Val d'Idere (1) 古来稀なり Val d'Isere(2)



「曲江」   杜甫

朝回日日典春衣
毎日江頭尽酔帰
酒債尋常行処有

人生七十古来稀
「曲江 (きょくこう 」  杜甫 

朝(やくしょ)より回(かえ)りて日日に春衣を典(しちいれ)し
毎日 江(こう)の頭(ほとり)に酔い尽くして帰る
酒債尋常(しゅさいじんじょう) 行処(こうしょ)に有り
人生七十 古来稀(まれ)なり

    村上哲見著「中国の名句・名言」 講談社現代新書


[ホームページ] 1.暖冬と雪 2007/3/21
2.いにしえの 2007/4/23
3.わすれな草 2007/6/08
4.我思う、ゆえに我あり 2007/7/04
5.考える葦 2007/7/22
6.閑さや、、、 2007/9/15
7.VASA博物館 2007/11/09
8.今ハ昔、 2008/1/1
9.ニセコと疲労試験 2008/2/20
10.三春滝桜と会津学寮 2008/4/03
11.卯の花 2008/5/10
12.あせび 2008/6/12
 
 
[徒然なるままに]






1.暖冬と雪 2007年3月21日
羊蹄山
北海道 羊蹄山            平成19年2月


今年の冬は世界中が暖冬だそうで、雪不足で喜ぶ人あり、悲しむ人ありと悲喜こもごもである.昨年来スイスのサンモリッツ(St.Moritz)に行くべく計画していたがどうも雪不足らしい. それでも滑ることは可能のようだったが、もう硬い雪面やアイスバ−ンを滑る気がせず諦めた. 然し諦めきれず、友人ご夫妻と北海道のニセコアンヌプリに出かけた.

ニセコには雪は十分にあり、国際スキ−場、東山スキ−場、グラン・ヒラフ スキ−場を滑ることが出来た. 積雪は上の方で3m近くあった. 生憎晴れ後曇り、曇り後雨など天候は安定せず雨の中を滑った時もあった. 期待のパウダ−状の雪を滑る機会が殆どなく残念だったが、昔に比べて斜面は幅広く圧雪されていて滑り易かった. 惜しむらくは滑走距離がアルプスのスキ−場に比べると短い.

朝山に上がったら昼食を途中の山小屋で摂り、夕刻は早めに下山出来る、1日がかりで下るようなコ−スで滑りたい.

ニセコには相当な回数(数十年前)来ているが、随分様変わりしていて驚いた. 設備が良くなり宿泊設備が増えたことは当然としても、海外から大勢のスキ−ヤ−が来ていた. 新聞、TVに依ればオ−ストラリアからのスキ−ヤ−が多いそうだ. 山腹の小さな山小屋で休憩した時、我々3人の周りには外国人のグル−プ(10人くらい)しかいなく瞬間外国で滑っているような錯覚に陥った.

帰路1日だけ札幌に寄り大倉山ジャンプ場に行ったが、丁度ノルデック世界選手権が開催されていたが、時間の都合で観戦できなかった


ニセコ グラン・ヒラフ スキ−場 ニセコ アンヌプリ
ニセコ グラン・ヒラフ スキ−場     2007年2月 ニセコアンヌプリ     2007年2月  

ノルデイック世界選手権
ノルデイックスキ−世界選手権札幌大会   2007年2月


さて話は変るが、彼岸には幾つかの予定があるので彼岸の前に福島県郡山市の近くの両親、祖父母、先祖の墓参に出かけた. 郡山市の西方に会津若松市があるが、そこに大学時代の恩師ご夫妻のお墓がある.

長年墓参に行きたいと考えていたがやっと今回会津若松に行き墓参りをすることが出来た. 2月11日だったが、小雪の中を出かけたら途中から本降りとなり翌日には50cmを超える大雪になってしまった.

今年は暖冬で、車のタイヤを夏用に取り替えてしまった人もいて慌てて冬タイヤに戻したそうだ.

私はニセコで十分雪を見たがまさか会津若松で3月半ばに大雪に会うとは思いも及ばなかった.
            

鶴ヶ城お濠 鶴ヶ城
鶴ヶ城お濠  2007年3月12日 鶴ヶ城   2007年3月12日

ところがである. 最近のスイスの「グリンデルワルド(Grindelwald)日本語観光案内所」からの知らせでは、暖かく雪不足だったグリンデルワルドに3月19日に雪が降り、スイス中も降雪で真白になったそうである.

会津若松といい、スイスといい全く暖冬異変に加えて降雪異変である.
            

3月のヴェッターホルン 3月のアイガー北壁
春のヴェッターホルン  2007年3月19日 春のアイガー北壁  2007年3月19日
グリンデルワルド 日本語観光案内所 提供


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2.いにしえの 2007年4月23日
東大寺大仏殿
奈良 東大寺大仏殿            平成19年4月


数日前にTVでは桜の開花は山形まで北上したと言っている. 4月始めに奈良、京都へ出かけたがその頃は既に我が住まいの周囲の桜は散り奈良、京都ではもう見れないだろうと思っていた. 今年の桜が暖冬のせいか早く開花するとは思いもよらず約1ヶ月前にホテル等を予約したので遅すぎるきらいはあったがともかく出かけた. 行って驚いた.丁度満開だった.


いにしえの 奈良の都の 八重桜                  
けふ ここのへに 匂ひぬるかな
     
           
伊瀬大輔(いせのたいふ) 「小倉百人一首」


青丹よし 寧楽(なら)の都は                  
   咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

           太宰少弐 小野老(おゆ)朝臣  「万葉集」


奈良七重 七堂(しちとう)伽藍 八重桜

 松尾 芭蕉

東大寺二月堂から見る桜 奈良荒池の桜
奈良東大寺二月堂 の 桜     平成19年4月 奈良荒池 の 桜     平成19年4月


上記の句は奈良の都を桜を見ながら散策している時に自然に頭に浮かんだ.いつどこで覚えたのかさっぱり見当がつかない. 多分学校の教科書や本を読んで覚えたのだろう.

最近はいわゆる「年のせい」か過去の物事を思い出せなくて困っているのに、すらすらと昔の句を思い出せるとはたいしたことだと一人で感心してしまった.

しかしこれは全くのマグレで普段はこんなことは無い. 先日(三月)、大学の卒業学科の同窓会があり上野公園の上野 精養軒へ出かけた. 少し早めに着いたので公園内をぶらぶらしていたらふと「お玉」という名前が頭をよぎった.

「上野」という場所と「お玉」という人物が登場する本を読んだ気がするがぶらぶら歩き中には思い出せなかった. 暇な時間を利用して毎日のように思い出そうと努めた. 記憶を辿るとどうも高校生の頃読んだ本らしい. なれば当時ひたすら読んだのは、森鴎外、夏目漱石、太宰 治、芥川龍之介、、、、だが多分森鴎外のような気がして彼の著書を片っ端から斜めに読んで探した.

あった、やっと見つけた. それは森鴎外 著 「雁」に登場する女性の名であった. 作中の人物が上野を散歩中にある女性に想いを寄せ、毎日のように彼女の家の前を歩いて通る. その時一寸だけ二人の目が合う という現在ならたわいも無い話だろうが、読んだ青年(私のこと)には新鮮に思えて頭のどこかに残ったのだろう. このように以前のことを思い出すのはもう簡単でなくなった.
 

アイガ-北壁 ベッタ-ホルン と メッテンブルグ
アイガ-北壁  2007年4月15日 ベッタ−ホルンとメッテンブルグ 2007年4月15日
グリンデルワルド 日本語観光案内所 提供


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3.わすれな草 2007年6月8日
Forget me not
わすれな草    「季節の花 300」 http://www.hana300.com  より転載


先日の朝日新聞の「朝日歌壇」にわすれな草を題にした句が載っていた. 何気なく見ていてふと思った. 英語名は Forget Me Not ドイツ語は Vergiss Mein Nichit, 漢字では 勿忘草 と全て忘れないでという意味である. 一寸調べてみたら、語源はドイツの民話だそうだ. 江戸中期にオランダから日本に上陸し Forget me not が和訳されてわすれな草の名がついた. 

更に調べると 英語、ドイツ語、漢字名は全て忘れないでと否定しているのにわすれな(草)は忘れな(忘れろ)と正反対になっているという説明もあった. その理由は訳者の気まぐれかららしい!

忘れるという言葉から急に昔、テレビの無い時代に一世を風靡したラジオ ドラマの菊田一夫作 「君の名は」 を思い出した. 主題曲とその歌詞の前の台詞が非常に印象的で良く覚えている.


「君の名は」 1952年 (昭和27年) 菊田一夫 作

冒頭のナレ−ション (来宮良子)

忘却とは 忘れ去ることなり
忘れ得ずして 忘却を誓う 心の悲しさよ

そして突然、暫く忘れていた映画スタ−達の面影が頭をよぎった. 古いことだが イタリ−の名女優 Silvana Mangano、Sophia Loren, オーストリア生まれの Romy Schneider や「キュ−ポラのある街」の 吉永小百合 などを懐かしく思い出した. 語学に興味があり3本立ての洋画専門館に通い、英語、ドイツ語、フランス語などを直接聞いて、外国語の持つ響きを楽しんだり、字幕で表現された日本語訳に感心したりした.

更に感傷的になるが,殆ど歌はない自分だが北上夜曲の歌詞も唐突に思い出した. 前に英国のテムズ河のほとりを散策するのが好きだと書いたが、北上川や最上川などの写真を見るとのんびり川のほとりをを歩き芭蕉や啄木などに想いを馳せてみたいとつくずく思う.


「北上夜曲」 
 菊池 規 作詩  安藤睦夫 作曲

匂い優しい 白雪の
濡れているよな あの瞳
想い出すのは 想い出すのは
北上河原の 月の夜


Eigar North Wall in May Wetterhorn in May
アイガ− 北壁   2007年5月10日 ベッターホルン     2007年5月10日
グリンデルワルド 日本語観光案内所 提供


菊田一夫によれば、「忘れ得ずして 忘却を誓う」ことは悲しいとあるが、忘れ去って全く思い出せないのも悲しい. 小学校、中学校の9年間で3回転校した.最初の小学校は5年生まで、次は小学6年生と中学1年生までだった. 当時は殆ど写真など撮らなかったので、記憶以外は卒業アルバム位しか往時を偲ぶ材料がない. 然し最初の小学校では卒業しなかったのでアルバムは無い. 

とにかく小学生時代の友達や学校生活ぶりなど幾ら思い出そうとしても頭に浮かばない. そんなところに1952年に卒業した福島県の海岸にある中学校の同期会の案内が来た.

長らく同期会を続けて来たが、全員が来年3月までに古稀を迎える年齢になり参加者も減少するばかりなので今年を限りに解散するという. 時の流れとはいえ淋しい事である. そこで会津若松の芦の牧温泉に泊まり別離を惜しもうとなったそうだ. 歳が増えるとともにお互いに誰が誰だか分らなくなり(人相、風体が変わり)、私も卒業アルバムを持参して皆と当時のことを語り明かそうと考えている. 

Wetterhorn in June Grindelwald Station
ベッターホルン   2007年6月3日 グリンデルワルド駅   2007年6月3日
グリンデルワルド 日本語観光案内所 提供




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4.我思う、ゆえに我あり 2007年7月4日
あじさい
紫陽花   「季節の花 300」 http://www.hana300.com  より転載


雨がひどくなければほぼ毎日散歩する. 今までは目の前のゴルフ場一周約4kmだったが、周辺の細い道を結構車が通るのでコ−スを近くの桜並木の遊歩道に変更した.

片側に50年前に植えられた桜が2kmほど並んでいる遊歩道を1.5往復すると我がマンションからは往復で4km歩くことになる.

遊歩道には愛好会の人たちが面倒を見ている種々の花が咲いており、車は通らず汗を流しながら、ぼんやり考えながら、歩くには最適である.

梅雨というのに余り降雨がなく、子供の頃の梅雨を思うと雲泥の差がある. 農作物や生活用水不足が心配である. 梅雨といえば、先ず思い浮かべるのはあじさい(紫陽花)だが、亡き母が一番好きな花はあじさいと言ってたのを懐かしく思い出す. 最近孫から好きな花の名を聞かれたが、よくよく考えてみると花は好きだが自分には特別この花が好きという花がない.   

ただ特別に好きな植物はある. もう花の咲く時期は過ぎたが、日本なら沈丁花の木、花、香りが好きだ. それは遠い昔スウエ−デンに駐在していた頃、白夜の夏の夜、仕事に疲れての帰宅時に最寄の地下鉄駅から住んでいたアパ−トへ歩く道筋に沈丁花に似た香りの木が沢山あり、この香りで何故か気持ちが癒されたということが今でも記憶に強く残っている. この香りが沈丁花の香り、匂いにとても似ている.

白夜といえば東山魁夷の世界を思う. 彼の北欧を描いた絵を見ると思い出す光景がある、 丁度夏至を過ぎた今頃スウエ−デンの北の方に仕事で行き湖の側に泊まった. 夜の午後11時頃湖の側の針葉樹林が未だ薄明るい夜空にぼやっと浮かんだ光景に何か夢見心地になった思い出と重なるからだ.

東山魁夷の絵などとても購入出来ないから、毎年彼の作品が印刷してあるカレンダ−を飾って眺めている.


桜並木の散歩道(1)
桜並木の散歩道(1)    平成19年6月

桜並木の散歩道(2) 散歩道の花
桜並木の散歩道 (2)    平成19年6月 散歩道の花     平成19年6月


散歩しながら何気なく思い出した「哲学の道」のことを.  良く知られている観光場所だが、京都南禅寺付近から銀閣寺まで琵琶湖疏水に沿った小道のことである.

哲学者 西田幾太郎 がこの小道を散策しながら思索を重ねたことからこの名がついたそうだ. 私も数回歩いたことがある.

哲学とは何ぞや? 良く分らない. それで分ろうとして 西田に従事した 三木 清 の「哲学入門」などを読んだが結局良く分らなかった.

「我思う、ゆえに我あり」 はフランス生まれの哲学者、数学者 ルネ デカルト ( Rene Descartes ) が「方法序論」で提唱した有名な命題だが、私のような凡人は何歳になっても殆ど己の存在意義を理解出来ていないのである!!!

 

紫陽花2 紫陽花3
散歩道の紫陽花(2)   平成19年6月 散歩道の紫陽花(3)   平成19年6月




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5.考える葦 2007年7月22日
ミュ−レンからアイガ−を望む
Muerren より Eigar を望む      2007年7月   秋元氏 撮影


目下梅雨とはいえ涼しい日々が続いてなかなか梅雨明けの猛暑が来ない. 降雨が少なく四国は水不足で困っていたら台風が来て恵みの雨どころではなくなった.

また7月16日には新潟県中越沖地震が起き死者や大勢の被災者が出てしまった. 心からお見舞い申上げます.  温暖化、干天、台風、地震と自然は年毎に厳しくなって来ている.

それでも、何故か今でも目前のゴルフ場から鶯の鳴き声が聞こえる. 鳥まで狂ってしまったのか?

前回はフランス生まれの哲学者、数学者 ルネ デカルト ( Rene Descartes ) が「方法序論」で提唱した有名な命題「我思う、ゆえに我あり」に一寸触れた. 散歩道を歩きながらそのことを考えていたら今度はフランスの哲学者、パスカル(Blaise Pascal)のことばを思い出した.

著書「パンセ」の一節にある [人間はひとくきの葦にすぎない. 自然の中で最も弱いものである. だがそれは考える葦である.、、、、、、、、] のことだ.

人間は考える葦であるとは何を素っ頓狂なことを言っているかと驚いたが、よく読めば三木 清 の「哲学入門」よりは分り易いと思った.

話は大きく変るが例年この時期ドキドキしながら朝刊を開いている. 高校野球の地方予選の結果が載っているからだ. 母校の福島県立磐城(いわき)高校はかって甲子園で準優勝した. 最近はなかなか勝ち抜けないのが残念だ. 今年は既に敗退してしまった. 3年生部員はもう受験勉強に精を出しているだろう.j


サンモリッツ遠望 サンモリッツ湖の夜明け
St.Moritz 遠望   平成19年7月 秋元氏撮影
St.Moritz See の夜明け 平成19年7月 秋元氏撮影


友人ご夫妻が6月末から単独(二人だけで)でスイスにトレッキングの旅に出かけた. 昨年の夏も行ったが回り切れなかったので今年の再訪となった. 連日電車に乗り見知らぬ山群を仰いで歩くのは楽しそうだが、よく考えてみると、不慣れなこともあり大変だったろうと思う.

振り返って自分のことを思うと最近は次第に何事をするのも億劫になって来た. 友人ご夫妻の勇気、バイタリテイを目の当たりにして是非見習わねばと思っている.

1961年7月、作家新田次郎が欧州を旅した. 著書「アルプスの谷 アルプスの村」で[7月30日13時22分に汽車は音なしのかまえのままでチュ−リッヒの駅を後にした、私にとって記念すべき日であった] と書いている. 先に書いたが恩師から繰り返し聞いたGrindelwaldのこと、ニセコ地方のワイスホルンで滑ってスイスに想いを馳せたことなどから、この本を見つけた時は嬉しかった. 繰り返し繰り返し今でも読んでいる. 春や冬には数回訪れたが夏の経験は無い. 是非行ってみたいと思う. 今回は今夏の旅の写真の提供を得て本頁に載せました. 


ピッツネ−ルの山並 ベルニナ山群
Piz Nair 3030 m  平成19年7月 秋元氏撮影 Piz Bernina 4049 m  平成19年7月 秋元氏撮影



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6.閑さや、、、、 2007年9月15日


Sir Winston Churchill
Sir Winston Churchill      2007年8月   

Sir Winston Churchill Residence Churchill Blue Plate
Sir Winston Churchill 住居  2007年8月 
ブル−プレ−ト   2007年8月 



閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

松尾芭蕉


今年の夏は暑かったそうだ. 無責任な書き方だが遠く英国や北欧にいたのでメ−ル情報で猛烈な暑さの来襲のことを知った. 近年の特徴として天候不順は世界的な傾向になってしまった. 

7月末から8月20日過ぎまでLondonやStockholmに滞在した. 現地は暑さ知らずで、日中でも25℃前後、朝などは20℃以下だった. 連日散歩した公園などで全く蝉の声を聞くことがなく、完全に蝉の存在を忘れていた.

猛暑を覚悟して帰国したが、暑さは勿論のことだが、朝から聞こえる蝉の鳴き声に大変驚いた. 暫くはアブラ蝉とニイニイ蝉の合唱だった. ここ数日はそれにツクツク法師が加わった. 子供の頃、夏休みが終わる頃ツクツク法師の鳴き声をよく聞いた. そろそろ夏休みも終わりだと蝉の声で実感したものだ.

上の句は誰でも知っている松尾芭蕉の有名な句である. 閑さや とか 静けさや とか 静かさや とか諸説紛々らしい. 山形県の山寺[(別称 立石寺(りっしゃくじ)]
で詠まれた句であるが、蝉の種類で斉藤茂吉(昭和初期の歌人、山形県出身) と 小宮豊隆(夏目漱石門下、芭蕉研究家) の大論争となった.

斉藤茂吉はアブラ蝉を主張し、小宮豊隆はニイニイ蝉を主張した. 結局ラチがあかず現地調査をした. 句が出来た新暦7月13日にはアブラは鳴いておらずニイニイ蝉の勝利となった.

9月も中旬を迎えて一気に涼しくなったが未だ名残惜しそうな蝉の声が聞こえて来る. 

さてLondonの話だが、ホテルに泊まらず短期滞在型のApartmenthouseを借りた. 近くにHyde Parkがあるので滞在中に幾度となく散歩に行った. ある日帰り道を間違えて、HYDE PARK GATE,S.W.7 なる細道に入り込んだ. 行き止まりなので戻ろうとしたら、ブル-プレ-ト (上図)が目に留まった.

それには、ウインストン チャーチル卿(首相) ここに住みここに死す と書いてある. 全く偶然に迷い込んで見つけて驚いた. 後日London市内の OLD BOND STREET を歩いていたら、チャーチル卿 ともう一人の紳士の彫像に出会った. もう一人の紳士は誰だか分らないが、 アメリカのル-ズベルト 大統領ではないかと想像している.

昼は未だ蝉の声が聞こえるが、もう賑やかさは衰えたが必死に夏が去るのを惜しんで鳴いているようだ.
夜になると虫の声が盛んだ. 世に言う「暑さ 寒さ も 彼岸 まで」 の彼岸も間もなくで、故郷で良く聞いた「ヒグラシ(カナカナ蝉)」の声はないがもう秋の気配濃厚である.

さて、この頁の表題の「古来稀なり」は中国の詩人 杜甫 の句 「曲江」 の 人生七十 古来稀(まれ)なり から取ったのだが、つまり人生70歳まで生き永らえるのは稀なことであるの意である. 

子供の頃は、冗談交じりに「人生わずか50年」と言っていたが. 私もついに、この9月に古稀を迎えた. 今どき70歳という年齢はそれほど珍しくないが、それでも感無量な気持である. 家族、友人の支えに心から感謝し、残された人生の日々を達成感と満足感を有して過せるように努めようと思う.



騎馬音楽隊 衛兵交代
騎馬音楽隊 ( Stockholm )  2007年8月  衛兵交代 ( Stockholm )  2007年8月 



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7.VASA博物館 2007年11月9日


戦列艦ヴァーサ(Vasa、模型)

戦列艦VASA号 (模型)      2007年8月 
  

VASA博物館 船腹の装飾
VASA博物館  2007年8月 
船腹の装飾   2007年8月 


今年の夏、Stockholmに滞在していた時ふと思いついてVASA MUSEET(ヴァ−サ 博物館)に行った. 随分前から名前は知っていたがなかなか行く機会がなかった. 現存する最古の完全な戦艦ヴァ−サ号が展示されている.

[ スウエ−デン海軍で用いられた排水量1210トン、64門の大砲を持つ戦列艦で1626年建造開始、1628年8月10日に竣工した. もともと砲甲板は一つの予定であったが、二つに増やされたために重心が高かった. 処女航海は波が穏やかであったが、ストックホルム沖で一陣の風によっていきなり沈んだ. 死傷者数等は不明. 1956年に引き上げられ、当時の戦列艦の姿を知る貴重な資料を提供している.] 以上フリ−百科事典「Wikipedia 2007.11.06」による.

因みに戦列艦(Ship of the line)とは17世紀から19世紀にかけて海戦の主力を担った軍艦のこと. 2つから4つの砲甲板に50門〜150門程度の砲を装備している船で、この船で戦列を形成して海戦を戦った. 全長は大きいもので60メ−トル以上に達し、排水量は3000トン超、乗組員は500人〜1000人に達する艦もあった. その後大砲の威力が向上すると共に、多数の大砲を並べる事は防御上の致命的な欠陥となり、やがて戦列艦は消えていった.以上引用はフリ−百科事典「Wikipedia 2007.11.06」による.

歴史を見ると、16世紀末、北欧における覇権を獲得するため、スウエ−デン・デンマ−ク・ロシアがバルト海を挟んで三つ巴をを演じたが、スウエ−デンが優位に立った. そこでドイツを舞台とした三十年戦争を北ドイツへの勢力拡大の好機とし、スウエ−デン国王GUSTAV(グスタ−フ)2世がヴァ−サ号を建造させた.

ところが、1628年8月に多くの市民が見守る中を処女航海に出たものの突風に遭い、ストックホルム沖1000メ−トル,水深32メ−トルの海底に沈んでしまった. そして300年以上過ぎて1961年に船体の引揚げが完了した. オランダは当時英国と造船技術の世界一を競っていた. そこでヴァ−サ号の建造はオランダ人技師に発注された.

然し結果的には設計ミスがあり、外海にも出ず僅かな距離を航海して沈没してしまった. 

一説によれば、予定されていた船のサイズが途中で大型になった. 船底は既に作り始めていたので小さな船底の上に大きな船を載せることになった. 予定では46基の大砲が国王の希望で70基となり、大砲が海水に浸からないように喫水線を高く出来なかった. 船底が狭いのでバラスト用の石を大量に積むことが出来なかった.

出発前に甲板長が船員を端から端まで走らせて重心のテストをした. 何往復か走らせたら、すでにバランスが悪くなって倒れそうになったので止めたという証言もあった. そして関係者の審問の結果、ヴァ−サ号沈没の原因究明は出来ず、誰も処罰されることなく、当時言われたまさに「神のみぞ知る」運命にあった.

バルト海は塩分が少なく、そのために船食虫が少ないので. 300年以上海底に沈没していた木造船が殆どそのままの形で1956年に発見された. 保存展示には格別な注意が払われていて、保存液を拭きつけ、湿度、空調、照明などに十分な配慮が為されている.

7階建ての博物館には本物のヴァ−サ号が展示され、各階の展示室には船の模型や断面等詳細な説明がある.

写真撮影はOKなのだが、照明が暗く実際の船を撮影出来なかった.



戦列艦VASA号断面(模型) 
戦列艦VASA号断面(模型)      2007年8月   




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8.今ハ昔、 2008年1月1日


SunRise2007Dec

ベランダから見る日の出     2007年12月   


新年おめでとうございます. 年頭に際し皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします. 

昨年は拙いホ−ムペ−ジをご覧頂きお礼申上げます. 最近は更新期間が長くなる嫌いがありますが、元気な証と本年も更新を続けますので宜しくお願いします.

昨年満70歳になり古希を迎えたと思っていたが、恥ずかしながら、還暦は満60歳で古希は数えの70歳(満69歳)と昨日知り驚いた. 中国の唐の詩人 杜甫 の七言律詩「曲江」 の中に 人生七十 古来稀なり とありこれが古希の由来とされている.

然し詩の内容は、「役所から帰ると毎日のように春着を質に入れ、曲江のほとりに出かけては酔っ払って帰って来る. 酒代の借金はあたりまえのこと、行くさきざきについてまわる. どうせ人間昔から七十までは滅多に生きられるものではない」という事で長寿を祝う詩ではない. どうして日本では70歳のいはば長寿を意味する言葉となったのだろうか?  どうせ人間70歳までは生きられないと儚んだのが転じて70歳まで生きたのはめでたいとなったのか!

とにかく齢を重ねると昔のことが無性に懐かしくなって来る. 今ハ昔という言葉が突然頭に浮かんだ. 自分としては昔を懐かしむ気持ちから出た言葉で望郷ならぬ過去を振り返る言葉の一つと思った. よく考えれば「今昔物語集 (平安時代末期に成立したと思われる説話、つまり作者不詳の物語) 」
の説話は今ハ昔で始まっていた. つまり枕詞ならぬ始め言葉だった. 勘違いである. これも年齢の為せることか!

昨年の暮れに何気なくTVを見ていたら、パヴァロッテイ(Luciano Pavalloti)の追悼番組をやっていた. 私は音痴のせいか歌えないし余り歌うことに興味がない. 然し時々見る、聴く(殆どはTVで)彼のテノール歌手の素晴らしさには圧倒された. 古希を迎えたばかりの71歳なのに2007年9月6日に亡くなったのは大変残念だ.

パヴァロテイを思う時は必ずプラシド ドミンゴ(Placido Domingo) と ホセ カレ−ラス(Jose Carreras)を思う. パヴァロッテイはイタリア人だがあとの二人はスペイン人だ. この3人が世界三大テノ−ル歌手と呼ばれており3人のジョイント コンサ−トは圧巻である.

追悼番組では、パヴァロッテイが2006年トリノ オリンピックでイタリアの作曲家 プッチーニ の3幕物のオペラ トウーランドット(Turandot) からアリア 「誰も寝てはならぬ」を歌った場面もあった. 奇しくも荒川静香がこのアリアをバックにフイギュア スケ−トで金メダルを取ったが歌とスケ−テイングの見事さは感動的であった. 因みにTurandotは12人の作曲家の作品があり、有名な作品の一つにプッチーニの作品があるそうだ.

さて年末になると必ずのようにベ−ト−ヴェンの「交響曲第九」の演奏がある. 私が好きなのは、音楽演奏は別として、第4楽章で歌われる歌詞 「An die Freude (歓喜の歌)」 である.

これは フリ−ドリヒ クリストフ フォン シラ−(
Johann Clistoph Friedrich von Schiller)
の詩の合唱である. 「第九」の演奏が合唱に入ると、いつも心が躍り昂揚する気持ちになった. それは合唱の旋律が醸し出すところ多々あるとしても、やはりシラ−の詩が創り出すこの世に生きる歓びのうたのせいだと思っている.
           
「An die Freude」   Friedrich von Schiller  ( 歓喜の歌、 F.シラ− )

 
「Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium !
 Wir betreten feuertrunken, Himmlische, dein Heiligtum !
 Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt,
 alle Menschen werden Brüder, wo dein sanfter Flügel weilt.」



 「歓喜、美しき神々の火花、 楽園の乙女!
 われらみな火の酒に酔い、 天なる汝の聖殿に踏み入る!
 世の習わしは厳しくわけ隔つるも、
 汝が魔力が再び結びつける.
 汝がやさしき羽衣の下に憩わば、 全ての人々は兄弟となる.」

   
 
「 Ihr stürzt nieder, Millionen ?  Ahnest du den Schöpfer, Welt ?
  Such' ihn überm Sternenzelt !   Über Sternen muß er wohnen.」 
                         


 「 汝らひれ伏すや? 百万の人々よ、
 創造主を予感するや? 世界の人々よ、
 星の円蓋のかなたに、創造主を求めよう !
 星たちの上に、創造主は住みたまわん.」 

                  一部のみ掲載、 小松雄一郎 訳


第九の合唱は常に原語で歌はれている. よく長いドイツ語を覚えられると感心していたが、暗記用に考案された「音訳、語呂合わせ」があることが分った. 朝日新聞記事 (1986年2月20日とか1990年2月15日とか、あるが当時の新聞を見ていないし調べてもないので正確な日付は不明である) によると 
「向島芸者達が練習に使った 歓喜の歌 の虎の巻」なるもので、作者は当時上智大学文学部ドイツ文学科2年生の 吉井実奈子 さんだそうだ. 以下その一部を記す.

「Freude,     schöner Götterfunken,          
風呂出(フロイデ) 詩へ寝る 月輝(ゲッテル) 粉健(フンケン)  
Tochter  aus Elysium !
とホテル 会う末(アウスエ) 理事生む(リージウム)

Wir betreten        feuertrunken,           Himmlische,
ビルベ と 0点(レ−テン)  夫追い得る(フオイエル) 取るん健    貧無理死へ    
dein      Heiligtum !
台ん(ダイン) 入り人産む(ハイリヒトウム)

Deine Zauber          binden  wieder,       was die 
台寝  津会うベル(ツアウベル)  ビン出ん  微出る(ヴィ−デル)  バス出い
Mode     streng          geteilt,
詣で(モウデ)  酒取れん(シュトウレン)  下駄いると(ゲタイルト)

alle   Menschen      werden   Brüder,          wo dein 
ああ冷  麺支援(メンシェン)  ベル出ん  鰤うでる(ブリュ−デル)   暴大ん(ヴォ−ダイン)
sanfter   Flügel           weilt.
残フテル   風流げる(フリュ−ゲル)   場いると(ヴァイルト)


さあこれで十分暗記出来るでしょう!!!

元日の関東地方は天候に恵まれて穏やかな年の初めとなりました. 生憎強風や降雪に見舞われた地方もあるようです. 長く新年を迎えていると様々な年を迎え、過して来ました. 2008年はどのような年になるでしょうか?

希望と期待に胸を弾ませる第一日が始まります. それでは


A Happy New Year!






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9.ニセコと疲労試験、 2008年2月20日


ニセコアンヌプリ

ニセコアンヌプリ (北海道)    2008年2月   


材料の性質を調べる試験方法には大別して、引っ張り試験、圧縮試験、疲労試験などがある. 疲労試験とは変動荷重を受ける材料の挙動を測定する試験のことである. つまり繰り返し負荷(荷重)をかけて破壊を引き起こすまでの荷重回数(疲労寿命)を記録する.

今春は2002年に滑ったスイスのGrindelwald、アイガ−やユングフラウ などで有名、へ再度行くべく友人と話合ってきたがなかなか都合が合わず断念した. もう古希を迎えた身には単独行は万一の怪我を考えると難しく、また家族も心配するので諦めるしかなかった.

然し諦め切れず、欧州のスキ−で毎年一緒の友人ご夫妻に北海道のニセコアンヌプリに連れて行って貰った. ニセコには随分昔に幾度と無く、そして昨年も行ったが、アンヌプリ国際スキ−場が大変気に入ったので同じ所で滑ることにした.

ニセコは東山スキ−場を中央とすると東側にグラン・ヒラフ スキ−場、西側に国際スキ−場があるが、頂上近くでそれぞれのスキ−場へ渡ることが出来る.

国際スキ−場を我々が好むのは、@ スキ−ヤ−やスノ−ボ−ダ−の数が少なく混み合うことがないので安全、A 頂上近くは上級コ−スだがあとは中級コ−ス、初級コ−ス で楽しく滑ることが出来る、B ホテルからスキ−を履いて直ぐリフト乗場、ゴンドラ乗場へ行ける、C ホテルまで滑って下ることが出来る、D 中腹の小さな山小屋の雰囲気が良い、E ホテルも3階建で静かだ. 時に狐が顔を出す. 近くには食事できる所も1〜2軒しかなく不自由だがそれもまた宜しい.

北海道のTVの天気予報ではニセコは晴れを示していても小雪や曇で時に太陽が顔を出すなど随分予報は難しそうだった. 気温はホテルの出口で朝9時頃は−7℃くらい、上に行くと凡そ−13℃くらいだったが吹雪かなかったので全然寒さを感じなかった.

一応自分なりに一年かけてトレ−ニングした結果なのか出発前に危惧した体力は、休み休み滑ったこともあり息切れもなく滑ることが出来た. 然し思わぬところで問題が発生した. それは太ももの筋肉痛であった. 正しい滑り方など分りもせず長い間自己流で滑っていたが太ももの筋肉痛は過去にはなかった事であり驚いた. 

傾斜が緩い所は問題ないが、急傾斜の斜面ではタ−ンするときに意識的に谷足荷重から山足荷重に重心を移しタ−ンの進行と共に再び谷足荷重とするがその時に片足に荷重がかかり過ぎるのか太ももの筋肉がどうしようもなく痛くなった. つまり冒頭に書いた(太ももの)
疲労試験を繰り返し実施した為に筋肉が破壊寸前になり、痛みが酷くなったと思われる.

滑らないで普通に歩くには何の痛みもないので、十分正しい方法で太ももの筋肉を鍛錬すればこれからも暫くはスキ−が出来ると思った.

中腹にある小さな小屋、パラダイス ヒュッテ、で休憩するのを楽しみに滑った. 小さな小屋で30人も入れば満員になる. 我々以外には小屋の主と併せて4人しかいない時が多いがたまに満員近く人が入ることもある. 自動販売機の清涼飲料水、ビ−ルやあんまん、肉まん、カップ麺、チョコレ−ト,おでん位しかないので客の滞在も短時間になる.

山小屋の主は友人が昨年必ず飲んだホットワインから友人を覚えていた. 私のことはウロ覚えだったがやおらパイプタバコをはじめたらそれで思い出してくれた.

ニセコには大勢のオ−ストラリア人スキ−ヤ−が楽しんでいると聞いていた、多分その通りだと思う、小屋で会った私くらいの年齢の男女5〜6名のグル−プはわざわざニュ−ジ−ランドから来たそうだ. ある時ふと小屋の室内を見回すと我々3人+小屋の主以外は外国人ばかりだった時もあった. 本当にニセコは国際化したと思った.

ホテル近くの温泉の露天風呂には缶ビ−ルを静かに飲む外国人が多く居た.
 そこでもスウエ−デンから来たという若者二人に会った. ひたすら滑ることはもうないがいたるところで同好の人たち、ましてや同年齢のスキ−ヤ−に会えるのは嬉しい. ただ同年齢の日本人を見かけなかったのは淋しい事であった.



パラダイス ヒュッテ ヒラフから見る羊蹄山
パラダイス ヒュッテ  2008年2月 
グラン・ヒラフから見る羊蹄山  2008年2月 


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10.三春滝桜と会津学寮 2008年4月3日

枝垂れ桜
枝垂れ桜(こどもの国 ,横浜市青葉区) 2008年4月2日 


東京や東京近郊は今桜が満開である. 桜と言えば福島県田村郡三春町の「三春滝桜」を思い起こす. 滝桜の写真を見るには、ここをクリックすると[ 私のフォトファイル 三春滝桜 ]に繋がります. このフォトファイルは作者のご好意でリンクさせて頂きました.

今のところ開花日の予想は、三春町役場のHome Pageに依れば、4月13日頃で見ごろは4月18日前後のようだ.

今時疎開(戦災を逃れて地方へ移る事)と聞いても分らない人もいると思うが、私は父を川崎に残して母、兄、妹の4人でこの三春町に疎開した. 結局父は東京大空襲に会い身一つで疎開先に来た. 家は焼かれて灰塵となったが無事だったのは不幸中の幸いだった.

小学4年生まで三春小学校に通い、確か一度だけ「三春滝桜」に遠足で行ったことを覚えている. 以来一度も訪れたことはなく、いつも写真を見て懐かしがっている.

父の生家は福島県田村市にあるので、そして今は私の家となったが、毎年数回墓参を兼ねて田村市を訪れる. いつも滝桜の近くの道を通って田村市にある墓所へ行く. 

もう彼岸も過ぎたが、近く墓参に行こうと思い滝桜を想っていたら朝日新聞3月30日付朝刊の「家族」をテ-マにした連載に遭遇した.読んだ人もいるだろうが、当日の記事は、「滝桜--ビルの谷 祖父のぬくもり」 だった.

朝日新聞の記事の一部を記すと、
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三春滝桜は 日本三大桜の筆頭格にして国の天然記念物、全国から人を集める樹齢千年の紅しだれだ. 種の採取は禁じられているが、町にはその種から芽をを出した「小桜」があると言い伝えられてきた.その種を発芽させ別の桜に接ぐと孫桜になる.

滝桜から1.5kmほど離れた小高い山に滝桜と同じ紅しだれがあった. 樹齢100年. 毎年見事な花を咲かせたこの桜は「滝桜の子孫樹」といわれていた. それをTBS(東京・赤坂)が周辺の再開発事業「赤坂サカス」のシンボルツリ-として移植した
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三春滝桜は未だ開花しないが、赤坂の「滝桜の子孫樹」はもう散ってしまったろう.

話は変わるが、先日「会津学寮OB会」の札幌開催の知らせが届いた. 随分昔(1958〜1962)4年間札幌でお世話になった学寮である. 札幌市北8条西12丁目(当時の住所表記)にあり周りには秋田寮、岩手寮、仙台寮、信州寮、女子寮などがあり博士通り(?)と呼ばれた地域にあった.

これらの寮は大学や県の助成を受けて裕福な財政状況にあるとみえ、皆立派な建物であった. 然しこの会津学寮と長野県の信州寮は今にも潰れそうな貧弱な建物に学生が住んでいた.

会津学寮はどこからの助成もなく、全てを20名の寮生で運営した. 寮生の朝、夜の食事を作ってくれる寮母の給料、わずかなボ-ナスは全て20名の寮生が負担した.

貧乏暮らしだったが誰からの干渉もなく青春時代を謳歌した. 20名交代で寮長や会計を担当した. 私が寮長の時、危うく寮の財産が差し押さえられそうになった. ツケで買っていた近所の八百屋が倒産し負債が銀行に渡り、銀行からツケの代金を払わないと差し押さえる通告があった.

何も財産に相当するものは無く差し押さえられても構わなかったが、やはり学生としてのプライドがあり、銀行と交渉して1年の月払いで合意して貰った.

貧弱な財政を助けるべく、札幌在住の福島県出身者を訪ねて寄付をお願いしたり、有料映画鑑賞会を催したこともあった.

会津学寮(新しくは福島学寮)のHome Pageを見ると昔の面影は全くなく、多分ボンヤリと歩いたら見過ごしてしまうだろう. 隣に桑園予備校があり時々模擬試験の監督に駆り出されたが未だあるのだろうか?

たった1枚の案内状で往時を懐かしく振り返ることが出来た.


こどもの国の桜(1) こどもの国の桜(2)
こどもの国(横浜市)  2008年4月 
こどもの国(横浜市)  2008年4月 


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11.卯の花 2008年5月10日

うつぎ
うつぎ(空木)   「季節の花 300」 http://www.hana300.com より

さくらんぼ1 さくらんぼ2
遊歩道のさくらんぼ(1) (座間市)  2008年5月 
遊歩道のさくらんぼ(2)  (座間市)  2008年5月 


卯の花の 匂う 垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も 来鳴きて
忍び音 もらす 夏は来ぬ

さみだれの 注(ソソ)ぐ 山田に
早乙女が 裳裾 濡らして
玉苗 植うる 夏は 来ぬ

                     
童謡 夏は来ぬ
                         
        佐々木 信綱 作詞
                                
小山 作之助 作曲



聞かずとも ここをせにせむ ほとぎす
山田の原の 杉のむらだち


              
西行法師
                         
    新古今和歌集


桜が咲いたと思ったらもう連休も過ぎた. 連日歩く近くの桜並木の遊歩道も桜の葉並みが濃い影を落とし、路傍のさくらんぼの実が赤く、艶やかな色をつけている. 

未だ鶯の鳴き声が聞こえるのにもう間違いなく薫風香る初夏の訪れを感じる. 間もなく6月の声を聞けば梅雨と思っても昨今の季節の移り変わりは子供の頃に比べて、随分タイムスケ−ルの目盛りが変って簡単に何月だから何の季節と言えなくなった気がする.

散歩中に白い花を咲かせた木を見かけた. 調べたら多分 
うつぎ(空木、卯の花  という名の木、花らしいが別名が「卯の花」とは知らなかった. 卯の花が何かも知らぬまま上記の童謡を唄っていたのだ.

うつぎは幹の中心(髄)が中空になっているので空木(うつぎ)と呼ばれ、卯月(陰暦の4月)に咲くから卯の花とも呼ばれるそうだ.

私が今住んでいる辺りは鶯やキジバトの鳴き声は聞こえても、故郷で聞いたホトギスの甲高い「テッペンカケタカ」は聞かない. 童謡では 
忍び音もらす とあるが、あの記憶にある甲高い「テッペンカケタカ」がどうしてひそひそ声の忍び音と表現されたのか分らない. ホトトギスは本当は大声で鳴かないのだろうか?

ところで同名だが鳥ではない俳誌「ホトトギス」を知っている人は多いだろう.  1897年に創刊され、100年以上休むことなく刊行され続けた月刊誌のことである. 

正岡子規、高濱虚子により培われた正しい俳句 「花鳥諷詠」 を志す歌集である.

                

白牡丹 というといえども 紅ほのか
                                       虚子
                         
        

ほととぎす 伊豆の伊東の いでゆこれ
                            虚子
              


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先日、最初に入社して30年間お世話になった会社の前社長、会長であった方の訃報を聞いた. 94歳の長寿を全うされたのだがやはり長くお世話になった方なので訃報を聞くのはとても辛い. 私がその会社にいた後半の 10年くらいは毎年海外出張のお供をし、また当時の社長、会長室のすぐ近くにいたので毎日のようにお会いしたことを鮮明に覚えている. その会社を辞めてからたったの1回だけだけど亡くなる数年前にお会い出来て良かったと思っている.

 
All that live must die

Thou knowst 'tis common, all that
live must die,
Passing through nature to eternity.

        
William Shakespeare 「Hamlet」 i.2            
生あるものは死す


生(いのち)あるものは死するが世のならい、

現世を通って永遠におもむく.

ウイリアム・シェイクスピア
             「ハムレット」  1幕2場




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12.あせび 2008年6月12日

馬酔木
庭先のあせび(馬酔木、 あしび)   2008年4月13日 


池水に 影さえ見えて 咲きにほう
    馬酔木の花を 袖に扱入(こき)れな

                     
        大伴家持
                                
  万葉集

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
  見すべき君が ありといはなくに

              

                          大来皇女(おおくのひめみこ)
                               
   万葉集


福島県田村市の山奥に両親から受継いだ家がある. 古い農家で大きく貫禄があるが、15年以上空き家の状態なのでもう人は住めない. 私は両親、祖父母、戦死した叔父、先祖、夫々の墓に参るため年に数回くらい行くだけだ. 近所の人たちは空き家で無人とは知っているが、私としては余りにむさ苦しい状態でおくのは恥ずかしいので時々家の周りの雑草などを人手を頼んで刈り取っている.

5月末に地元のシルバ−人材センタ−に依頼して作業員を派遣して貰い、延べ6名計2日間で雑草、雑木、竹の刈取りをした. 驚くべきは雑草や竹の生命力で、通路のアスファルトの下から雑草が生えて来たり、竹がありとあらゆる所に生えて来ることだ.

4月半ばの墓参時庭先の木に白い花が咲いていたので名を知らぬままに写真を撮った. 5月の雑草刈取り時には花は散っていたが、作業員の方に名前を聞いたら 
あせび と教えられた. 聞いたことがないので調べたら別名 馬酔木 (あしび) と分った. 馬酔木の名前は知っているが、馬に食べさせると脚が痺れて動けなくなることからこの名が有り、有毒とは知らなかった.

万葉集にも馬酔木が詠われていることからも古くから名は知られていたことが分る. ところで前回時鳥(ホトトギス)について触れたが、5月末の雑草刈の時久しぶりにあの鳴き声、「テッペンカケタカ」 を聞いた.確かに「テッペンカケタカ」と鳴いていた.

そしたら昨日、朝食時に隣のゴルフ場から「テッペンカケタカ」が聞こえ大変驚いた(都会では聞くことは出来ないと思っていたので). 更に鶯、雉(キジバト?)も鳴いて賑やかな朝だった.


桜並木の散歩道には今 
紫陽花 が盛りで綺麗だ. 近くには金色(黄色)の 金糸梅(多分) も咲いていて、私にとっては名を知らない他の種々の花と一緒に愛でながら歩いている. 

ただ欲を言えば 
紫陽花 は雨天の方が趣きがある. 亡き母は 紫陽花 が好きだった.

先日TVで ひなげし の花の名所を紹介していた. 別名 ポピ−は分るとして 虞美人草 とは恥ずかしながら知らなかった. 虞美人草という植物の存在は知っても、その名は専ら夏目漱石の作品のみしか思い起こさなかった.

さてもう関東地方は梅雨に入り寒かった天候も暑くなりだした. そんな昨今、初夏の服装で悩んでいる. 今春スキ−に行く予定だったが都合悪く中止したスイスのグリンデルワルド(Grindelwald)へ出かけるからだ. 現地の昨年同時期の気温は最高値の平均で14℃〜21℃くらいで、長袖、半袖の両方が必要らしい.

私は、具体的には覚えていないが、大学時代の恩師からグリンデルワルドのことを聞かされた記憶があり、引退後最初に選んだのがこの地でのスキ−だった. 従って2回目にして夏は初めての訪問になる.

大学生の頃山スキ−に凝ってニセコなどへ良く滑りに行った. 山の上部には殆ど立木がなく、見えるのは純白の雪だけ、アンヌプリの近くにはワイスホルン(多分 ドイツ語ではWeiss Horn, 白い山頂)がありその容姿からスイスの山並を想像した. 

その頃週間朝日が連載した(1956年2月〜1957年8月) 井上 靖著 「氷壁」に熱中し、後に大学を卒業し工作機械メ−カ−に入社しても雪のある間は日曜日毎に滑っていた.

そんな時に新田次郎 著 「アルプスの谷、アルプスの村」が新潮社から刊行された. 嬉しかった、アルプスの事が手に取るように書いてある. むさぶるように繰り返し繰り返し読んだ. いつかゆっくりスイスを旅したいと思いつつ今日に至った.

私はZurichへ飛びそこから往きは列車でBern,Interlaken経由でGrindelwaldへ、復路はInterlaken,Luzernル−トでZurich
へ戻る.  新田氏は、本書によれば、昭和36年7月30日、私とは逆に Luzern、Interlaken経由でGurindelwaldへ向った. 車窓からくっきり見えた白銀の山々、ユングフラウ(Jung Frau)の山塊,に心臓が鳴り、アイガ−(Eigar) を見て美しさではなく威圧感を感じた. 彼は見聞したことに素直に驚き、発見には感心し旅を続けた. 私は余りせわしなく動くことはしないで、ゆっくりとGrindelwaldとその近辺の自然を楽しもうと考えている.

アイガ−と言えば先ず思い浮かべるのが槙 有恒だ. 彼は1921年に東山稜線(ミッテレギ稜)からの初登頂に成功した. それから17年後の1938年にオ−ストリア人のハインリッヒ ハラ−(Heinrich Harrer)がドイツ人隊、オ−ストリア人隊と共に北壁の初登頂に成功した.

その後悲劇を生みながらも幾人もの北壁登頂者が出ているが、その一人に女性で世界初の欧州三大北壁(マッタ−ホルン、アイガ−、グランド・ジョラス)登攀者の今井通子がいる. 彼女は新田次郎がGrindelwaldを訪れアイガ−を見上げた時から凡そ6年後の1967年7月に登頂した.

若し彼女が登頂した後に新田次郎が訪れていたなら彼は何と書いたのだろうか?

今回は貸し別荘に滞在するが、この予約やスイスの半額パスの購入などで、「Grindelwald 日本語観光案内所」にお世話になった.

間もなく出かけるが、スイスの帰路にシェ−クスピアの戯曲で有名なハムレットの実際の舞台となったデンマ−クのHelsingorにあるクロンボリ城(Kronborg Slot) を訪問する(4〜5回目). 

生きるべきか、死すべきか、それが問題だ! ハムレット 3幕1場 (To be or not to be, that is a question) は誰もが知っている.


 
グリンデルワルドの貸し別荘
グリンデルワルドの貸別荘  2008年5月
5月のアイガ−北壁
5月のアイガ−北壁  2008年5月
Grindelwald 日本語観光案内所  提供




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