これ以上の幸せはない気分だった. タイトル[記憶を辿って]へ戻る |
10.言葉 | 2005年2月1日 |
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半月と日本語観光案内所 ( 2004.12.20 ) |
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旧約聖書などによれば、世界の言語は最初は一つしかなかったようだ. それはヘブライ語? その時代、バベル(バビロン)の平原にやって来た人々が天まで届く塔を作って有名にしようと考えたが、神はそれを見て人間の行為は傲慢であるとして、建設が進まぬよう一つだった言語を多くに分けて、人間達を混乱させ言葉を通じないようにした. その塔こそ旧約聖書に登場する巨塔、バベルの塔である. 近じかイタリ−のコルチナ ダンペッツオ(Cortina d'Ampezzo)へスキ−に行くので、にわかに1ヶ月ほどイタリ−語を齧ってみた.イタリ−語にもドイツ語、フランス語、北欧語等々と同様に名詞に性別がある.我々の日本語や、英語などには男性名詞とか女性名詞などの区別がない. 私が外国語を覚え、話すには、中学、高校、大学と学んだ英語がどうしても基礎になる.従って英語同様に、主語+述語+目的語(又は形容詞、副詞)のような構成で、あとはただ単語を入れて行くということになる.多少習ったドイツ語やスウエ-デン語などは、その言葉の文法に、分る範囲で合わせるだけだが、何とか意思の疎通くらいは出来る. 勿論正しい話し方ではないが、冠詞や性別などは無視しても意味は通じることが多い. 経験的に言えば、数字の0〜5、曜日、挨拶のことば、高い、安い、英語でいえばhave動詞、同じくget,同じくhow much,一人称、二人称などのイタリ−語とメモ用紙とジェスチャア-で会話は成り立つと思っている.どのくらい通じるか楽しみである. 私は英語は何とか話したり聞いたりすることは出来る. ただ書くのは苦手である. つまり文章になると長く残るが、会話なら、間違ったと思えば即時に訂正出来るし、単語が口に出て来なければ相手に質問して教えて貰えば良い. 書き言葉は会話と違い、すぐ忘れ去られることにはならず、書き手の私も、単語の持つニュアンスが分らず、使用を迷う時が結構あり時間がかかってしまう. |
Wetterhorn ( 2004.12.20 ) |
Eigar and Church ( 2004.12.20 ) |
私は文科系では無く工学部出身であり、落着いて語学を習ったことはないが、外国語には興味があった.中学では英語の授業があったが、県立高校の入学試験に英語がなかったためか3年生の時には省略されてしまった. 高校に入学出来たら入学式前に新入者に試験(未だ高校入学前なのに大学入試問題が出る)があり、結果は合格点に近く、一層興味を持った. 当時(1953〜55年頃)NHKのラジオ放送で、平川唯一氏の英会話が放送されていた. 証城寺の狸囃子のメロデイ-に乗ってカムカムエブリボデイ....と始まるのでカムカム英語と呼ばれて人気があった. この番組で生きた会話を習った. 毎朝聞いたフレ-ズを口ずさみながら汽車通学の駅へ歩いた. 大学ではESS(English Speaking Sosiety)に入ったがスキ-の方が面白く真面目に参加しなかった. 会社に入ったら、会社が英会話の先生を雇ったので仕事を終えて熱心に会話の勉強をした. 先生が日本語を話さないアメリカ人であったこと、生徒が少なかったこと、などで実のある勉強が出来た.この時に一年ほど習った英会話が今でも役に立っている. 日本語が通じない国でどのように意思の疎通を図れるか、外国に行く楽しみの一つである. タイトル[記憶を辿って]へ戻る |