春ごとの 花に心を慰めて 六十(むそじ)あまりの
年を経にける 西行法師 (1118〜1190)
[ホームページ]へ | 1.イタリア スキ−紀行 ( ヴェニス編 ) | 2005/02/21 |
2.イタリア スキ−紀行 ( コルチナ編 ) | 2005/03/25 | |
3.イタリア スキ−紀行 ( 続 コルチナ編 ) | 2005/04/30 | |
4.ふるさと と 漢詩 | 2005/05/23 | |
5. タ−ナ−と モ−ムと バ−トランド ラッセルと | 2005/06/28 | |
6. たばこの煙 | 2005/08/05 | |
7. 旅日記 2005年夏 (1) | 2005/09/26 | |
8. 旅日記 2005年夏 (2) | 2005/11/07 | |
9. 旅日記 2005年夏 (3) | 2005/12/30 | |
10. 旅日記 2005年夏 (4) | 2006/02/02 | |
11. フランス スキ−紀行 (1) | 2006/03/15 | |
12. フランス スキ−紀行 (2) | 2006/04/18 | |
13. フランス スキ−紀行 (3) | 2006/05/22 | |
14. 瓔珞みがく | 2006/06/27 | |
15. シヨン城 | 2006/08/03 | |
16. 変格活用 | 2006/10/02 | |
17. ハロ−ウイン | 2006/11/02 | |
18. 師走ともなりぬれば | 2006/12/10 | |
19. 駒とめて | 2007/01/01 | |
20. 古来稀なり | 2007/02/13 | |
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1.イタリア スキ−紀行 (ヴェニス編) |
2005/02/21 |
ヴェニスのカ−ニヴァル(サン マルコ広場) 050205 |
Rialto橋から見下ろす運河 050205 | サンマルコ広場近くのゴンドラ群 050205 |
2月4日から10日間ヴェニス(ヴェネツイア)経由でイタリアのドロミテイ(Dolomiti)地方のコルチナ ダンペッツオ(Cortina
d'Ampezzo)にスキ−に行った. Alitalia航空でミラノ(Milan)で乗換え国内線でヴェニス(Venezia)へ行き1泊、翌日市内見物後BUSで北へ約2.5時間走りドロミテイ地方のコルチナ ダンペッツオへ向かった. ヴェニスには20年も昔に訪問したことがある. ISTA(International Special Tooling Association,国際金型工業会)の会合がありそこで講演した. 当時は講演のことばかりに気をとられてそれ以外の記憶は殆どない. ヴェニスといえば何を想うだろうか? コルチナ ダンペッツオへ向かう途中で1泊すると分って先ず思い出したのは「The Merchant of Venice(ヴェニスの商人) by W.Shakespeare」 だった. キリスト教信者の投資家アント−ニオ vs ユダヤ人商人のシャイロック を巡る「人肉裁判」の物語を読んだ人は多いと思う. 遥か昔の高校生の頃さわりを読んだ記憶がある. ハムレットとは随分異なる書き方だなと当時思った. イタリア北東部、アドリア海北端のヴェネツイア湾に臨む水の都ヴェニスはカ−ニヴァルで大変賑わっていた. カ−ニヴァルといえば何といってもブラジルのリオ デ ジャネイロが有名だが、本当のカ−ニヴァルは中世イタリアで誕生したらしい. カ−ニヴァルとは中世ラテン語に由来し、年月とともに本来の意味も変わり、最初は厳しい冬の前の最後の祭りだったのが、四句節の前の最後の正餐という意味になって来た. イ−スタ−(復活祭)の前日曜を除く40日間を四句節と呼び、食事は朝晩のみで肉食は禁じられていた. 四句節に入る直前大いに羽をのばそうというのがカ−ニヴァル(謝肉祭)なのだ. イタリア語のCarnevale(カ−ニヴァル)はcarnem levareから来ていて「肉を食べない」という意味だそうだ. |
仮面をつけて 050206 | サンマルコ広場のフェ−スペインタ− 050206 |
昔から変わらないのは仮面をつけることで、仮面をつけることで自分を隠し別人になることが出来、社会の抑圧から解放されると言われている. ヴェニスやその他の都市は様々な特徴を作り出し自己流のカ−ニヴァルを発展させた. 当地の特徴は仮面と変装の美しさだそうだ. 2月の初めから変装する人もしない人も市内の狭い道に集まった. 今年もサン マルコ広場には仮装を見ようと押合いへし合うほどの人が出ていた.わずか半日強の滞在だったがカ−ニヴァルの雰囲気を堪能した. 16時には目的地のコルチナ ダンペッツオへ向かった. |
ツアーガイド兼スキ−インストラクタ− 秋元氏 撮影 050206 |
Cristalloのスキ−場 秋元氏 撮影 050206 |
Tofanaのスキ−場 050206 | 山小屋で一休み 050206 |
いきなり人物写真で恐縮ですが、ご本人には予め承諾を得ています. 今回は海外スキ−ツア−専門旅行社の(株)フェロ−トラベルが主催するツア−に参加した. 写真の女性は同社の方でイタリア語もスキ−も大変上手で、元気で陽気な彼女に同行者の皆がお世話になった(次回はもう少し大きい画像を掲載します). Cortina d'Ampezzoのスキ−については次回に譲ることにする. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
2.イタリア スキ−紀行 (コルチナ編) |
2005/03/25 |
コルチナ ダンペッツオ スキ-コ-ス の一部 |
2月5日、ヴェニス観光もそこそこに、夕刻16時頃バスで北へ約2時間半、ドロミテ山脈の東に位置する目的地のコルチナ
ダンペッツオ(Cortina d'Ampezzo)へ向かった. ドロミテ地方独特の岩山群も、コルチナ ダンペッツオについても殆ど知識はなく、わずかに1956年に当地で開催された冬季オリンピックで猪谷千春選手が男子回転で日本人初のメダル(銀)をとった事くらいしか知らなかった. 翌朝周りを見渡して驚いた. 本当に写真で見た通り岩山、岩山の連続でどこで滑るのかと思った. 雪は頻繁には降らず、従って雪面は凍らずとも硬そうで果たして転ばず、怪我をせず滑れるかと心配になった. 同行者は皆スキ-を日本から持参していて(我々3名は現地で借りた)、皆上手そうに見えた. 一緒に滑ったら思った通り大変上手だった. 百聞は一見にしかずだが、直接見る訳には行かないのでせめて以下の写真の羅列からスキ-場というよりスキ-コ−スを想像して下さい. 写真の山々はドロミテ地方の山々で、滑っているのはコルチナ ダンペッツオのFaloria,Cristallo,Tofana 近辺です. |
2005年2月 | 2005年2月 |
2005年2月 | 2005年2月 |
2005年2月 | 2005年2月 |
2005年2月 | 2005年2月 |
2005年2月 | 2005年2月 |
(株)フェロ−トラベルのスキ−ガイド MS.I.A 秋元氏 撮影 050206 |
周りはスキーの上手な人ばかりと書いたが本当に下手な人は見当たらなかった. 北海道のニセコアンヌプリよりも更に距離が長いスキ−コ−スが何十とあるのにはただただ驚くばかりだった. 前回も登場願ったスキ−ガイドさんは当然ながら凄い腕前だが、スキ−以外にイタリア語も堪能で私のように数ヶ月で覚えようなどと考える怠け者には羨ましかった. 写真をHomepageに掲載することを了承していただいている. 暫く横着を決め込んでいるうちにもう桜が咲く季節が近ずいた. あと1回スキ−紀行(今回は殆ど文章がなかったが)を書こうと思う. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
3.イタリア スキ−紀行 (続 コルチナ編) |
2005/04/30 |
コルチナ ダンペッツオ の 山小屋 2005年2月 秋元氏撮影 |
ぐずぐずしている間に桜もあっと言う間も無く咲き終わり新緑が眩しい季節になった. 今更スキ−の話でもないと思うが反省を込めて少し書くことにする. 新年早々苗場にスキ−に行った. 2月のコルチナ行きに備えて感を取戻すためである. 初日は何事も無く終わったが翌朝なんの前触れも無く突然食欲がなくなり一切の食べ物を受付けなくなった. スキ−を諦めて一日中横になり辛うじて回復した. 多分風邪かインフルエンザだろうと思ったが体調も良くなったので医師には診て貰わなかった. それからは十分用心して体調を整え、2月にイタリ−へ向かった. 一応Home Doctorから風邪薬を一週間分貰い、念のため体温計も持参した. ヴェニス到着翌日の市内観光は何事も無く気持ちよく過ごし、コルチナ ダンペッツオの初日も快調に滑ることが出来た. ただ夕刻山小屋の外で日光浴をしていたら一寸寒気を感じた (後で思えば多分日光が当り、気分が良くて小屋の外に長居をしたのが問題の原因だったと思う). 2日目の昼食を中腹の小屋で摂ろうという時に、急に苗場同様食事を受付けなくなり、全身の力が抜ける感じがした. |
コルチナ ダンペッツオ の 山小屋 2005年2月 | コルチナ ダンペッツオ の 山小屋 2005年2月 |
コルチナ ダンペッツオ 2005年2月 秋元氏撮影 | コルチナ ダンペッツオ 2005年2月 秋元氏撮影 |
コルチナ ダンペッツオ の山並み 2005年2月 | コルチナ ダンペッツオ の山並み 2005年2月 |
コルチナ ダンペッツオ の山並み 2005年2月 | ホテル TRIESTE 2005年2月 |
一休み 2005年 2月 |
昼食も食べず、同行の友人ご夫妻に助けられながら下山した. ホテルに戻るとスキ-服も脱がずにベッドに倒れこむと夕方まで眠ってしまった. 夕刻目を覚ますと身体が熱く感じたので体温を測ると39.4度もありいささか驚いた. 39度を超えるような熱を出したことは記憶には無い. 早速持参の風邪薬をのみ、後はひたすら濡れタオルで冷やした. 幸い翌朝には38度台まで下がり、あとは少しずつだが熱は下がっていった. 過去100回を越す海外旅行(出張)でも例のなかった経験をした. 同行の友人ご夫妻に親切に助けていただいたが、本当の一人旅では大変だったろうと思う. ただ食欲は無く辛うじて朝食を摂り、果物と水で凌いだ. もうきっぱりとスキ-を諦めたら気分が軽くなった. 風邪薬のせいか驚くほど眠った. 持参の本を読み、眠り、本を読み、眠った. と言う訳で殆ど外にも出ず街の様子は良く分らない. 滞在したホテルはTRIESTEといい、豪華ではなく言ってみれば高級民宿の感じであったが不便さは感じず、家族的で良かった. 食堂では泊り客(30名位?)と老齢の女主人や家族の人達も一緒に食事をした. 食事は食材の準備からか、夕食はツア-の現地駐在員が毎朝注文を取った. 欲を言えばせめてメニュウくらいはプリントして各自に配布して欲しかった. 魚料理などただFishというだけで目前に現れるまでどんな魚か分らなかった. 比較対象点をどこに置くかによるが、日本の民宿と比べれば種類も多く十分だったとすべきだろう. 部屋は十分に広く、大きな衣類タンスもあり荷物の整理に不便は無かった. 特に洗面所兼浴室は清潔で広すぎるくらいだった. こんな状態では折角試験前の一夜漬けのようにして勉強したイタリ-語をテストすることは出来ず残念だった. 帰国後スキ-に行かなかった友人からもう止めるように忠告された. しかし今回出会った、元気に滑る同年代の方たちを思うとそう簡単には止められない. 次回は一層身体の鍛錬に努め、体調を整えて滑ろう考えている. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
4. ふるさと と 漢詩 |
2005/05/23 |
紅枝垂地蔵桜 郡山市 HP より |
自分の「ふるさと」は何所にあるのだろう? 今住んでいる所、都会、田舎など様々であろう. 私にとっては人里離れた田舎である. 国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じて花に涙を濺(そそ)ぎ 別を恨んで鳥に心を驚かす ......... 杜甫 「春望」 ふるさとを想う時はいつも終戦直後の田舎の状況を思い浮かべてしまう. 4月に福島県いわき市での中学3年の同期会に出席した. 帰路磐越東線(いわき〜郡山)というローカル線に乗り途中で両親の墓参りをした.殆ど人家の無い夏井川渓谷に沿って桜が爛漫と咲きとても綺麗だった. ぼんやり車窓から景色を眺めながら長く留守にしている「ふるさと」を想った. 帰去来兮 帰りなんいざ 田園将蕪胡不帰 田園将(マサ)に蕪(ア)れんとす胡(ナン)ぞ帰らざる 既自以心為形役 既に自ら心を以て 形(カラダ)の役(シモベ)と為せば 奚惆悵而独非 奚(ナン)ぞ惆(ウラ)み悵(ナゲ)きて独り悲しまん 悟已往之不諫 已往(ムカシ)の諫(アラタ)むべからざるを悟り 知来者之可追 来者(ミライ)の追うべきを知る 実迷途其未遠 実(マコト)に途(ミチ)に迷うこと其れ未だ遠からず 覚今是而昨非 今は是(タダ)しくして昨は非なるを覚(サト)る 舟遥遥以軽風易 舟は遥遥(ユラユラ)として軽く風(ウキ)易(アガ)り 風飄飄而吹衣 風は飄飄(ハタハタ)として衣を吹く 間征夫以前路 征夫(タビビト)に問うに前路を以てし 恨晨光之熹微 晨(アシタ)の光(ヒカゲ)の熹微(カスカ)なるを恨む
[ いざや帰らん、ふるさとへ. 田畑は今にも荒れ果てそうなのに、どうして帰らないでおれようか. 自分からすすんで生活のために精神を売ったのだから、今更なんでめそめそとひとり悲しむことがあろう. 過ぎ去った過ちはもはや取りかえしのつかないものと観念し、未来の光明をこそ追求すべきものと知った. 今ならまだそう遠くへは横道に迷いこんでいないはず. 確かに今日の行動こそが正しくて、昨日までの自分は誤りだった. 帰りゆく舟はゆらゆらと軽やかに波に乗り、北風ははたはたと私の衣をひるがえしている. 私は、もう胸がわくわくしてきて、同乗の旅人に、故郷まであとどれほどかと尋ねてみたり、早朝の日ざしがぼんやりとして故郷が見えにくいのをもどかしがったり ]. 「帰去来の辞」 陶淵明 高校生の時、陶淵明の「帰去来の辞」を学んだ. [ 帰りなんいざ、田園将に蕪(ア)れんとす ]いう始まりは今もよく覚えている. 詩だけで322字の大作を読んで心が洗われる気がした. 当時は朝から夜まで受験勉強一筋の生活に精神的に疲労していたが、俗世間から離れて田園に帰る喜びを詠った陶淵明の詩に巡り合い、荒れた心を癒すことが出来た. 陶淵明を想うとき、ふと夏目漱石の草枕が頭をよぎった. そこに陶淵明が出て来るのだ. 陶淵明の連作「飲酒」、詩20首の第5首に次のような詩がある. 結廬在人境 盧(イオリ)を結んで人境に在り 而無車馬喧 而るに車馬の喧(カマビス)しき無し< 問君何能爾 君に問う 何ぞ能く爾(シカル)やと 心遠地自偏 心遠ければ地自(オノズカ)ら偏(ヘン)なり 采菊東籬下 菊を采(ト)る東籬の下(モト) 悠然見南山 悠然として南山を見る 山気日夕佳 山気 日夕に佳なり 飛鳥相与還 飛鳥(ヒチョウ) 相(アイ)与(トモ)に還(カエ)る 此中有真意 此の中(ウチ)に真意有り 欲弁已忘言 弁ぜんと欲して已(スデ)に言を忘る
漱石に戻るが、草枕で彼曰く 「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ. 余も三十年の間それを仕通して、飽々した.」 そして、「余が欲する詩は俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である....、 うれしい事に東洋の詩歌(シイカ)はそこを解脱したのがある. 菊を采(ト)る東籬の下(モト)、悠然として南山を見る. 只それぎりの裏(ウチ)に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる 」. 好きな漢詩のなかでも特に好きな詩がある. 高校時代に覚えた詩で、故人とは亡くなった人のことではなく友人のことだと分かって不思議に思ったのを未だ覚えている. 渭城朝雨潤軽塵 渭(イ)城(ジョウ)の朝雨軽塵(ケイジン)をうるおす 客舎青青柳色新 客舎(カクシャ)青青(セイセイ)として柳(リュウ)色(ショク) 勧君更尽一杯酒 君に勧(ススム)む更に尽せ一杯の酒 西出陽関無故人 西のかた陽関(ヨウカン)を出ずれば故人(コジン)無からん 「君に勧む 更に尽くせ 一杯の酒」 とあるように、酒を飲むうたには違いない. 陽関の先にはもう共に飲む友人はいないのだから、さあもう一杯ぐっと飲んでくれという悲しい酒である. 単に酒を飲む表現では無く、別離の悲しい酒を酌み交わす互いの辛さがよく分かる. たんたんとした表現から醸し出される周りの状況を想像するとき、自分には「別離のうた」として深く心に刻まれる. 中学同期の皆が、あと数年で古希を迎える.出席者が減る淋しさは何とも耐え難く二年後の会で終了だそうだ. それまではこの別離の詩は詠うまい. 新緑に桜が映えて夢心地となったふるさとの墓参りであった.
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5.タ−ナ− と モ−ム と バ−トランド ラッセル と | 2005/06/28 |
River Thames near Richmond (リッチモンド近くのテムズ河) 2001年7月 |
タ−ナ−とモ−ムとバ−トランド ラッセルと書くと何やら三題噺めくが勿論これには理由がある. 6月は結構忙しかった. それは夏に約1ヶ月ほど欧州に出かけようと思いその準備に日々を過ごしたからである. 旅程の決定と航空機や宿の予約、関連資料の収集などの全てを従来通り自力で済ませた. その為に一寸オ−バ−に書けば朝から夕までインタ−ネットを利用して各国のWebsiteの検索にかかり切りになった. 先ず悩むのは飛行機(座席)の予約が先か宿の予約が先かである. 今回は一応宿の空き具合を調査してから、先ず航空機を予約し、それから宿の予約をして最後にレンタカ−の予約に取り掛かった. 宿(ホテル等)の情報や空室検索は比較的簡単に出来た. Websiteによっては、自国語でしか表示がないのもあり、理解出来ない場合は意味を想像しながら画面を見たり、必要と思はれる欄をクリックした. 大半は英語表示もあり検索は比較的楽だった. 最近日本でも米国のクレジット カ−ドの情報漏れが大きな話題になっているが、私は例え安全でもカ−ド情報をメ−ルやInternetでは送りたくないので、予約の際は口頭(国際電話)かFaxでカ−ド情報を伝えた. 日本国内ではInternetによるホテルの予約にはカ−ド番号を記入しなくても良いので安心だ. Londonに2週間弱滞在するのでFull Kichen(台所)付のApartmentを借りることにした. 今は日本にも代理店が幾つもあり日本語でも探せるが、私は英国の検索エンジンにキイワ−ドとしてWeekly Rental London とかRental Apartment London とかを記入して探した. コンド−ミニアム スタイルから丸っきりの空き室など数多くあるが、場所と予算を考えて、いわゆる賃貸アパ−トメントを契約した. Websiteの申込み欄にカ−ド番号を含む必要事項を入力し、その頁を印刷し署名をしてFaxで送ると契約書がメールと郵送で届いた. 契約条件では前払いを要求された. 総額の25%を契約時に頭金として支払い、残額+2%(カ−ド支払いの手数料)を入居日の8週間前に支払う. また入居終了後の掃除代を別途支払う. 更に電話代や部屋の設備を破損した場合の賠償保証金(後日返却)として然るべき額を前払いする. キャンセル時には、誰かが同じアパ−トメントを私が要求した(キャンセルする)日々を借りない限り払戻しは無い. 契約は英国の代理店と行ったが、キャンセル時の無返金のリスク対策として旅行保険に入ることを薦められた. 日本ではこのようなケ−スをカバ−する保険を知らないが欧州では(米国も?)一般的らしい. 因みに借りるApartmentは下の写真で示すように、居間、寝室、台所、浴室で構成されている.
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Richmond 近郊 の テムズ河 2001年7月 | Richmond 近郊 の テムズ河 2001年7月 |
Richmond 近郊 の テムズ河 2001年7月 | Richmond 近郊 の テムズ河 2001年7月 |
上の写真は一寸古く2001年の夏の写真だがRichmondの近くにWimbledonがあり丁度全英テニス選手権が開催されていて大変賑わっていた. 男子の英国人プレイヤ−(確かTim Henman)が準決勝まで勝ち続け大騒ぎだった. 座席は一年先の確保も難しく、すぐ側なのにTVで観戦した. 丁度今開催されているが、日本の選手は杉山だけがダブルスで残っている. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
6.たばこの煙 | 2005/08/05 |
夕焼けに映るアイガ− 日本語観光案内所(Grindelwald) 提供 (05/03/01) |
タイトルを「パイプのけむり」にしようと思ったが、著名な作曲家の團伊玖磨氏の随筆集の名前なので、ここは「タバコの煙」とした. 私はたばこを喫わないと書くと知人達は嘘と言うと思う. 正しくは20年以上前に紙巻タバコを止めた. 当時はタバコそのものでなく、紙巻タバコの紙が健康に悪いと言われていた. 一日2箱(一箱20本)以上喫っていたがそれならばとキッパリ止めた. 多分タバコそのものより、喫煙するということが、仕事の区切りに得たい一種の安らぎ感を与えるとか、憩いをもたらすとかで、かなり情緒的な思いでタバコが欲しかったのだろう. しかし紙巻は止めたけど、今でもシガリロ(小さい、細い葉巻のようなもの)やパイプタバコを好んでいる. それはタバコの葉の香りや、煙が好きだけではなく、喫う前の儀式に魅力を感じるからかも知れない. パイプタバコを楽しむ時は、葉を入れるボウルの内壁にカ−ボンが付着しすぎたらナイフで削るとか、ボウルから吸い口までの煙の道(細い穴)をパイプクリ−ナで掃除するとか、ゆっくりとタバコの葉をほぐし火が万遍なく回るように圧力をかけないでボウルに詰めるとか、実際に火をつける前の所作が楽しいのだ. 紙巻タバコを喫い出したのは大学生の頃で、早く一人前と思われたかったのであろう. 多分安い「憩」が主流で稀に「ホ−プ」だったかと思う. ホ−プは多少味というか煙が濃く感じた. 後日になって多分トルコ葉が少し入っていたのだろうと思った. トルコ葉はかなり強い香りがして米国のバ−ジニヤ葉に慣れた日本の喫煙家には好まれなかったようだ. 英国製のウエストミンスタ-というタバコは断面が楕円形をしていることや、トルコ葉の香り、などの特徴があり珍しくて時には喫ったものだ. 私の父の実家は農家で松川葉というタバコの葉を生産していた. 日本の紙巻タバコは松川葉にバ−ジニヤ葉を混ぜたものと思っている. タバコは専売公社が管理していたので、例え生産者でも全く自由に出来なかった. 父はヘビ-スモ−カ−だったので、戦時中は(戦後も?)タバコの配給が途絶えると、代用タバコとして、確かイタドリの葉を干し、刻んで手巻きのタバコを作っていた. 紙も上質のものが無く、小版の辞書の紙が一番良いと言っていた. 一枚、一枚と破りとって手巻き代用タバコを作っていた. 今でも外国、例えばドイツ、では手巻き用の器具、まき紙、刻みタバコを売っている. 父の実家に祖父を訪ねると、囲炉裏に腰掛けてキセルで刻みタバコを喫っていた. 喫い終ると未だ火がついている吸殻を掌で転がしながら、新しく詰めたキセルの葉に載せてマッチの代わりにしていた. これには熱いだろうと大変驚いた. 私はもう紙巻タバコは永く喫っていないが、時々シガリロやパイプタバコを嗜む. 紙巻きではないし、喉から奥へは飲み込まないのでニコチンが体内に入る (まあ少しは入るだろうが) 心配はないなどと勝手に解釈している. |
グリンデルワルトの駅へ向かって (2005年7月) 日本語観光案内所(Grindelwald) 提供 | ユンクフラウ(左) (2005年7月) 日本語観光案内所(Grindelwald) 提供 |
5月のベッタ−ホルン (2005年5月) 日本語観光案内所(Grindelwald) 提供 |
7月のベッタ−ホルン (2005年7月) 日本語観光案内所(Grindelwald) 提供 |
先日書店をぶらぶらしていたら、新潮文庫の新田次郎著 「アルプスの谷 アルプスの村」が目に留まった. 40年も前に買ったハ−ドカバ−本を無くしたのでこの際と思い購入した. 以前書いたが、学生時代に登り滑った北海道のニセコアンヌプリの近くにワイスホルンという山があり、アンヌプリを中心にワイスホルン、ニトヌプリ、チセヌプリなどを周遊しながら幾度となく滑ったことがある. このワイスホルンの名前は多分スイスの山の名前をとったものと思うが、滑る度にスイスの山でいつかは滑って見たいと望んでいた. 会社入社2年後にこの本が出版された(昭和39年頃). 夢に見るスイスの紀行文を読み、一層スイスのスキ−に憧れた. まさか数ヶ月後に駐在員として北欧に住み、翌年休暇でスイスで滑ることが現実になるとは夢にも思っていなかった. 大学の恩師からはスキ−に一緒に行き山小屋で泊まった時などに、酒を片手に良く昔行ったGrindelwaldの話を聞いた. 想いが適ってやっと2003年にGrindelwaldへ出かけることが出来た. その時は新田次郎著 「北壁」を読んで出かけたが、現地に着いたら聳え立つアイガ−の凄さに圧倒された. その時ふっと思ったのは、大学の友人の家のある甲府での経験である. 甲州盆地にある甲府では一歩家の外へでると360度どこを見上げても山ばかりで息が詰まりそうな気がした. GurinderwaldもEigar、Jung Frau、Wetterhornなど高山が幾つもあるが街が取り囲まれていないので、凄さはあるが息は詰まらない! アイガ−東山稜の初登攀に成功した槙 有恒さんや沢山の日本人登山家がスイスの山岳の登攀に挑戦しているが、先日のニュ−スで3人の日本人登山家がアイガ−で遭難して亡くなられた方もいると聞いた. 大変悲しいことである. 来年はフランスのCHAMONIX(シャモニ−)で滑る予定だが、各地を回った後に再びGrindelwaldに戻って来たい. これから約1ヶ月ほど欧州の旅に出かけ9月上旬に戻るので、次回は9月中旬になります. 猛暑が続いていますが、どうぞ健康維持に留意されて過ごして下さい. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
7.旅日記 2005年夏 (1) | 2005/09/26 |
ヴァイキング 船 ( Stockholm 郊外 2005年8月 ) |
8月初めに2001年以来訪れていないCopenhagen、Stockholm、Londonへの約1ヶ月の旅に出た. 仕事や休暇で幾度となく訪れたことがあるので、感性が麻痺してしまい感動することが少なくなってしまったが、今回は細かく観察したいと思った. 旅日記とは大袈裟だが見たこと、感じたことを数回に渡り書くことにする. 全行程SAS(Scandinavian Airlines System)で飛ぶことにして先ずはCopenhagenに向かう. 成田発11:45、Copenhagen着16:15、時差7時間を勘案すると11時間半の長旅である. Copenhagenに1泊して我が身の時差の調整をして翌日Stockholmへ向った. Stockholm空港で車を借りるので、直接行き疲れた状態で運転するのを避ける為であった. 長旅なので慎重に体調を考慮し成田に前泊した. スキ−に行く時はグル−プツア−なのでエコノミ−クラス専門だが、今回は久しぶりの個人旅行なのでワンランク 上げてじっくり機内サ−ビスを楽しむことにした. まず機内に入り座席に落着くとウエルカム ドリンクが来る. 血糖値が高くカロリ−を低めに抑える必要があるが、暫くは忘れようと勝手に決めて、シャンパンを貰った. 長距離のフライトでは、一般的に離陸後2時間頃と、着陸1時間半位前に食事が出る. 食事間隔、時差、食事が出る時間などを考慮して、インスリン注射をするタイミングを決めるがなかなか難しい. 上昇状態から安定飛行に移ると、食事前の飲み物のサ−ビスが始まる.これからの食事時の飲み物を考えて、Bitterと称されるカンパリ(Campari)のソ−ダ割りを頼む. やがて食事のメニュ−とワインリストが配られる. 先ず何を食べるかじっくり考えてから飲み物を決める. リストをみると、「HENRIOT(シャンパン)」、「2003 Sauvinion Blanc,Selaks,Marborough、New Zealand」、「2002 Chardonnay,Hope Estate,Hunter Valley,Australia」、「2002 Shiraz、Tyrrells Rafus Stone, Heathcote,Australia],「200 2Vinsobres Le Cornuds,Perrin Family,Rhone,France]、その他ビ−ル,アクアヴィット、ウオッカ、ソフトドリンクなどがある. 白ワインのChardonnayにしようか暫し考えたが、好きなシャンパンのHENRIOTにした. この銘柄は初めてだった. 食事は車えびのキャビア添えの前菜に続き4種類の(ホキのソテ−,豚ヒレ肉、牛ヒレ肉、チリ・キャベツとライス)メニュ−があり魚(ホキ)を選んだ. その後のチ−ズ,デザ−ト(モカ・ナッツケ−キと季節のフル−ツ)とコ−ヒ(紅茶、日本茶)で終了となる. これまでの経験から、他社と違い感心するのは、ナプキンが落ちないように小さな洗濯ばさみ状のクリップがナプキンに付いてくることである. |
湖の側の教会 ( Stockholm 郊外 2005年8月 ) |
マ−ケット ( Stockholm 市内 2005年8月 ) |
Stockholm 郊外 Sollentuna 駅 ( 2005年8月 ) |
Stockholm 旧市庁舎 2005年8月 (ノ−ベル賞授与者公式晩餐会場) |
食事が終れば、映画や音楽や読書でくつろぐことになる. 航空機会社によっても異なるだろうが殆どは座席横にTVスクリ−ンが設置されていて、それを引っ張り出して映画を見たり、好きな音楽や、ゲ−ムを楽しむ. 今はタッチ スクリ−ン式なので操作が楽で助かる. 欲を言えば、映画の開始と終了時間が決まっていて、いつでも開始するわけには行かないのが残念である. 当然のように電話機も各自の席についている. さて食事も映画も終われば少し休もうとなるが、座席はワン タッチの操作で水平近く(理髪店の髭剃り時の角度位)になり、足モタレもセットされてなかなか宜しい. 機内のビュッフェでは、冷たい飲み物、フル−ツ,サンドイッチ、おにぎり、スナック類が準備されていていつでも利用出来る. いわゆる エコノミ−クラス 症候群 (今やクラスに関係なく発症するようになった)にならぬよう度々機内を歩くのでそのたびにビュッフェに立ち寄った. 到着1時間半ほど前に(現地時間の夕方になる)再び食事が出る. 鶏胸肉のグリルかウオレン・バ−ガかのいずれかを選ぶ. 人によっては長すぎるかも知れない(私は快適に楽しんだ)フライトも終わりとなり、どんよりとした曇り空のCopenhagen Kastrup空港に到着した. 翌日Stockholmへ向かうので市街ではなく、空港敷地内のホテルに泊まった. カ−トにス−ツケ−ス等の荷物を載せたままホテルへ行けるのが楽で良かった. 想定はして来たが天候が悪そうで、やはり長袖が必要な季節になったのかと少しがっかりしたが、翌日からは結構晴天が続いた. 旅日記などと言いながら単純に描写しているだけだが、いつかは記録しておきたいと思ったので書いている. 次回はStockholmの滞在を書く. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
8.旅日記 2005年夏 (2) | 2005/11/07 |
風力発電 ( Copenhagen 沖合い 2005年8月 ) |
前回から1ヶ月以上も間が空いてしまった. 別に健康を害したわけではではなく、10月は雑事多忙のためHomepageを更新する時間がなかった. こんな頁でも結構時間がかかり片手間には出来ないのです! もう記憶も色褪せかかって来たが、何とか続けることにする. 8月12日(金)、Stockholmは晴れだった. LondonのHeathrow空港のストライキのあおりで機材の到着が遅れたので、Copenhagen発が遅れ結果的にはStockholm着が遅れた. レンタカ−は到着時間で予約したので、遅れたらキャンセルかと思ったがそうなったらその時に考える事にした. StockholmのArlanda空港に着くと入国審査もなく(多分Copenhagenからだろう)、外に出てレンタカ−会社が協同運行しているバスで空港近くのオフィスへ向かった. オフィスでは1つの建物内に数社の窓口がある. 従来はインタ−ネットを介して直接予約したが、今回は日本の会社へ電話で申込んだ. 支払いは現地通貨にした. 現地での手続きには勿論国際免許が必要だが更にCredit Card (その会社で使用出来るか予めチェックしておく)も必須である. 北欧のレンタカ−は(多分英国を除く欧州では)、ギア変速の車種が殆どでオ−トマチック変速車は車種が少なく且つ大型車になってしまう. 過去2回マニアル変速車を借りたが、最近はオ−トマチック車しか乗っていないので、色々とレンタカ−会社の車種をWebsiteで調べ今回はオ−トマチックのVOLVO S40を探し出して借りることにした. 契約書にサインして鍵を貰い場所を聞いて自分で探して乗る. 日本と違い傷の有無の相互チェックなどはない. 借りる時に、経験上忘れないようにしているのは、ガソリンスタンドでの給油が全てセルフサ−ビスなので、ガソリンの種類を尋ねることである. 但し聞いても分らないので、ノズルの色を聞く. これなら給油の間違いはない. また必ず運転席前の窓に取り付けられる磁石を持参する. 地方へ行くと道路標識の地名が何処にあるか分らなく、ル−ト番号では進行方向か後方か分らないが磁石と地図で判断出来るからである. 道を尋ねるような人は回りにいない時が多い. |
Highway (Stockholm Arlanda Airport からStockholm市内へ (2005年8月) |
Scandic Star Sollentuna ( 2005年8月 ) | Star Hotel Lobby ( 2005年8月 ) |
ソレンツナ地域の役所前 ( 2005年8月 ) |
飛行機から降りていきなり左ハンドルで右側通行の道路を運転するのだから慎重にならざるを得ない. 市内へ向かう高速道路(通行料は無し)を時速60〜70kmくらいで走った. 速度制限は確か110km/Hだと思う. 因みにこの道路はE4と呼ばれ、隣国のFinlandのKemiという町をスタ−トしてSwedenを縦断してSwedenの南西端のHelsingborgで終わる道路で欧州の基幹道路の一つである. 我々のドライブは空港からStockholm市内へ向かって40分ほどで高速から降り、普通の道路を15分ほど走って終わった. そこに定宿のホテルがある(Scandic Star Sollentuna Hotel). 郊外にあり駐車場は広く(200台以上、但し有料で50クロ−ナ=¥750/24H),ショッピングセンタ−や、市内へ行く鉄道の駅や、バスセンタ−も直ぐ側と便利なのだ. 我々には関係ないが地域の役所(区役所みたいな所)も目の前にある. また我々のような長期滞在者には、このホテルは夏価格の宿泊料が市内泊に比べるとかなり安く、部屋が居間と寝室に分れていて住み心地が良い. 毎日駐車時に機械に50クロ−ナ投入して1日券を買いダッシュボ−ドにかざしておく. この機械は硬貨しか受付ないので、有料トイレのためにも毎日硬貨を集めた. こちらでは殆ど朝食代金は宿泊料に入っていて、コンチネンタル朝食といえどもメニュ−は豊富で美味しい. いわゆるバイキング方式(Buffet Breakfast)が多い. 今回は従来はいなかった東洋人の宿泊客(観光客)が多いことに気がついた. 中国人か香港、台湾、シンガポ−ルからの中国系の人達だと思う. 日本からの観光客もいて驚いた. 添乗員に尋ねたら、最近はツア−料金の価格競争が激しく市内のホテルは高すぎて泊まれないそうだ. このホテルなら駐車場が広く、大型バスも容易に駐車出来、駅も近く、Stockholm中央駅まで電車で20分くらいで足の便も良いので泊まるのだそうだ. |
Drottninggatan ( 2005年8月 ) |
Ostindiefararen ( East Indiaman ) Gotheborg ( 2005年8月 ) |
Gamla Stan ( 2005年8月 ) | Slussen ( 2005年8月 ) |
郊外のショッピングセンタ−で買い物をする時は車を使い、Stockholm市内に出かける時は電車で行った. 電車で20分くらいしかかからないし、市内で駐車場を探すのは面倒なので. 中央駅の近くにDrottninggatanという通りがある. 写真にあるように観光客で賑わっているが、30年も前は道幅も狭くもっとひっそりしていたような気がする. 当時は仕事帰りによく食事に寄った店があったがもう見当たらない. Drottningとは英語で言えばQueenのことで、GatanはStreetの意味である. この道を南東へ行くとGamla Stan(旧市街)に行き着く. 狭い道の両側に店舗が並び観光客で溢れている. 不思議なことは、夏の観光客相手に一番のの書入れ時なのに店舗を夏休みで閉めている店が見受けられることだ. 更に南西へ歩くとSlussenという小さな港に出る. ここで帆船を見かけた(写真が小さくマスト位しか分らないが)が後日SASの機内誌に写真があったので紹介する. この船の名をEast Indiaman Gothborg といい、18世紀のスウエ−デンの貿易船だった. その船を再現し当時のコ−スを辿って上海まで行くそうだ. 暫くは好天の日々が続き街を歩くのは楽しかった. 常時長袖のジャンパ−を持参したが寒くもなく、20℃〜25℃くらいの日が多かった. 外出するのは良いが、私はインスリンを一日三食ごとに注射するのでその場所探しがいつも頭痛の種だった. また年齢のせいかトイレが近くなって来たので、外出時は常にトイレを探す事が念頭にあった. 勿論レストランに入れば問題ないが、食事時でなければ、デパ−トの有料トイレを利用した. ただ日本みたいにどの階にでもある訳ではない. Stockholmでは1回の借用が5クロナ=¥75だった. 滞在中数回義理の姉宅を訪問した. 酒を飲むので車ではなく、ホテルからバスで出かけた. バスの発車時刻表、目的地までのバス停の名、バス停毎の時間表、バス停近辺の地図、行きたい所の住所からバス停の検索、など全て日本でWebsiteから調べる事が出来た. これはAB Storstockholms Lokaltrafik 社のHomepageを見つけたからだった. 大変良く出来ていて、地図上の行きたい場所をクリックするとバス停の名前や距離までもが分った.
さて一日、前述のSlussenから小船に30分弱乗りFjaderholmarna 島 (小さな島、1周20分もかからない)へ出かけた. 人はのんびりと散策したり、海水浴を楽しんでいた. 日本の夏はさぞや暑いだろうと思ったが、この際涼しい小島で全てを忘れて「のんびり」の世界に没入した. 次回はLondonの滞在を書きます. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
9.旅日記 2005年夏 (3) | 2005/12/30 |
英国名物 フィッシュ アンド チップス ( 2005年8月 ) |
8月20日、Stockholmから約2時間半のフライトでLondon Heathrow 空港に到着した. Londonには空港が2つある. HeathrowとGatwickである. 出迎えの人に正しく伝えないと大変なことになる. 我々はLondonでは Apartment Houseを借りて滞在するのだが、到着日が土曜日なので不動産屋が休みで鍵が手に入らない. 事前の連絡でタクシ−の運転手に鍵を持って空港まで迎えに来て貰った. 約束通り迎えに来てくれるか、待合せ場所でうまく会えるか少し不安だった. 万一会えなければ、その日の宿(ホテル)を探さねばならない. 待合せ場所は空港のタクシ− インフォ−メション デスクと聞いていたが、その場所が見つからなかった. インフォ−メションで尋ねて行ったら驚いたことにカウンタ−の後ろの電光掲示板に大きく Welcome Mr&Mrs.Sugataと表示されていた. 後は順調に1時間位のドライブでChelseaのApartment Houseに着いた. Apartmentはテムズ河のほとり、Old Church Street にあり、近くに古い教会がある. 日本流に言えば2LDKで約100uほどの広さがあり1階で庭に面している. |
Taxi Information Desk | Apartment (11 Old Church Street) |
Living Room | Old Church |
英国に来て是非食べたいと思うのは、Fish and Chipsである. 安くてすぐ食べられるので好きだ. 鱈や鰈などの魚のフライとフレンチフライに酢か塩をかけて食べる. 店で注文したら、店員の訛りが強くてなかなか通じなくて困った経験がある. 日本でも食べたくてインタ−ネットで探した店(Bar)に行ったら、上品に皿に盛って出されたのは残念だった. 現地では新聞紙などに包んで渡される. Londonと言えば誰しも箱型タクシ−と二階建てバスを連想する. 然し昔からの、いつでも飛降り、飛乗り可能なバスは次第に前乗り、後降りタイプになり停留所以外では停まらない. 我々滞在中は殆どタクシ−を利用せず専ら地下鉄とバスを利用したが、大変便利である. 地下鉄とバスの7日間乗り放題パス(18.5ポンド=約¥4,000)を買って連日利用した. 勿論有効ゾ−ン内のみであるが、市内で利用する限り殆どOKである. Londonの街を歩けば、横断歩道の至る所で地面に「Look Right」と書いてある. 左側通行の日本に住む我々には、道路横断時には先ず右を見るのが当然であり、「Look Right」をみても親切に書いてあるとしか思わなかった. 然し今回ふと気がついた. 英国は左側通行でも、欧州大陸では右側通行なので、欧州やアメリカからの観光客は習慣で先ず左を見ると思う. 観光客の安全に大変注意していると感じた. 翻って観光立国をうたう日本はどうなのだろうか?. すぐ側をテムズ河が流れている. London市内を流れる川は幅も広く周りの景色も森や林や野原から林立するビル群に変わっているが、河畔の道の眺めや散策は楽しい. 散策に疲れると設置されている椅子に座りのんびりする. 幾度となく訪れているので買い物に走り回る必要もなく、パイプタバコを喫うような環境も今はない(日本でも)ので、ダンヒルの店へ行きパイプを探すこともなくなった. |
London Bus | 横断歩道の注意 |
テムズ河畔 | 河畔の椅子 |
国会議事堂 2005年8月 |
テムズ河を東に行けば、名高い建造物が多々ある. ただ残念ながらChelseaからは歩くには遠すぎる. 国会議事堂にはバスを乗り継いで出かけた. London旅行記は次回に続く. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
10.旅日記 2005年夏 (4) | 2006/02/02 |
Oxford の夏 ( 2005年8月 ) |
遅ればせながら読者の方々へ新年のご挨拶を申上げます. 本年も宜しくお願いいたします. 回数を重ねるほどに更新のインタ−バルが長くなり申訳ありません. さて昨年夏の旅行記が完成する前に年が変わってしまったが、いま暫く続けます. 滞在先にChelseaを選んだのは、近くをテムズ河が流れているのと、古くから多くの作家や文化人が好んで住んでいた地域なので、その雰囲気を味わってみたかったからだ. 先ずタ−ナ−(Joseph.M.W.Turner)である. 前に書いた文章を引用すると、 Joseph M.W.Turner は英国が誇る風景画家である. 私がTurner(タ−ナ−)のことを知ったのは夏目漱石の「坊ちゃん」を昔読んだ時であった. [ 「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘の様に開いてタ−ナ−の画にありそうだね」 と赤シャツが野田に云うと、野田は「全くタ−ナ−ですね.どうもあの曲がり具合ったらありませんね.タ−ナ−そっくりですよ」 と心得顔である. ] ( 坊ちゃん ) 四国、愛媛県松山市高浜町の沖、約150メ−トルに浮かぶ高さ18メ−トル、周囲約140メ−トルの小島がある. 名を四十島というが 別名をタ−ナ−島と呼ばれている. 「坊ちゃん」に野田が教頭の赤シャツにタ−ナ−島と呼ぶことを提案し赤シャツが賛成したが坊ちゃんは迷惑な話だと書いてある. 英国最高の風景画家タ−ナ−のアトリエ兼住まいの場所はテムズ河沿いに走る Cheyne Wlk 118番地と分っていたので散歩がてら探しに行った. 簡単に分ると思っていたが118番地が見当たらず大変苦労した. 近所の店や住人に尋ねても分らずやっと探しだした. あの有名な画家を知らないとは!と思った. 色あせたプレートに気づかなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうだ. プレートは古く不鮮明だが良く見ると、JOSEPH MALLORD WILLIAM TURNER. LANDSCAPEPAINTER(風景画家) B 1775 (出生)、D 1851(死亡)と記入してある. |
タ−ナ− のアトリエ兼住まい | タ−ナ− のプレート |
Milne(ミルン)の家 | Milne(ミルン)の家に張られたプレ−ト |
Oscar Wilde は1854年10月16日アイルランドのダブリンで生まれ、1900年11月30日にフランスのパリで亡くなった. 後期ビクトリア女王時代にロンドンで最も成功した劇作家の一人といわれた. Tite(タイト) Street 34番地にはオスカ− ワイルドが10年ほど住んでいたというレンガ造りの家がある. 暫く佇んでいたが訪れる人影はなかった. 次回に譲るがその他 Tomas More,Thomas Carlyle 等多くの文化人が住んでいたのがこのChelseaである. |
オスカ− ワイルド の家 |
オスカ− ワイルド の ブル−プレ−ト |
London旅行記は更に続くのだが、別の機会に譲ることにして次回はフランスのスキ-旅行記を書くことにする. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
11.フランス(Val d'Isere) スキ-紀行 (1) | 2006/03/15 |
espace killy (Val d'Isere & Tignes 2006年2月 ) |
2006年2月、成田空港からSwiss International Air
Linesで チュ-リッヒ経由ジュネ−ブへ飛んだ. そこからバスに乗り国境を越えて南に180km下り、フランスのVal d’Isere(ヴァル・デイゼ−ル)にスキ-に出かけた. 初めての添乗員付きのLook JTBのツア−に参加した. 総勢9名の内友人、知人が6名とほぼ身内の旅行になった. 参加者9名の内60歳未満は1名のみで他はシルバ-メンバ-だ. Val d’Isere (eの仏語circumflexが表示出来ないのでeで表示する) はフランスのRhone (同様にoも表示出来ない) Alpes [ロ−ヌ・アルプ] 地方に位置し、今年の冬季五輪開催地イタリ−のトリノ(Torino)は国境を隔て直ぐ東側にある. スイスのジュネ−ブ(Geneve)を出発して10分くらいで国境を越えフランスへ入り(バスは一時停車のみでノ−チェック)、遥かシャモニ−(Chamonix), モンブラン(Mt.Blanc,4810m)を東に、1992年冬季五輪が開催されたアルベ−ルヴィル(Arbertville)を通り、1968年の冬季五輪のグルノ-ブル(Grenoble)の北東にあるVal d’Isereまで約3時間(凡そ180km)かかった. 現地時間の23時頃やっとホテルに到着した. 部屋に用意してあった食事を食べ即ベッドに入った. これまでの経験では、時差で睡眠が十分取れないと、体力不足もあり、初日の滑りがとても惨めなことになった. 普段は飲まない睡眠導入薬を飲んだせいか良く眠れて翌日は調子が良かった. 昨年イタリ−へ行った際は20名以上の参加者がスキ−や靴持参だったので驚いた. 私は重いし、運搬が面倒なので現地で借りる主義である. また余りスキ−ばかり夢中になりのんびりビ−ルを楽しむことが出来ないのは嫌だが、今回は大半の同行者を前から知っているし、初めての方々も明るく朗らかで滑る時以外でも大変楽しかった. 添乗員の重野氏は、ルックJTBのパンフレットに依れば添乗日数5000時間超、SAJ公認1級、スキ−暦36年の大ヴェテランで大変心強かった. 実際のスキ-場はVal d’Isereとテイ−ニュ(Tignes)から成り総称としてespace killy (エスパス キリ−、キリ−広場とか、キリ−の世界)と呼ばれ、スキ−地図には、世界で最も美しいスキ−エリア(le plus bel espace de ski du monde)と書いてある. キリ−とは、1968年グルノ-ブル冬季五輪でアルペンスキ−の三冠王となったジャン・クロ−ド・キリ−(Jean Cllaude Killy)を指し、彼の故郷であり、彼がデザインしたコ−スも数多くあり、彼の偉業を讃えてスキ−場の愛称に彼の名がつけられたそうだ. 余談だが、彼は今年のトリノ冬季五輪の聖火リレ−の際に、92年五輪のアルベ−ルヴィルでランナ−を勤めた. |
我々のホテルは三ツ星で部屋数40 のALTITUDEと言うこじんまりした 宿だ. 部屋にはバルコニ−が付いてい て、そこに出ると山々が良く見える. 地下に乾燥室がありスキ−は 部屋毎のロッカ−に入れ、靴は壁 に挿した棒状の靴掛に掛ける. 左の写真がそのホテルですぐ近く にSOLAISE(2560m)行きケ− ブルカ−の乗場がありスキ−ヤ− で混んでいる. |
朝7時頃のVal d'Isereの町と山(1) 2006年2月 | 朝7時頃のVal d'Isereの町と山(2) 2006年2月 |
Solaise 2560m (1) 2006年2月 | Solaise 2560m (2) 2006年2月 |
Val d'Isre近傍の山並(1) 2006年2月 | Leissieres の下り リフト 2006年2月 |
Val d'Isre近傍の山並み(2) 2006年2月 | Val d'Isre近傍の山並(3) 2006年2月 |
Tーバ− リフト 2006年2月 | Val d'Isre近傍の山並(4) 2006年2月 |
スキ−ガイド(左端)に連れられて 2006年2月 |
連日眩いばかりの好天に恵まれ、広大なスキ−場とそれらを取り囲む3000m級の山並みにただただ圧倒された.一つだけ残念なのは余り降雪がなく硬い雪面を滑ったことだった. ある時は景色を眺めながらのんびり滑り、ある時は狭く混んでいる沢や、表面が凍った急勾配の傾面をを必死の思いで滑った. 写真にある Leissieres の下りリフトは、滑らない人が乗るのではなく、下から上方に上っているリフトが山頂を越えて下るのである. スキ−を着けたまま下るのは初めての経験だし、また絶壁を下るので大変怖い思いをした. 然し前方に見える山々を眺めると感嘆のあまり暫し声も出なかった. 場所によっては、休み休みとは言え、8kmもあるコ−スを滑ると腿の筋肉が猛烈に痛く、痺れてきて、体力不足、準備不測を痛感した. この痛みが無ければもっと楽しめたろうにと悔やまれた. 次回に備えて一層のトレ−ニングに励もうと滑りながら誓った. 一番下の写真の背景に この周辺で2番目に高い La Grande Motte (3656m) が見える. ケ−ブルカ−の終点は3456mにある. 今回はここまでとします. 次回は(余り時間を置かないで)、フランス(Val d'Isere) スキ−紀行(2)をUploadします. 折角の写真は縮尺したせいか不鮮明で済みません. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
12.フランス(Val d'Isere) スキ-紀行 (2) | 2006/04/18 |
Le Laisinant ( Val d'Isere 2006年2月 ) |
出発に先立ってVal d’Isereに関するWebsiteを見ていたら、不思議な味の飲物のことが書いてあった.その名をモナコという. ある夕べ、早速レセプションの娘さんに尋ねたら名前は聞いたことがあるが、内容は分らないので18時からBarが開くのでバ−テンダ−に聞いてくれといわれた. 名前を「MONACO」というビ−ルのカクテルで、その内容は、 1.ビ−ル 50% 2.レモネ−ド 50% 3.混合果実のシロップ 確かに甘くて不思議な味がした. |
連日信じられないような好天に恵まれて大変楽しくスキ−が出来た. 惜しむらくはもう少し体力があれば息もはずまず更に楽しめたろうと思う. 前回書いたように、スキ−場は大きく分けて、Val d’IsereとTignesに分かれている. 下の写真はVal d’Isere側の景色である. |
写真を拡大するには画像を左クリック ( Val d'Isere 2006年2月 ) |
前回La Grande Motte (3656m)とその頂上近くのケーブルカ−終点(3456m)から滑り降りたことを一寸書いた. この山へはTignes側から上る. Grande Motte (3656m)へ行くには、先ず Val d'Isere 側のケーブルカ−( L’Olympique )で2827m地点まで上がり、そこから斜めに、途中リフトで上がったり滑り降りたりしながら、TignesのVal Claretへ下る. そこから地下を走るケーブルカ−(Funiculaire Grande Motte,トンネル内のレ−ルの上をロ−プに引かれて走る)で途中まで上がり、更に空中ケーブルカ−に乗換えて3456mで降りる. 頂上を目指すには、あとは歩くしかない. 折角の晴天なので、紺碧の空の下、純白な周りの素晴らしい景色をもっとゆっくり見ておくべきだったと、今にして思う. 恐らく同行のガイドは出来るだけ沢山のコ−スを案内したかったのだろうと思うが、随分忙しく滑った感じがした. |
写真を拡大するには画像を左クリック ( Tignes 2006年2月 ) |
晴天が続くが降雪がない. 雪面が硬いので、出来れば夜間雪が降り、日中は晴天などと我ままな望みを抱いた. ある一日、Val
d'Isere側からケ−ブルカーで Recheride Vellevarde (2827m) へ上り、Tignesへ下った. そこから小屋で休憩しながら、岩山に穴があいた「針の穴」と呼ばれる、L'Aiguille
Percee へ向かった. |
写真を拡大するには画像を左クリック ( Tignes 2006年2月 ) |
写真を拡大するには画像を左クリック (Hotel Altitude 2006年2月) |
上はホテルの夕食時に写した同行者一同の写真です ( この写真をHomepageに掲載することは皆さんの了解を得ています ). 全員が揃って見えるように3枚の写真を1枚に合わせたのでお分かりのように、明るさ、色合いなど違っていて不自然ですがご容赦を. 一行の大半は、リフト券のシルバ−割引対象者です. 然しこの方々は3500m近辺から麓の町まで、一度も転ばないで飛ばして下る兵(つわもの)たちなのです. 私より先輩の方々もいて、この先のスキ−人生の大きな励みになり、また一緒に滑れて大変嬉しかった. 次回の、フランス(Val d'Isere) スキ−紀行(3) に続く. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
13.フランス(Val d'Isere) スキ-紀行 (3) | 2006/05/22 |
Ski Train (Val d'Isere ) 2006年2月 |
モタモタしている内にもう5月も終わりに近く間もなく梅雨の季節の到来である. スキ−とか雪の感じは遥かに過ぎ去ってしまった. 上は小学生位の子供達が立方向に連なって上手に滑り下りるのを感心して眺めた時の写真である. 見ていると先頭の指導者は後を見ることもなくさっさと自分の滑りをしている. 多分生徒達の技量を熟知しているので安心して滑っているのだろう. 幼稚園児くらいの子供達は、男の子も女の子も、皆ヘルメットをかぶり、ストック無しで頂上から滑っている. このまま成長したらきっと滑降競技などには何の恐怖感も湧かないだろうと思った. |
Val d'Isereの街並み (1) 2006年2月 | Val d'Isereの街並み (2) 2006年2月 |
巡回無料バス 2006年2月 | 地下ケーブルカ− (1) 2006年2月 |
地下ケーブルカ− (2) 2006年2月 | Val d'Isereの街並み (3) 2006年2月 |
屋外レストラン 2006年2月 |
思い起こせば快晴に恵まれて本当に楽しく滑れた. ただ本音を言うと、街に辿り着く直前の下りは大変急な坂があったり、狭い谷を通ったり、下るにつれコ−スが少なくなり大混雑でぶっつけるか、ぶっつけられるかで怖い思いをした. 楽しいなかに一つだけ残念な出来事があった. 同行の友人が転倒して左肩を骨折し急遽入院した. 不幸中の幸いは、山麓のダムを見に下る途中の出来事で、近くに山小屋があり、側には車が走れる道路があったことである. 急遽Val d'Sereの診療所に行くことになり、一緒だった添乗員の方に同行して貰いタクシ−で向かった. 願わくば打撲程度であって欲しいと念じたが、骨折で麓のBour St.Maurice の外科病院に入院となった. 翌日Taxiで40分ほど下って病院(外科専門)に見舞いに行った. 予想通り、殆ど英語は通じなくて身振り手振りで手術の時刻などを聞き出そうとしたがはっきりとは分らなかった. ご本人はそれ以上に意思の疎通が図れず困っただろうと思う. ご夫人も日本のような看病も出来ず辛い経験をされたと思う. 何とか3日間の入院で手術を受けて退院し、翌日皆と一緒に飛行機に乗って帰国することが出来て良かった. 話は変わるが、空中ケ−ブルカ−の始発駅( Le Fornet )の下にセルフサ−ビス のレストランがある. 丁度昼食時なのでそこで休憩がてら食事をした. カウンタ−のお姉さんというより小母さんが一生懸命に日本語で話しかけてきた. 何故日本語を話せるのか理由までは聞けなかった(混んでいて)が、現地には日本からスキ−ヤ−は余り訪れないと現地のガイドに聞いていたので、日本語で話しかけられて驚いた. そう言えば、山で会ったパトロ−ル マン も今日は!と日本語で挨拶してくれた. 東洋人スキ−ヤ−なら即日本人となるのだろうか? 次のスキ− シ−ズン までは暫く時間があるが、次回、何処に行こうかと考えるのは楽しいことである. 時間をかけてゆっくり決めることにしよう. フランス(Val d'Isere) スキ−紀行 終わり. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
14.瓔珞(ようらく)みがく | 2006/06/27 |
北大構内 2006年6月 |
北海道大学 恵廸寮 寮歌集から抜粋 瓔珞磨く 大正九年 桜星会歌 佐藤一雄 作歌 置塩 奇 作曲 (一) 瓔珞みがく石狩の 源遠く訪いくれば 原始の森は闇くして 雪解の泉玉と湧く (二) 浜茄子紅き磯辺にも 鈴蘭薫る谷間にも 愛奴の姿薄れゆく 蝦夷の昔を懐うかな (三) ・ ・ (八) |
6月になって、何人もの友人が同級会などで札幌方面へ出かけると話してくれた. それを聞き突然6月の札幌をゆっくり散策したくなり出かけることにした. アカシヤ や ライラックの花も長い間落着いて見ていなかったので、是非見たいと思った. 仕事で幾度となく訪れた札幌だが、いつも時間に追われていた. 40数年も前の学生時代の札幌の6月を殆ど覚えていないが、アカシヤ と ライラックの花を朧ろげに思い出す. 札幌に着いて先ずは、今春のフランス スキ−で一緒になった札幌在住のご夫妻や同級会に来ていた友人と北大構内に行った. 上の写真は正門を入って直ぐのところで、学生の頃は雪が融けると連日のようにこのロ−ン(芝生と呼ばなかった)に腰を下ろして、ダベッタ(会話を楽しんだ). 学舎も歴史と共に古びて、今は新しい建物も多く出来たし、そこで学ぶ学生気質も変わったに違いないが、己を磨き真理を追究する気持は変らないだろうと思った. 学生の時は、寮(福島県寮)住まいだったので、寮から農学部の裏手を走る暖房の石炭運搬用の線路に沿ってポプラ並木まで歩き、途中で右に曲がり工学部に通った. 今やポプラ並木は老齢となり台風の被害を受け淋しげに立っていた. 線路ももうなくなっていた. ポプラ並木へは理学部の角を曲がって行くのだが、当時はポプラ並木へ行く観光バスが構内を走るので、理学部の隣の工学部も騒音より振動の被害を受けた. 振動で実験機器のメ−タが読みにくくなり、確かバスの構内運行が禁止された. 寮住まいだったし、山スキ−部に暫し入部していたので、暇さえあれば寮や山スキ−部の山小屋で恵廸寮歌を歌った. 今一冊の寮歌集が手元にあるが、よく見ると「有島武郎」の序文がついている. 彼は恵廸寮に半年ほど在籍した. |
はまなす (浜梨、 ポプラ並木近く 2006年6月) | ウイリアム S クラ−ク 2006年6月 |
翌日は、昔からの友人と一緒に小樽に行った. どうしても天狗山に上がってみたかった. 学部の同級生や山スキ−部に小樽出身者が何人もいて皆スキ−が上手だった. 彼らを鍛えた天狗山に一度は見参したかった. 下界は曇りで何も見えぬ程だったが頂上だけは晴れていた. 僅かな晴れ間の山頂で、ぼんやりと、のんびりと、話をしているとそれはスキ−の世界から離れた回顧談なのに気がつき、過去りし時間の長さをつくづく思い入った. 引き続き日を変えて、羊が丘展望台や大倉山シャンツエなどへも足を延ばした. 羊が丘展望台にはクラ−ク博士の像がある. この丘の上のクラ−ク像は北大創基100年、アメリカ建国200年祭に合わせて1976年に建設されたとHomepageにある. 以前に彼が残した有名な言葉 「Boys Be Ambitious]について書いたが再び引用する. [”Boys, be ambitious!” は 「青年よ大志を抱け」 と訳される. 札幌農学校のクラーク博士がアメリカへ帰国する際、札幌近郊の島松で見送りの学生への別離の言葉として余りにも有名になった言葉である. 私はこの言葉が好きだ.人は何ゆえに学び、何ゆえに努めるのか? 人生長い道のりを歩む時、尽きぬ夢と希望を与えてくれるこの言葉を繰返し、繰返し思い浮かべた. この多くの人が知っている言葉を私は高校生の時知った.しかしこの 「Boys Be Ambitious]には次のような言葉が続いていたと知ったのは大学を卒業してからだった. ”Boys,be ambitious!Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.” 昭和39年3月16日の朝日新聞「天声人語」によれば、出典として稲富栄次郎著「明治初期教育思想の研究」(昭和19年)をあげ以下の訳文を添えている. ”青年よ大志を持て.それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない. 人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて” しかし、この言葉がクラーク博士のものであることを認めるには幾つかの無理があるらしい. それでは誰が 「Boys Be Ambitious]に書き足したかといえばそれも不明らしい. (”Boys,be ambitious!以後の文章については[インタ−ネット,北海道大学図書館報「楡蔭」NO29より転載]による.) ”Boys, be ambitious!”に続く言葉が実際にあっても無くても、その精神はひた向きな人生を送ろうとしていた青年時代、老年時代の私の心にいつもあったし今もある.] |
北海道大学 恵廸寮 寮歌集から抜粋 春雨に濡るる 大正十二年 寮歌 高橋北雄 作歌 西田貫道 作曲 (一) 春雨に濡るるアカシヤ花 街路(とおり)の灯しはなやかに 地は銀鼠(ぎんねず)にたそがれる 寂かに歩む若人が 心にめざむ爽やかの 灑(うるおい)充てる力かな (二) ・ (四) |
ライラック (北大植物園 2006年6月) |
札幌駅から真っ直ぐ大通公園に伸びている道筋にアカシアの木が白い花をつけていた. アカシアと聞けば可憐な花、ライラックなら明るく爽やかな花と何故か決め付けている. 街路沿いのアカシヤを見ることは見たが、人や車の往来が激しく落着いた気持ちで観賞する事は出来なかった. 宿泊したホテルの近くに北大植物園がある. 平日のせいか入園者は少なくビルに囲まれているが静かな園内を散策した. もうアカシヤの花は咲いていなかったが、沢山の種類のライラックの花を観賞出来て大満足だった. 植物園の説明によれば、ライラックはモクセイ科ハシドイ属の落葉潅木で5月〜6月にかけて美しい花を房のように(上図)咲かせる. 香りが良く香水も作られる. ライラックは英名、リラは仏名. 和名はムラサキ ハシドイ叉はハシドイ. ヨ−ロッパ南東部原産、明治中期に北海道に入った. 殆どの人は ハシドイ とは呼ばず ライラック とか リラ と呼ぶ. 遥か彼方の原産国を想うのだろうか? [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
15.シヨン城 (Chateau de Chillon ) | 2006/08/03 |
シヨン城 (Chateau de Chillon、スイス 2006年7月 ) 秋元氏提供 |
人を恋うる歌 作詞 与謝野鉄幹 作曲 不詳 (一) 妻をめとらば 才たけて みめ美(ウルワ)しく 情けある 友を選ばば 書を読みて 六分(リクブ)の侠気 四分(シブ)の熱 (二) 恋の命を たずぬれば 名を惜しむかな 男ゆえ 友の情けを たずぬれば 義のあるところ 火をも踏む (三) (四) あわれダンテの 奇才なく バイロン、ハイネの 熱なきも 石を抱きて 野に歌う 芭蕉のさびを 喜ばず ・ ・ ・ ・ ・ (十六) |
今上記の歌(人を恋うる歌)を知っている人は年々少なくなっているだろう. もう若者には受けない歌になったのだろうか? 大学生時代にはよく口ずさんだ. その頃はダンテ、バイロン、ハイネなど余り知識もないのにその名前を言うことが学生としての存在を示すと思った. ダンテは、1265年イタリ-のフィレンツエ市で生まれた. ダンテは、Durante Alighieri (ド-ランテ・アリギエ-リ)という名前のド-ランテの慣習的短縮形であり、イタリア文学最大の詩人と呼ばれている. ハイネは、1797年ドイツのデュッセルドルフ市で生まれた. クリスチャン ヨハン ハインリッヒ ハイネ (Christian Johann Heinrich Heine)はドイツの著名な詩人であり、バイロン、ゲ−テ,シュレ−ゲル等の影響を受けてロマン派の旗手と言われている. バイロンは、1788年英国のロンドンで生まれた. George Gordon Byronは不世出の詩聖と仰がれた情熱の詩人として有名である. 7月初めに友人ご夫妻がスイスに山歩きに出かけた. その折ついでに観光されたシヨン城の写真を帰国後頂いた. 私も数年前にご夫妻と一緒にZermatt (ツエルマット)にスキ−に行った時ジュネーブからレマン湖畔に沿って走る列車の窓から垣間見た事を覚えている. その時は予備知識も無くただ美しいなと思っただけであるが、あらためて調べると、この城を一躍有名にしたのはバイロンの叙事詩 「シヨンの囚人、The Prisoner Of Chillon 」であるとガイドブックに書いてある. 「永遠の巡礼詩人 バイロン、 楠本哲夫著 三省堂発行」の一部(下記)を引用する. [ このシヨン城にはかって、スイスの改革者でジュネーブの聖ビクト−ル教会のフランシス・ボ−ニバ−ル(Francois Bonnivard) が、湖面下の地下牢の第五支柱に四年間、鎖でつながれていた. 彼はサボイ公に反抗し挑んだ罪で投獄されたが、1536年にベルンの軍隊がこの城を占拠して彼を解放したと伝えられている. バイロンはボ−ニバ−ル牢獄の第三支柱に自らの名を刻んだ. 今日なお保存されている. ここで有名なバイロンの詩の一つ「シヨンの囚人」が書き上げられた. たった二日間で---.. だが実質的には、即座にこの場でその時の強い印象を、一気呵成に詠まれ創られたのである.、、、、、 ] |
Byron's Poems (バイロン詩集) と 八点鐘時計 | February 24th 1884 (1884年2月24日) |
ところで左上の写真には、1冊の本と時計が写っている. 共に私がビジネスの世界から引退した1999年に英国の会社(本)とアメリカの会社(時計)の同僚から引退記念にと贈られた. 時計は30分ごとに一つずつ回数を加算して鳴る鐘(つまり最初の30分後が1回、4時間目に8回鳴りまた1回から再開する)が付いている. 船で使用されているが、ボ−ト所有のアメリカ人の上司にして友人が遥々持参してくれた. Alistair MacLean著 「When Eight Bell s Toll、八点鐘が鳴る時」を思い出す. 本のタイトルは「BYRON'S POEMS」である. バイロン詩集で厚さが4.6 cmあり全720頁がバイロンの詩で埋まっている. 発行者は FREDERICK WARNE AND CO, Londonである. 発行年はいくら探しても見当たらないが、右上の写真はこの本の見開き部でそこに、Catherineという愛娘に贈った父親の署名がある. 日付けが1884年2月24日となっているので1884年かそれ以前に発行されたと考えられる. つまり122年以上古い本である. この二つは私の宝物だ. |
Sonnet on Chillon ( From BYRON'S POEMS) |
上は前記の「BYRON’S POEMS」の284頁に記載されている,1816年作のシヨンの囚人(The Prisoner of Chillon)の写真である. このシヨンの囚人は第14章まであり長すぎて今回は紹介を省くが冒頭の十四行詩Sonnet(短詩)のうち写真に写っている八行のみ下に紹介する. |
自由よ! 鉄鎖に抗する精神を守る、永遠の霊よ! お前は牢獄にあってこそ真の生彩を発揮する. なぜなら、牢獄の中にあっても、お前は心を---自由愛の他は 何ものにも縛られぬ心を、己のすみかとするからだ. 自由よ! お前の子等が鉄の枷に縛りつけられ、 日の射さぬ陰湿な地下室に呻吟するとき、 彼らの望む自由の国は、彼らの殉教の血で卒然と興り、 解放の大儀、風に乗って世界各地に翔(か)けてゆくのだ. 訳の出典: 「イギリス名詩選 平井正穂編 岩波文庫」 [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
16.変格活用 | 2006/10/02 |
散歩道の多胡記念公園 2006年9月 |
9月初めに突然入院し約3週間の入院生活を送ることになってしまった. 9月初旬に追加する予定で準備したこの第16項をUpload出来ぬまま今日まで来てしまった. 従って今回は時期的に合わないが9月初めに準備したままをUploadする. どうぞご了承の程を! |
秋立つ日よめる 藤原敏行朝臣 古今和歌集 秋来(き)ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる |
上の句の意味は、「秋が来たとそのすがたが目にははっきりととは見えないけれど、吹く風の音がいかにも秋らしい爽やかさを含んでいるのに、ああ秋が来たのだとふと感じられたことだ」 毎日のように散歩するゴルフ場の外周の木々からや、散歩道筋の公園(多胡記念公園)から、今が盛りと必死に鳴いている蝉の声が聞こえる. もう盛りを過ぎたと思った「あぶらぜみ」、「みんみんぜみ」、そして「つくつくほうし」である. 私は小さい頃は「つくつくほうし」が鳴くと夏休みが終わりだと感じた. 9月の声を聞くと残暑厳しくてもそろそろ秋だと思う昨今である. そこで毎年必ず思い浮かべる歌が上に書いた 秋来(き)ぬと、、、、 である. 齢とともに記憶力は衰えるのが普通であろうが、それでも長い間記憶して来た事柄は簡単には忘れていない. 高校の国語(古文)の文法の時間に変格活用について学んだ. そこで上の句を思うと出て来るのはカ行変格活用である. こ(未然形)、き(連用形)、く(終止形)、くる(連体形)、くれ(已然形)、こよ(命令形) を覚えている人は多いだろう. そこでもう一つ思い出すのが完了の助動詞 ぬ である. ぬの前には連用形が来るので、 秋 き ぬ となるのである. 因みに 「夏は来ぬ」という歌があるが、ここの来は完了形ぬの前なので来(き)となる. 物事の多様な決まりごとが面白く夢中になって勉強した. 今になっても断片的に思い出すのは楽しい. 次回は10月後半になる. |
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17.ハロ−ウイン | 2006/11/02 |
中秋の名月 2006年10月 |
松尾芭蕉 名月や 池をめぐりて 夜もすがら 小林一茶 名月を とってくれろと 泣く子かな |
中秋の名月は今年は10月6日で1日遅れて7日が満月だったそうだ. その頃ふと空を見るとほぼ満月に近い月が東の空に浮いていた. 余りにも大きく見えたので写真に撮ったら随分小さく写っていて実際とは違うように思えた. 中秋の名月の声を聞くと何故かLafcadio Hearn(ラフカデイオ ハ−ン,小泉八雲)を思い出す. それは彼の作品の一つに「怪談」があり、そこにFestival of Choyo(9月9日、重陽の節句または菊の節句)のことが書いてあるからだ. つまりこの言葉に秋も盛りの印象を受けたのだろう. 高校生当時、大学入試に出題される作品の作家として、Lafcadio Hearn、Aldous Leonard Huxley(オルダス ハックスレイ、英国人作家)、William Somerset Maugham(サマ−セット モ−ム,英国人作家)などを辞書を片手に手当たり次第に読んだことを懐かしく思い出す. |
ハロ−ウイン 2006年10月 |
ハロ−ウイン 2006年10月 | ハロ−ウイン 2006年10月 |
10月の名月を観賞してそうこうしてるうちに商店街ではハロ−ウインの飾りが目に付くようになった. 我々日本人には全く関係のない祭りだが、我家でも小さな孫娘達の訪問に備えていつの間にやら所狭しといわゆるハロ−ウイン グッズが飾りつけてあった. 因みにハロ−ウイン(Halloween)は本来は聖夜の意味. イギリスでは10月31日の夜、カボチャやウリなどをくりぬいて提灯をつくり、藁人形や麦の穂で種々の動物を作り、仮面、仮想して行列し焚き火の周りで歌ったり踊ったりし、最後に人形を燃やす. ケルト人の祭りで、秋の収穫を祝い、悪い自然霊や魔女などを追い出す祭りである. 後日アメリカに移ってからは、主に子供の祭りとして賑やかに騒ぎ、ご馳走を食べる収穫の祝いの行事となっていった とインタ−ネットに記載があった. ハロ−ウインと言えば忘れられない悲劇があった. 1992年10月17日、アメリカのルイジアナ州バトンル−ジュ市に留学していた16歳の日本人少年が、仮想して他人の家を訪問し、強盗と間違えられて射殺された. 彼はFreeze(停まれ、静かにしろ)と言われたが意味が分らなかった為の悲劇であった. 家の30歳の主人(射殺犯)は正当防衛で無罪となったが、多くの日本人、米国人の働きかけで拳銃の販売に制限を加える「ブレデイ法案」が成立した. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
18.師走ともなりぬれば | 2006/12/10 |
降臨節(アドベント)のろうそく 2006年12月10日 撮影 |
気がついたらいつの間にやら師走となっていた. 師走を知らない人はいないだろうが、陰暦十二月のことである. 師走の語源は諸説あり、正確には不明らしい. 主な語源として、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す(しはす)」がある. 多くの人はこの説に同意するだろうが、私を含めて馳すではなく走すと思っていたのではないだろうか? 昔古文を読む為に陰暦を暗記したものだが今になって全てを思い出すのは難しい. 以下月ごとに書いてみる. 睦月(むつき、一月)、如月(きさらぎ、二月)、弥生(やよい、三月)、卯月(うづき、四月)、皐月(さつき、五月)、水無月(みなづき、六月)、文月(ふづき、ふみづき、七月)、葉月(はづき、八月)、長月(ながつき、九月)、神無月(かんなづき、十月)、霜月(しもつき、十一月)、師走(しわす、十二月). 使われていない語もあるが、弥生、皐月、師走などは今でも使用されているが、桜とか、端午の節句とか年の暮れなどの言葉に釣られて残っているのだろう. キリスト教では12月はアドベント(Advent)の月である. Adventとはキリスト教において、イエス・キリストの降誕を待ち望む期間のことであり、日本語では「待降節(たいこうせつ)」とか「降臨節(こうりんせつ)」といわれる. 西方教会では11月30日に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約四週間のことで、ろうそくを4本用意して、第一日曜日に一本目のろうそくに火をともし、第二、第三、第四と週を追う毎に火をともすろうそくを増やしていくという習慣がある. |
スフィンクス展望台 ユングフラウヨッホ 3454 m 2006年11月2日 撮影 グリンデルワルト 日本語観光案内所 提供 |
春から初夏にかけて忙しかった. 幾度と無く福島県の故郷に通った. 母から引継いだ先祖代々の墓所の改修、整備とか古い農家の整理などを田舎のシルバ-人材センタ−に応援を求めて実施した. 一段落ついて秋から初冬にかけて国内旅行をしようと考えていたら9月から11月まで2回計5週間ほど入院する破目になった. 幸い11月後半に退院でき今は元気な日々を過している. そうなると人間生意気なもので、入院時のことなど忘れ、来春のアルプスのスキ−行などを考える始末である. ただ入院して痛感したのは、「何事も出来る時に実行しておけ」である. 最近のJapan Times に依れば、欧州は過去1300年来の最も暖かい冬になりそうで、アルプスも250年来の暖かさのようだ. Inter Netで積雪情報を調べると、スイスのスキ−場など軒並み0cmに近い降雪状況である. ひょっとしたら、来春は欧州は無理かなど考えている昨今である. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
19.駒とめて | 2007/01/01 |
我家から見る日の出 2006年12月28日 撮影 |
新年おめでとうございます. 今年も素晴らしい年になりますよう祈り申上げます. 毎回の拙文は、最近は月1回程度のUPLOADで大分怠惰になって来た事を自ずと露呈していますが、読者の方々へ今年古希を迎える私が元気の証として書いている積りですのでどうぞ宜しくお願いします. 正月は穏やかに、時には日が射して明るく気持ち良く、のんびり出来た方も多かったろうと思います. 上の写真は暮れに撮ったものだが、元日も天気予報を覆して我家から写真と同じような初日を拝むことが出来た. |
駒とめて 袖うち払ふ かげもなし さののわたりの 雪の夕暮れ 藤原定家朝臣 新古今和歌集 |
世界的な暖冬異変なのか、或いはこの先恒常的な地球温暖化の印なのか、日本に限らず欧州の雪不足やアメリカのNew
Yorkの暖冬のニュ-スがTVや紙面を飾っている. 実際に雪国に住んでいる人には大雪は大変だが、札幌にわずか4年しか住まなかった私だが、今でも雪が降ると嬉しくて仕方がない. だから目の前には雪はなくても雪景色を想像し、雪国に思いを馳せる身には淋しい冬である. 毎日アルプス(主としてスイスの)の降雪状況をインタ-ネットやLivecameraで見ているが、降雪は殆どないか、少なくて果たして観光客(スキ-客)が満足出来るほどの積雪になるのか他人事ながら気にしている. 昨年秋に手術した我が身は術後3ヶ月は激しい運動は禁止されているが、解禁日は2月中旬なのでその後のスキ-に備えて目下計画を練っている最中である. 入院中は早く快復し退院することしか念頭になかったが、スキ-を考えるほど快復出来たことを本当に有難いと思っている. 早いものでこのHomepageを始めてから5月で6年目を迎える. 私に割当てられたプロバイダ-のコンピュタ-の容量も無料の枠を超え、今は継足し継ぎ足しして使用している. ここまでくると、もう継続に意義があるとして内容に手抜き出ないよう、気をつけている. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |
20.人生七十、、、 | 2007/02/13 |
梅に小鳥 2007年2月8日 撮影 |
はるきぬと 人はいえども 鶯の なかぬかぎりは あらじと思ふ 壬生 忠岑 古今和歌集 ------------------------------------------------------ |
「曲江」 杜甫 朝回日日典春衣 毎日江頭尽酔帰 酒債尋常行処有 人生七十古来稀 |
「曲江 (きょくこう 」 杜甫 {杜甫) 朝(やくしょ)より回(かえ)りて日日に春衣を典(しちいれ)し 毎日 江(こう)の頭(ほとり)に酔い尽くして帰る 酒債尋常(しゅさいじんじょう) 行処(こうしょ)に有り 人生七十 古来稀(まれ)なり 村上哲見著「中国の名句・名言」 講談社現代新書 |
早いものでもう2月である. 散歩道の梅も白く、紅く花をつけている. 歩きながらふと思った. 今年は私もいよいよ人生七十古来稀なり、つまり古希、の年となる. 満60歳を還暦といい、還暦祝いをする(される)が、上記著書に依れば昨今は還暦と称して隠居するような時代ではなくなり、70歳の「古稀」が従来の還暦の感じではないかと! 杜甫曰く、「どうせ人間むかしから70までは滅多に生きられない」と. しかし日本人の平均寿命も長くなり70歳などが人生の終わりではなくなった. この長い年月をどう生きて来たかなどゆっくり思い出すこともなかったが、もう未来ばかりではなく過去を振り返るのも大切と考え、いささか我が人生の歩みを思うとき、感無量となる. 人間として大成したわけでもなく、クラ−ク先生の言葉、Boys Be Ambitious 、を野望野心ではなく、未来への飽くなき挑戦のことと訳し、平々凡々たる日々のうちにも自分の責任を全う出来たと信じて、それを誇りに思う人生だと思っている.
今年は暖冬である. スキ-場や除雪業者などなどは大変だが、雪深い地方の人たちは雪下ろしの作業も減り喜んでいるだろう. 怖いのは暖冬ではなく、この夏は反作用からか暑い夏になりそうだということである. 単純に エルニ-ニョ (El Nino, スペイン語)現象 のせいと決め付けて良いのだろうか? あと数十年後には海水面が上昇し水没する島、国が出現するかも知れないとは本当に恐ろしいことである. しかし脳天気な私は雪不足ではスキ−にも行けないなど天を怖れぬ事を思ってしまうのである. 昨年11月に手術を受けたので以後3ヶ月間はスキ−を禁止されている. 2月の後半には解禁されるのでスイスのサンモリッツ(St.Moritz)へ出かける予定だったが、雪不足と同行の友人と私の都合が合わず中止することになった. でも諦めきれず友人達の都合と合う日(2月)にニセコに行くことにした. 数年前にニセコに滑りに行ったが昔(1960年頃)に比べて余りの様変わりに驚いた. ニセコへは1960年代のはじめにクリスマス、3月、5月の合宿で幾度となく滑りに行ったが特にクリスマス合宿が記憶に強く残っている. 当時、1960年代はじめ、大学生の頃、クリスマスになると大学のスキ−部(山班)が大学の内外から希望者を募り数十名の規模でニセコの青山温泉郷「不楼閣」で一週間ほど合宿した. 5〜6名で班を構成しそれにスキ−部員(山スキ−部員)がサブリ−ダ、 リ−ダとして付く. 毎日シ−ルを付けたスキ−を履いて青山温泉からニセコアンヌプリ、チセヌプリ、イワオヌプリ、ワイスホルンへ日帰りで登り、滑り降りた. 常に晴天に恵まれるとは限らず、時には吹雪の中を地図と磁石を頼りに下ることもした. 登りはサブリ−ダ−が先頭に、リ−ダ−が最後につき、深雪のラッセルは列順を乱さずに順番に行い疲れると後ろの者に引継いで登った. 下りはリ−ダ−が先頭で滑り、続く者は前の者を見失って遭難しないように絶対に抜かしてはいけなかった. 内地組(北海道では本州を内地と言っていた)の私は入学してからスキ−を始めたのだが部員だったので、上級生になるにつれサブリ−ダ−、リ−ダ−の役を仰せつかった. 合宿の反省会で一般参加のドイツ語の教授が「大学の講義では、勉強をしない駄目学生達と思っていたが吹雪で先が見えない山中で全員を無事に下ろす責任感あふれるリ−ダ−シップに感激した」と述べたのを今でも覚えている. 私はこれらの合宿を通じて、団体生活の中で如何にリ−ダ−シップを発揮するか、如何にチ−ムワ−クを保つようにすべきか等 多くのことを学び、それが社会生活に役立ったと思っている. [ 六十あまりの・・・ ] の目次へ戻る |