Grindelwald(1) Grindelwald(3) Grindelwald(2)

歳月不待人

盛年 重ねて 来たらず
1日 再びは晨(あした)なり難し
時に及んで当(まさ)に勉励すべし
歳月 人を待たず   
陶淵明

[ホームページ] へ戻る 1.Grindelwald (1)  (グリンデルワルド) 2008.08.23
  2.Grindelwald (2)  (グリンデルワルド) 2008.09.19
  3.Grindelwald (3)  (グリンデルワルド) 2008.10.28
  4.晩秋 2008.12.07
  5.新しき年のはじめの 2009.01.03
  6.チェルヴィ-ノ ?, モン セルヴァン ? 2009.02.26
  7.春暁 2009.04.13
  8.路傍の花 2009.05.30
  .ふるさと 2009.08.04
  10.山寺 2009.10.09
11.天心 と 点心  2009.12.03
  12.謹賀新年  2010.01.03
  13.ニセコアンヌプリ 2010.02.17
  14.沈丁花 2010.03.24
  15.草枕 2010.05.29
  16.盛者必衰の理 2010.08.13
 [徒然なるままに]




1.Grindelwald (1) (グリンデルワルド) 2008.08.23
Grindelwald4
山岳兵のドラム演奏     2008.07.02 First (フィルスト) にて


長い間更新せず心配かけたかも知れません. 元気に過ごしています.

6月後半から7月にかけてスイスとスウエ−デンに行って来ました. 帰国早々PCがダウンしてしまいその復旧に大分時間がかかりやっと以前の状態に戻したが、更にホ−ムペ−ジの更新(Upload)の為の設定条件が消去されてしまい再設定に手こずってしまった.

冬のスイスは何回かスキ−に行ったので多少は知っているが夏に訪問したことがなく、今夏は年間の計画には入っていなかったが、身体が動く内にと、急に思い立ち出かけた.

これまで旅行は殆ど自分で計画、手配をして来たが、最近はInternetも利用出来るので随分楽に調査、予約が出来て大助かりである. 参考までに今回の予約、調査手段について簡単に説明する (スイスに限定して).

1.成田前泊 「ホテル日航成田」予約: インタ−ネット 利用

2.成田−Copenhagen(コペンハ−ゲン)−Zurich(チュ−リッヒ) 往復
  時刻表: SAS ホ−ムペ−ジ
http://www.flysas.com
    SAS航空券: H.I.S 店頭買い, Hotel Wellenberg Zurich 予約: H.I.S店頭買
    い

3. Hilton Hotel Copenhagen Airport 予約: インタ−ネット 利用

4.Grindelwald(グリンデルワルド) 貸し別荘 「Chalet Arabelle」予約: インタ−
    ネット  利用, Half Fare Travel Card (列車乗車券半額購入証) 及び ハイキング
  地図購入、 ハイキング コ−ス案内: インタ−ネット 利用 
  
  上記全てJapanese Information Bureau in Grindelwald (グリンデルワルド 日本語観
     光案内所)  ホ−ムペ−ジ:
http://www.jibswiss.com/ 経由

5.列車時刻表、乗換え案内、料金調査: インタ−ネット利用
  Schweizerischen Bundesbahnen (スイス連邦鉄道) ホ−ムペ−ジ:
    http://www.sbb.ch/


因みにスイス国内の鉄道を利用するなら、いろいろな割引パスがあるので、訪問先、滞在日数等により自由に選択して利用すると便利で且つ正規運賃より割安になると思う. 例えば、

 スイス パス  全線乗り放題 但し ゴンドラ、登山電車等で半額の場合もある
             8日間有効 1等:CHF(スイスフラン)564/一人  (約¥57,000)
                     2等:CHF 376/一人  (約¥38,000)

             尚有効期間が長くなれば価格も上がる.

半額カ−ド (Half Fare Travel Card)  全線半額カ−ド 窓口で提示して半額
             乗車券を購入.  1ヶ月有効 CHF 99/一人    (約¥10,000)

上記換算レ−トは、8月22日11時の銀行売りレ−トで換算した. 1CHF=¥100.8


他にも幾つか割引カ−ド(パス)があるので事前に調べて適するものを購入すれば良い. 但しスイス国外でしか購入出来ない割引カ−ド(パス)もあるので要注意. 購入にはパスポ−トの提示が必要である. 国内旅行代理店で購入出来ない場合は、前述のグリンデルワルド 日本語観光案内所) の Homepage 経由 で購入して送って貰える.

私はGrindelwaldの近辺の登山電車やゴンドラしか利用しなかったので半額カ−ドを購入した.

今回もそうだが欧州に行く時は時差で苦しまないように大概Copenhagenで1泊し休息してから翌日からの旅に備えている. Copenhagen空港の税関を抜けて構内を左に折れエレベ−タを使い横断回廊を渡るとHiltonホテルがあり、歩いてもせいぜい5〜7分位で行ける. 空港のカ−トに荷物を積んだままで行けるので市内に用のない時はこのホテルに泊まることにしている.

スイスでは日中に鉄道の旅をしたかったのでZurich空港を12:13に出ることにし Copenhagen発8:15、Zurich着10:00のSAS便に乗った. Zurich空港の入国管理、税関ともに素通りの感じであった(毎回そうだが).

Zurich空港の地下に駅やレストラン、ス−パ−等がある. 昼食後 Grindelwald に向けて出発した. 荷物が多いので、多分2等でも座れると思いながら、夏の観光シ−ズンが始まったので万一座れないと嫌だと考え1等にした. 結果は2等で十分で、1等には殆ど乗客は居なくてガラガラだった.

下図は Zurich空港 から Grindelwald までの路線を示している. 途中 Bern と Interlaken Ost で乗換えた. 乗換え駅では荷物の移動を考え余り急がなくても良いように約30分ほど乗換え時間を取った. それでも Grindelwald 着は16:09 で太陽が輝いていてとても暑く感じた.

長くなったのでこの先の旅については次回へ譲ることにする.



スイス鉄道路線図
スイス鉄道路線図  2008年 7月



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2.Grindelwald (2) (グリンデルワルド) 2008.09.19
First から Eigar 北壁 を見る
 First から Eiger北壁 を見る   2008.07.01 First (フィルスト) にて


9月も半ばを過ぎると気温も下がり随分過ごし易くなった. 9月は私の誕生月なので1年のなかで好きな月であるが、9月の声を聞くと何故か ラフカデイオ ハ−ン を思い出す. そして9月9日の重陽の節句を想う.

古来中国では奇数を陽数といい、一番大きな陽の数である九が重なる九月九日を「重陽」といい節句の一つとしてきた. いつもこの日が近くなると、ラフカデイオ ハ−ン (Lafcadio Hearn、日本名小泉八雲)を思う. 彼の作品のどれかに重陽の節句の言葉が出てくるからだ. 

彼はこの日のことを Festival of Choyo と書いていたと思う. 彼の作品(英文)が大学受験の英文の問題に出題されるかも知れぬという、それだけの理由で読破したのだが、今でも季節が来る度に Festival of Choyo という言葉だけを思い出す.

今夏は暑い日々が続いたが、暑さに比例して蝉の鳴き声も煩いくらい賑やかだった. 9月になっても今が最後とばかりミンミン蝉の大合唱だったが流石に、気がつけば、9月9日を界にあっという間に静かになり、それでもわずかにミンミン蝉と、かすかにつくつく法師の鳴き声が聞こえる. 然し自然は自分のペ−スを忘れないとすれば間もなく虫の鳴き音に代わるだろう.

       
               
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声       松尾芭蕉

上の句は誰でも知っている松尾芭蕉の有名な句である. 閑さや とか 静けさや とか 静かさやとか諸説紛々らしい. 山形県の山寺[(別称 立石寺(りっしゃくじ)]で詠まれた句であるが、蝉の種類で斉藤茂吉(昭和初期の歌人、山形県出身) と 小宮豊隆(夏目漱石門下、芭蕉研究家)の大論争となった.

斉藤茂吉はアブラ蝉を主張し、小宮豊隆はニイニイ蝉を主張した. 結局ラチがあかず現地調査をした. 句が出来た新暦7月13日にはアブラ蝉は鳴いておらずニイニイ蝉の勝利となった.

もう山寺で蝉の声を聞くには遅すぎるだろうから来年の夏には忘れずに山寺を訪れたい. 9月も中旬を迎えたのに未だ名残惜しそうな,今も,蝉の声が聞こえて来る. 

さて前置きが長くなったが、今回はZurich 空港から電車の旅が始まる. 空港の税関を抜け場内案内を見て地下フロア1階の切符売り場に行く. そこで、持っていれば各種パスを見せて、行き先、人数、等級、片道か往復を告げて切符を購入する.

座席指定が必要な列車もあるが(事前に調べておくこと)一般には指定席は不要で、2等で十分だと思う. 英語でもドイツ語でもOKだが私は、急な場合を除き、確実を期して紙に記入しておきそれを見せて購入する.  地下にはエスカレ−タ−やエレベ−タ-で簡単に行ける. 各種の店や地下2階にはス−パ−もあるので車中の飲み物、食べ物等を購入出来る.

出発列車のプラットホ−ム番号が気になるが、駅構内やプラットホ−ムのどこかに時刻表があり、また頭上に電光表示案内などがあるのでそれを探せば分かる. 事前にスイス連邦鉄道のホ−ムペ−ジで調べればプラットホ−ム番号も時刻表に載っている. 更に注意して頭上を見上げるとZoneA,ZoneB,などの表示があるがそれは1等車、2等車の停止区域を示している. 1等車はZoneAとは決まっていないので、等級とZoneの関係はプラットホ−ムのどこかに表示されている. 掲示板のようなものが建っていたら多分そこには記載されている. 

汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり、、、、、とは鉄道唱歌の歌詞であるが、こちらの列車は何のアナウンスもなく動き始めるので、日本の声高なアナウンスに慣れた身には何とも拍子抜けである. 列車に乗るのに改札を通ることはない(改札口はない)ので自由に乗り込めるが、反面切符を所有せず乗ると乗車券が割高くなったり罰則もある. 出来る限り車内精算などは考えないこと.
またどんなロ−カル線に乗っても、知る限り,必ず車掌が検札に来た. 

我々の問題は、先ず荷物が多く重いので、列車に乗り込む際出来るだけホ−ムから水平移動で車内に入れるかだった. 停車位置によっては段差の無い乗り口があるが、事前には分からなかったので困った. 次に乗換え時間である. スイス連邦鉄道のホ−ムペ−ジの時刻表で検索すると最短の乗換え時間で乗継列車が案内される(5〜10分)ので同じ乗継がプラットホ−ムの反対側なら何とかなるが、別のプラットホ−ムだと果たして数分で移れるか分からなかった.

そこで我々の乗継には(Bern と Interlaken Ostでは)次の列車(凡そ25分位後になる)を選んだ. プラットホ−ムの配列図やエレベ−タの有無は検索では分からずグリンデルワルド 日本語観光案内所へメ-ルで問合せて教えてもらった. エレベ−タは無いが傾斜道を伝って地下で他のプラットホ−ムに繋がっている.

乗換え2回で終着のGrindelwaldへ到着した. 個人旅行なので出迎えは無い. 1週間の宿泊はChalet Arabelle という貸し別荘である. 駅から10分以内の距離なので空身なら徒歩で行けるが何せ大荷物ゆえ駅前のタクシ−スタンドからタクシ−を呼んだ. タクシ−スタンドに備わっている電話で係りを呼び出そうとしたが全然応答が無い. 痺れを切らして、持参の携帯電話で看板に記載の番号に電話してやっと来て貰った.

駅前なら簡単にタクシ−がつかまると考えたのは失敗だったが、現地で使用できる携帯電話を日本でレンタルしたのは良かったと思った.  Chalet Arabelle(下の写真参照)は3階建で2、3階は大家さん夫婦が住み、1階すべてを我々二人が借りた. 目前にアイガ−(Eiger)北壁が聳えていて圧倒された.


Chalet Arabelle Grindelwald 中央通り
Chalet Arabelle  2008.07.02 Grindelwald中央通り 2008.07.04



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3.Grindelwald (3) (グリンデルワルド) 2008.10.28
Eiger,Jungfrau & Silberhorn
 Eiger (3970m), Jungfrau (4158m), Silberhorn (3695m)   2008.07.01


もうすぐ11月を迎える. 今夏スイスへ出かけた事も記憶から遠ざかってしまった気がする. 貸し別荘に滞在するのは, 誰にも会わず、何の気兼ねも無く過ごせるので快適である. しかし事前に検討すべき大切なことはロケ−ションである. 距離的には地図で確認出来るが問題は坂道を歩くかどうかだ.

Grindelwaldでは凡そ街中や駅から貸し別荘へ行く道は登りか下り坂がある. その勾配も結構きつい. 我々はそれを予測して、ス−パ−で買った食料品や水の運搬のためにキャスタ−付きのi折り畳み式運搬具(正確な名称が分からない)を持参したが正解だった.

ゴミは分別して定められた袋に入れ所定の場所に捨てる. 一般的に洗濯機が付属していないので街のコインランドリ-を利用する. 調理には電気レンジ(Induction Heatingではない)と電気オ-ブンが使用出来るが、電子レンジは無かった. 貸し別荘のリストで探しても、電子レンジのあるところは少なかった.

バスタオルやハンドタオルは充分使用したことがうかがえる、古くてゴワゴワしたのが一人1セットしか無かった. 過去2回利用した英国の短期滞在向けアパ-トでは食器類は6人分揃っていたが、ここではバラバラで数人分しか置いてなかった.

それでものんびり過ごせて気に入った. TVはあるが天気予報位しか見なかった. 電話もあるが、持参の国際電話が出来るレンタルの携帯電話を使用した. 日本とは夏は7時間の時差があるので専らメ-ルを利用した.

滞在中は Grindelwald 近郊のハイキングを楽しんだが、行き先のみ定め適当に歩き、疲れたら戻ることにした. 箇条書きにすると、

(1) Grindelwald からゴンドラで First(2168m) まで上がりそこから
    Bachalpse(湖、2263m)へ

(2) Grund からゴンドラで Maennlichen(2227m) へ上がり、そこから
    Kleine Scheidegg(2061m)へ

(3) Grindelwaldから電車でInterlaken Ostへ行き、乗換えてBrientz
    そこからアプト式(歯車式)登山鉄道で Rothorn(2298m)

(4) Grindelwald から電車で Interlaken Ostへ、徒歩で Interlaken West 
   Interlaken West から電車で Spiez へ

(3)と(4)はハイキングとは言えないが、Brienzersee(ブリエンツ湖) と Thunersee(トウ−ン湖)を観たかったので.

好天なら半袖や袖なしのシャッツで良いが一旦悪天候になったら、そして周りに誰もいない時に備えて、例えハイキングでも雨合羽、折畳み傘、ウインドヤッケ、水、食料などの入ったザックを背負って歩いたが結構重くて疲れた.

ハイキング中に出会ったお花畑でエ−デルワイスを探したが見つからず、結局山を降りて麓の街中のお店で鉢植えのエ−デルワイスを見つけた!

夏山の景色は、今まで絵葉書やTVの画像で見るしかなかったが、目の当たりにすると余りの素晴らしさに感激した. 然し私には、雪景色のGrindelwaldの方が一層素晴らしいと思った.


Mettenberg
Grindelwald から見る Mettenberg (3104m)     2008.07.02



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4.晩秋 2008.12.07
Autumn Forest
 晩秋、私の散歩道      2008.11.24


幾度と無く もう を使ってしまうが、もう12月、師走、になってしまった. 然し私の住む座間市界隈では気温もそれほど下がるわけでもなく未だ冬の実感がない. しかし、いつもの散歩道では歩く度に頭上から降って来た桜の枯葉も、気がつけばもう落ち尽くしていた.

桜の木々は裸の枝ばかりを見せ、そのためにわざと取り残された熟した柿の実を小鳥がついばむのを見ると季節は確実に移り変わって行ったことに気付く. 北国以外はもう晩秋よりは初冬なのだ.

晩秋と言えば、何といっても「枯葉」という歌(シャンソン)を思い浮かべる. フランス語で「Les Feuilles mortes」. 私の拙いフランス語の知識では多分直訳では 死んだ葉、変じて 枯葉 という意味だと思う. 日本語題名の「枯葉」は恐らく直訳したのだろう. 

英名は、英訳ではなく、「Autumn Leaves」 である. 面白いと思ったのはフランス名も多分直訳の日本名「枯葉」も共に落ち葉そのものを呼び、英語では枯葉をもたらす状況を呼んでいることである. これぞ国民性の違いから来る感性の違いなのだろうか?

「Les Feuilles mortes」 はジュリエット・グレコが歌って世に認知され、1940〜1950年代のシャンソンのスタンダ−ドになった.

米国では「Autumn Leaves」 としてビング・クロスビ−、ナット・キング・コ−ル,フランク・シナトラ などが歌っている. 

「枯葉」 は越路吹雪、芦野 宏、ペギ−葉山、笈田敏夫 などが歌っている.

「枯葉」 の次にヴェルレ−ヌ 「落葉(らくえふ)」 いう詩を思う.

     秋の日の ヰ”オロン(ヴィオロン)の ためいきの
     身にしみて ひたぶるに うら悲し

     鐘の音に 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ
     過ぎし日の おもひでや

     げにわれは うらぶれて ここかしこ
     さだめなく とび散らふ 落葉(おちば)かな    

                           上田 敏 訳 


1944年の第二次世界大戦ノルマンデイ-上陸作戦は、
オ−バ−ロ−ド作戦(Operation Overlord,、大君主作戦)と呼ばれ、最大の上陸作戦として有名である. D−Day(史上最大の作戦)というタイトルで映画化された. 私は先ず映画を見て、後に「史上最大の作戦」の本を買ったのを覚えている.

連合軍がフランス海岸へ上陸作戦を実行する際に、レジスタンスに作戦決行を知らせる暗号としてBBC放送でヴェルレ−ヌ 「落葉(らくえふ) を流した.

     秋の日の ヰ”オロン(ヴィオロン)の ためいきの
     身にしみて ひたぶるに うら悲し

この詩が流されると、上陸作戦準備完了を意味し、

     鐘の音に 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ
     過ぎし日の おもひでや

この詩が流されると、48時間以内の上陸作戦開始の合図だった.

秋も遅くなると、この詩を思い、 ひたぶるに うらがなし と暗く寂しい思いに捕らわれる.

さて晩秋から初冬になれば、そろそろ来春のスキ−行をどうしようかと思う時期である. 最近つくずく思うのは体力の衰えもさることながら、気力の衰えが感じられることである. スイスへ遠征することを億劫に思う気持ちがあり、転倒して骨折することが怖くなるのである.

されどあと何年滑れるか分からず、同行の仲間に迷惑が掛かることを許して貰って、気力・活力を何とか漲らせてあと暫くは頑張ろうと思う.

来春1月末にスイスのツエルマット(Zermatt)に行くことにした.


View From Grindelwald
Grindelwald からの眺め       2008.06.29



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5.新しき年のはじめの 2009.01.03


万葉古今新古今集
 萬葉古今新古今の研究      1954.03.12 購入


謹賀新年  今年も宜しくお願いします

あたらしき 年のはじめの 初春の けふふる雪の いやしけ吉事(よごと) 
 
                            萬葉集  大伴家持 (759年 正月)


昨年も拙文にお付き合い頂き有難うございました. 元気に生きている証しとして今年も書き続けて行きますので読んで下さい.

年が変わる頃欠かせない行事がある. それは演奏会場に赴くことはないが、例年TVでいわゆる第九の演奏を観たり聴いたりすることである. 正確に書けば、「ベ−ト−ヴェン の交響曲第九番ニ短調作品125、合唱付」のことである.

私には演奏そのものより、合唱の中身、つまり「歓喜の歌」を聴くのが最大の関心事なのである.  第九」の演奏が合唱に入ると、いつも心が躍り昂揚する気持ちになった.それは合唱の旋律が醸し出すところ多々あるとしても、やはりシラ−の詩が創り出すこの世に生きる歓びのうたのせいだと思っている.

F.シラ−作のこの詩は、訳が素晴らしいからか読んで、聴いて感激してしまいこれで何故か1年が終わると思ってしまう.

下記はF.Schillerの歓喜の歌の抜粋である.

「An die Freude」   Friedrich von Schiller 
 ( 歓喜の歌、 F.シラ− )


「Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium !
 Wir betreten feuertrunken, Himmlische, dein Heiligtum !
 Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt,
 alle Menschen werden Brüder, wo dein sanfter Flügel weilt.」



「歓喜、美しき神々の火花、 楽園の乙女!
 われらみな火の酒に酔い、 天なる汝の聖殿に踏み入る!
 世の習わしは厳しくわけ隔つるも、
 汝が魔力が再び結びつける.
 汝がやさしき羽衣の下に憩わば、 全ての人々は兄弟となる.」


   
「 Ihr stürzt nieder, Millionen ?  Ahnest du den Schöpfer, Welt ?
  Such' ihn überm Sternenzelt !   Über Sternen muß er wohnen.」 
                         

「 汝らひれ伏すや? 百万の人々よ、
 創造主を予感するや? 世界の人々よ、
 星の円蓋のかなたに、創造主を求めよう !
 星たちの上に、創造主は住みたまわん.」 

                      小松雄一郎 訳


関東地方は朝方は寒気があるが好天に恵まれた穏やかな新年を迎えた. 元日も続けた散歩も心地よい天候の下、全身汗まみれになる程だった.

そして新しい年を迎え正月の楽しみごとにしているTV番組がある. NHK番組恒例のウイ−ンフィル(Wiener Philharmoniker)によるニュ−イヤ− コンサ−トの中継である.

楽しみに待つのは、プログラムにある曲ではなく、アンコ−ルで演奏される曲である. アンコ−ル曲とはいえ毎回のように演奏されている.

それは「ラデツキ−行進曲」である. 心地よいリズムも素晴らしいが、聴衆が手拍子を打って演奏に参加しコンサ−トの最後を盛り上げるのを見るのは本当に楽しい. ウイ−ン フィルハ−モニ−管弦楽団の演奏中に指揮者が突如聴衆の方に振り向いてタクトを振ると、皆待ってましたと手拍子で応える. このシ−ンが好きで、ひたすらこの瞬間を待っている.  

ヨハン・シュトラウス(父、Johann StraussT)が作曲した「ラデツキ−行進曲(
Radetzky Marsch)」で有名なラデツキ−将軍は、1766年にボヘミヤに生まれたが、オ−ストリア軍に入り、対トルコ戦争で活躍した. ナポレオン戦争では、彼の率いる軍隊がイタリアで勝利を挙げヒ−ロとなった.

手拍子のリズムが何とも心地よく、厳しい年の門出に英気を貰った気がする.

ところで上の写真はいつも手元に置き、折に触れてひもとく本である. 大塚
巌徳・高木東一共著の「萬葉古今新古今の研究」である. 1954年3月12日購入以来54年に渡り常に手元にあり大分変色してしまった. 時に好きな句を読み遥か古を想うと心が落着く.

好きな句を数句、

田児の浦ゆ 打ち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける
 
                             萬葉集  山部宿称(すくね)赤人


ひむがしの 野(ヌ)にかぎろひの たつ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ 

                           萬葉集  柿本朝臣人麻呂


青丹(あおに)よし 寧楽(なら)の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
 

                             萬葉集 太宰少弐小野老(おゆ)朝臣


秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる  

                             古今和歌集 藤原敏行朝臣



1月末の3度目のスイス、Zermatt行きが待っている. あと何年滑れるか分からないが、出来る内に素晴らしい雪景色と白銀の山並みを見据えて滑りたいとつくづく思う.  恐らく次々回くらいに報告出来るだろう.

2009年が皆様にとって、厳しい情勢の中、出来る限りよい年になることを祈ります.



ひむがしの
ひむがしの、、、       2009.01.03



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6.  チェルヴィ-ノ ? モン セルヴァン ? 2009.02.26

Matterhorn0902
 Cervino ? Mont Cervin ?、 Matterhorn 4478 m     2009.02.04

1月末からスイスのツエルマット(Zermatt)にスキ-に行って来た. 3回目の訪問だ. これまでスイス、イタリ−,フランス 等 ヨ-ロッパ  アルプスで滑ったが今回は従来とはかなり違ったスキ−行であった.

晴天もあったが、強風、曇天、濃霧の下で滑り今までに無く恐怖感を味わった. それは一寸オ−バ-に言えば大学に入学した年の5月に部活で,人生初めてのスキ−なのに、いきなり札幌近くの山に連れて行かれた時の感じと似ていた. 曲がることも止まることも出来ぬまま トド松、エゾ松の間を滑り抜け、夜大学所属の山小屋で無事戻れたことに安堵し翌日の無事を願った時と同じ思いをした. 滑り方も初心者並みでこれまでの蓄積はどこに行ってしまったのかと思った.

今までに感じたこともないような恐怖感は、滑っていて体力の低下を実感したこともそうだが、一番の理由は曇天や濃霧の下では殆ど雪面の凹凸の判別がつかなくなったこと、更に平面なのに周りが雪の壁のように見えたこと、などから起きる転倒の恐怖感だ. 転倒したら、起き上がるのは容易ではなく、年齢からの捻挫や骨折等の心配をしたのも初めてだった.

帰国して直ぐ眼科へ行き、サングラスの度を強くすべきか相談した(私は眼鏡を掛けている). 医師曰くサングラスの度は上げない方が良い、むしろ外して滑ったらどうかと. 今思うと濃霧、曇天なのでサングラスを外し、持参したオレンジ色(黄色)のゴ−グルを試すべきだった.

それでも総合的には楽しく過して来た. それは毎回そうだが、同行の友人ご夫妻に大変親切に面倒をみて貰ったからであり感謝している. 

Zermatt と言えば先ず思うのは天空に聳え立つ山、Matterhorn(4478m)だろう.  Matterhornと言えば 初登攀に成功して世界的に知られるようになったアルピニスト、ウインパ−( Edward Whymper )を思い出す.   Whymper 著「 Scrambles Amongst The Alps 」では彼のマッタ−ホルン初登攀までの6年間に渡るアルプス登山記録が物語られている.  日本語訳には、例えば、「アルプス登攀記、浦松佐美太郎訳、岩波文庫」がある.

訳者の浦松佐美太郎によれば、

[ ウインパ−は1840年4月27日にロンドンで生まれ、 1911年9月16日にフランスのシャモニ−で客死した. 彼は11人兄弟姉妹の二男で水彩画家を父として生まれ、職業は挿絵画家であった.

彼の挿絵画家としての仕事が機縁となって山への情熱を持つようになった. 1860年イギリス山岳会が会員の登山紀行集[嶺(Peaks),峠(Passes)氷河(and Glaciers)]の第2集を編集することになり、それに入れる挿絵の仕事をウインパ−に依頼した.

21才の彼は写生帳と鉛筆を携え初めてのアルプスへの旅に出発した. この時の旅行が彼の生涯に全く新しい方向を与えることになった. 彼がロンドンに帰って来た時、すっかり山の魅力に取付かれてしまっていた ].

本著によればウインパ−はマッタ−ホルン初登攀までに実に7回の登攀を企てていた.

1865年7月13日午前5時半に彼を含む一行8名(最初は)はツエルマットを出発した. 初日はゆっくり登り、岩棚を伝いながら東壁へ出た. 12時半にはテントを張るのに都合の良い場所がみつかった.二名が偵察に行き残りはテントを設営した後のんびり過ごした.

14日の朝、夜明け前に登攀を開始したが人夫の一人をツエルマットへ帰した(これでメンバは7人となった). 東壁、北東山稜を経てついに午後1時40分頂上に立った

彼は7月11日にイタリ−側を出発したイタリア人一行が何処にいるか、もう登攀したのか気懸かりだったので、頂上につくやすぐに下方を見たら遥か下の山稜の上に小さく点々として見えた. イタリ−人達は引き返して行った.

しかし輝かしい成功に喜ぶのも束の間、帰路4人が転落すると言う悲劇に見舞われてしまった. 

ツエルマットの町からマッタ−ホルンの白く輝く姿を眺めると、ウインパ−ならずとも、知らず知らず山に引き込まれるような気分がする. それは私だけではなく見る人全てが同じ思いになるだろう.

今回は少人数だったので(計4人),チュ−リッヒ( Zurich )から車で Zermatt に向った. 高速道路を南に下り途中で一般道路に降りると冬季通行止めの町に行き当たる. そこで初めての経験だが、CAR Train なる台車に車ごと乗り込む. 何台も連結された台車は車を載せてトンネル内を走る. 多分 Realp からフルカ峠(FURKA)の中を通って Oberwald までだろうが、30〜40分かかった. 大型のバスやトラックなども利用している.

Zermatt は自然保護のためガソリン車(デイ−ゼル車も?)の乗り入れを禁止しているので、車で行く人は Taesch(テッシュ) に車を駐車し Zermatt とのシャトル電車に乗換えて行く. 我々はここでTaxiに乗換え、更に Zermatt の入り口で電気自動車のTaxiでホテルに向った. Zurich から Zermatt まで約4時間くらいかかった.

Maatterhorn と似ているが、比べれば小さいという名がついた Klein Matterhorn(3883 m)の峰へゴンドラを乗り継いで上がれば、そこは高度も3800m以上あり、酸欠で高山病の心配があり、零下15度以上の寒さという表示もある. 今回は強風でゴンドラが止まり行かなかったが前回はそこまで上がり、寒さのためスキ−が滑らないという経験をした. 天候が良ければ国境を越えてイタリ−側へ滑り降りることも出来る. つまりイタリ−のチェルヴィニア(Cervinia)スキ−場だ.

話は変わるが、同行の友人ご夫妻が数年前にZermattに来た時に同じツア−客で山形から単身参加された年配のご婦人と一緒になったそうだ. 今回偶然に、その山形のご婦人とZurichで会い、同じ飛行機で同じスキ−場(Zermatt)に向うとのことであった. 何たる奇遇と驚いた.

前置きが長くなったが、ご婦人の宿は  の モン セルヴァン( Moncervin )で我々の宿の近くにあり、わざわざ友人夫妻を訪れてくれた. 先の チェルヴィニア も この モン セルヴァン も実は Matterhorn(ドイツ語)に対するイタリア語(チェルヴィニア)とフランス語(Mont Cervin)なのだ. 何気なく聞いていたが、まさかMatterhornに別名があるとは知らず恥を晒した. スイスとイタリ−の国境にあるから呼称がそれに応じてあるのだろう.

ツエルマット駅前からアプト式登山電車(ゴルナ−グラ−ト鉄道)で約40分の乗車、3000mの頂上駅に着く. そこからKulmhotel Gornergratの側を通りもう少し登ると展望台に出る. ここからは360度に渡り白銀の山々が良く見える. その素晴らしさを簡単には表現出来ない.

下の写真はこの展望台(3089m)から見えるモンテ ロ−ザの峰峰である. イタリ−とスイスの国境に位置しアルプス山群で2番目に高い山(峰)でスイスの最高峰である. Monte Rosaをこのように鮮明に見ることが出来とても嬉しかった. 

単独の峰ではなく、複数の峰の連なる山群の名称である. 最高峰はイタリ−側にある デユ−フル峰(Punta Dufour,4634m). 名前は、イタリア語のRosa(バラ)、朝日に染まった山の様子から名付けられたと考えられている. 

アルピタン語(スイス、フランス、イタリ−国境付近で話されている諸方言をまとめたもの)の氷河(ROISA)が語源という説もある.

分け上る 麓の道は異なれど 同じ高嶺の 月を見るかな という詩歌がある. 欧州のスキ−場は一般には高いところは滑る場所は広く、上の詩歌とは反対に(いわば漏斗状に)下るほど町への下り口は数少なくなり、幅が2mくらいしかないとか、急傾斜だったりで最後が大変である. そこへ帰りを急ぐスキヤ−が途切れることなくスピ−ドを出して下りてくる. うっかり転んだら、車の事故同様の玉突き状態になってしまう. 1月末〜2月はスキ−休暇の時期で混むのだろう.

腕が落ちて来たら空いてる時期を探して滑るしかないなど思った.



モンテ ローザ デユーフル峰
Monte Rosa デユ−フル峰 4634m       2009.02.04



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7.  春暁 2009.04.13

こどもの国の桜
 こどもの国 (横浜市青葉区)     2009.04.06

3月もあっという間に過ぎ早や4月、桜も関東は満開を過ぎてもう散り始めた. 3月の後半は、卒業式帰りの、父兄に連れられた、胸に花を挿した中学生、高校生を見る機会が多く昔の自分のことを思った. 「オメデトウ クラ−ク」 という合格電報を、先に依頼していた確か大学の学生会から届いた時は嬉しかった. 医学部進学課程で既に学んでいた、同郷の先輩に連れられて、未だ早春の寒さが残る札幌へ向った.

自分の将来がどうなるかなど見当もつかず、ただ未来に向って漠然とした希望と期待を持ち、さあ勉学に励み未知の世界に進むぞと気を引き締めていた. あの頃は親が卒業式、入学式に同行することなど考えもつかなかった.

中学校でも、高校でも、卒業式には在校生が「蛍の光」を歌って卒業生を送り、卒業生が「仰げば尊し」を歌って母校に別れを告げるのが慣わしだった. 時代の経過と共にこれらの歌は歌われることはなくなったが、私には「仰げば尊し」の中の一片の歌詞の いざさらば に強い思いがある.

それではさようなら という意味だが、先生、友人、後輩に別れを告げる悲しい表現だと感じて切なくなるのだ. 分かれは辛い. そのことが脳裏をよぎるばかりで、先には未知なる世界が待っていることに想いを馳せなかった.

関東の桜はもう散ってしまった. 然し今年の桜の開花は早いと言われながらも、私の故郷の福島県田村市近辺は、三春滝桜を含めてこれからである. 未だ梅が咲いていて、桃も咲いていてこれからが桜である. 

先週所用があり故郷に行って来た. 都会とは異なり、田、畑、山林の中にわずかに人家が見え隠れする田舎の故郷を訪れると必ず思い出し口ずさむ歌がある. 

[ こころざしを果たして いつの日にか帰らん
 山はあおき 故郷 水は清き 故郷 

この詩は、故郷(唱歌) [高野辰之 作詞   岡野貞一 作曲] の3番である. 恐らく昔(今も?)の人は大望を抱えて都へ向い、いつの日にか成功して故郷に錦を飾ることを夢見たのだろう. 故郷はそれほどに大切で懐かしいところなのだ. 故郷に行くとどうしても感傷的になってしまうのである.

閑話休題、

中国の唐詩選に次のような名句がある.

孟浩然 (もうこうぜん) 作                  注: 私は もうこうねん と習った

春暁             春の暁(あかつき)

春眠不覺暁         春眠 暁を覚えず
処処處處聞啼鳥      処処に啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来風雨聲         夜来(やらい) 風雨の声
花落知多少         花落つること知んぬ多少ぞ


[ こころよい春のねむり、うっかりねすごして、夜のあけたのも知らない. 目がさめて見れば、朝はすでにみちているらしく、鳥の鳴き声が、あちこちから聞こえる. ベッドの上に横たわったまま、きょうはよい天気であることを思う. しかし昨夜から今朝にかけては、相当の嵐であった. 嵐のあとのきょうの日よりは、一そう心よいであろう. しかし気にかかるのは、咲きほこっていた庭の桜. 昨夜の嵐で、どれだけ散ったことであろうか.]     

                           吉川幸次郎 著  「新唐詩選」  岩波新書

近くに桜並木の散歩道がある. 2kmに渡って咲き誇る桜は見事としか言いようがないがもう殆ど散ってしまった. しかし未だ多少は残っている. 暖かいというより暑いともいえる陽射しが桜の若葉に遮られて程よい影を作る木陰を散歩すると、残りの花びらがふわふわと落ちてきて何とも言えぬ風情を感じ気持が和む. のんびり歩きながらふと思う. 春夏秋冬、いつでも眠い時は眠いが、やはり春を表現するには 春暁 的を得ていると思う.



ふと思う. 清少納言の「枕草子」の 
春はあけぼの の一節を、

[ 春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の 細くたなびきたる ]

ふと思う. 中国の詩人 蘇東坡(そとうば) の 春の夜 の一節を、

[ 春宵一刻値千金  春宵(しゅんしょう)一刻(いっこく) 値千金
  花有清香月有陰  花に清香有り 月に陰あり
、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、 ]


与謝蕪村の作で、 [ 春の夜や 宵あけぼのの 其の中に ]  という句がある.

ここで は、蘇東坡の春宵一刻値千金を指し、あけぼのは清少納言の春はあけぼののを指している. 上記からも分かるが、日本のかなりの詩人、作家は、中国の詩の影響を受けていたと言える.

ふと思う. このホ−ムペ−ジに書いて来たことは、現況を除けば殆どは過去の想い出や、学んだことばかりで、未来への希望などを書いたことがない!  もう自分には未来を語れないのか? そんなことはないと思う. 日々平凡ながらも未来を考えて過したいと、そう思う.


Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of record time.

                     William  Shakespeare Macbeth v.5

明日、また明日、そのまた明日と、日一日、
忍ぶ足取り小刻みに、
時の末尾に進み行く.

                      
ウイリアム・シェイクスピア 「マクベス」 5幕 5場

上記: 「英語の名句・名言」 By Peter Milward & Sadanori Bekku  講談社現代新書



ゴルネルグラート山頂駅から見るマッターホルン
 Gornergrat駅前(3089m)からMatterhornを眺める       2009.02.04



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8.  路傍の花 2009.05.30

散歩道の花
 散歩道の花 (神奈川県座間市)     2009.05.10

作家 山本有三 の代表作に「路傍の石」がある. 1937年「朝日新聞」に連載され。1938年に「主婦の友」に新篇として連載. 当時の時代背景の影響(検閲など)もあり1940年に断筆を決意. 最終的には未完である. 大正期の社会主義と個人主義の対立を背景にした作品である.

毎日歩いている桜並木の散歩道、小道に沿って咲いてる何種類もの花を見て突然花ならぬ石を思い、山本有三の「路傍の石」思った.

小道のほとりには、花心のある人たちが丹精をこめて育てている多くの花が季節を知らせて咲いている. いつも何か考え事をしながら歩くので、これまで花が咲いていて綺麗とは思いつつ余り注目しなかった. よくよく見ると名前が分かる花も結構ある. 

5月末の今咲いている花は、薔薇、つつじ、紫陽花、パンジ-, あやめ、素馨(そけい、ジャスミン)、 白丁花(はくちょうげ、推定)、釣鐘草、カラ-(海芋、かいう)等々ある. 名前を知らない花も沢山咲いている.

普段何気なく通り、眺める、小道の花々、それを愛でて育てる人々. 自然界の生をつくづく感じ取ったのである.

この散歩道に やまぶき(山吹) が群生している. もうずっと前に黄色い花は散ったが、子供の頃、この枝を短く切って腕などに付けると枝から出る粘液でしばらくトゲのようにくっついているのが面白くよく遊んだものだ. この「山吹」の群生を見ると思い出すのは太田道灌の故事である.

よく知られている故事だが、江戸城築城で有名な太田道灌が鷹狩りの途中雨に出会い、近くの貧しげな家に寄り雨具を借用しようとした. 応対に出た若い娘さんが 恥ずかしげに一枝の山吹を差し出したが、道灌は意味が分からずば馬鹿にされたと思い怒って帰宅した.

後拾遺和歌集に次のような句がある.

「七飯八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞあやし

娘さんが差出した一枝の山吹の意味は、山吹は実が生らないことから蓑が無いことにかけたのである.  後日道灌は意味が分からなかった我が無知を恥じ歌道に励んだという.

実際には山吹には実が生るそうだが、八重先の山吹には実が出来ないそうだ.

私は長い間、句の最後は 無きぞ悲しき と覚えていたが、どうもこれは江戸古典落語の噺の「道灌」 から来ているらしい. 原典は 白河天皇の命により藤原通俊 が編纂した勅撰和歌集の「後拾遺和歌集」 兼明親王 作で 無きぞあやしき となっている. 私には新発見である.



散歩道の花(2) 散歩道の花(3)
散歩道の花(2) 2009.05.10 散歩道の花(3) 2009.05.10



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9.  ふるさと 2009.08.04

両親の終の住処
 両親の終の住処 (1)     

7月の暑い日に親戚の法事があり出席した. 読経が流れる中をしめやかに故人を偲んだ.仏教なのでお寺で行われた. 参列者は進行者の言葉に従って、合掌したり、仏教の作法に従っていた. ふと思った. 無宗教や仏教以外に信教がある人はこの時どう振る舞うのだろうかと?

私の両親や祖父母、先祖の墓は福島県の山奥にある. 年に数回しか行かないが、墓参に訪れると、何故か生まれた所ではないのに ふるさと に戻ったような不思議な思いに捕らわれる. 亡くなった両親の終の住処があるからだろうか?

  
ふるさとは遠きにありて 思ふもの  そして悲しくうたふもの
  よしやうらぶれて 異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや
  ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ
  そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや


           
室生犀星 「抒情小曲集  小景異情(その二)」

私は何処を自分のふるさとと言えば良いか分からない. 父親の転勤に従って、九州で生まれ、川崎、福島県三春町、福島県小野新町、福島県四倉町と転々とし、大学時代は札幌、就職先は東京、結婚後は神奈川に住んでいる. だからこそ両親が終の住処と決めた山奥の町をあたかも生まれ故郷のように想うのだろうか?

上と下の写真の家は築後65年〜70年を経た旧い農家である. 両親没後私が引継いだがもう10年以上無人のままである. 自分の山から伐採した木を自宅前で製材して建てた家なので骨格は頑丈に出来ている. ただ屋根や床の老朽化が進みこのままでは住めない. 墓参の度に無人の我が家を見ては心を痛ませている.

ところで、ふるさとは、、、の詩は恥かしながら石川啄木の作と最近まで思っていた、多分「一握の砂」の一作だろうと. 思い違いに気がついて、それならばと、「一握の砂」を斜めに読んでみた.

 
かにかくに渋谷村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川

 ふるさとに入りて 先ず心傷むかな 道広くなり 橋もあたらし

 ふるさとの山に向ひて 言うことなし ふるさとの山は ありがたきかな

                     石川啄木 「一握の砂」


犀星の詩も啄木の詩も読んで切ない、悲しい詩である. どんなに厳しい環境に吾身を置こうとも、ただひたぶるにふるさとを恋しがるその心を想うと泣けてくるのだ.

恋しがる心とは違うけれども、未だ訪れてもいないのに、懐かしく想う所がある. 札幌の大学生時代にいつも家への帰省時に、寄りたいと思いながら、素通りしていた山形県の山寺と岩手県平泉である. 


    閑さや 岩にしみ入る 蝉の声        (山寺、立石寺 にて)        

    夏草や 兵(つわもの)どもの 夢の跡   (平泉にて)

                                   松尾芭蕉



ホ−ムペ−ジに何回も上の句を書いたが未だ行ってない. 今年こそと思いながらもう8月になってしまった. 未だ蝉の鳴き声は賑やかだ. 是非蝉が元気な内に訪ねてみたいと思う昨今である



両親の終の住処(2)
両親の終の住処 (2)  



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10.山寺 2009.10.09

芭蕉の句
 芭蕉の句 閑さや、、、    2009.09.07  山寺にて   

ついに行った. 山形県の立石寺(別名山寺)へ. 学生時代から山寺訪問を憧れていて50年も経ってしまった.行くと決めればあっけなく実行出来た. 

9月6日埼京線、東北・山形新幹線で福島駅経由山形駅へ. 山形新幹線は初めての経験である.
山形新幹線は福島から新庄まで在来線(奥羽本線)を走るので、どのようにして軌道の異なる線路を走るのか大変興味があった. つまり新幹線は広軌で奥羽本線は狭軌の筈だと思ったからである. 福島駅までは東北新幹線と連結で走るので、多分分岐する福島駅で車両のレ−ルの間隔を縮めるのだろうかと思った.

しかし福島駅に到着すると何の作業も出来ないほどの短い停車時間で発車した. 帰宅して調べたら、在来線の車両を広軌にして(新幹線と同じ軌道幅にして)、その路線を奥羽本線ならぬ愛称山形線(福島〜新庄間)と呼び、車両も広軌用の車両を製造したそうである.

つまり奥羽本線の福島駅〜青森駅間の内、福島〜新庄間は山形新幹線と軌道を共有するので、在来線(愛称山形線)の車両は新庄から先には行けないことになる.

本題から外れたが当日は山形駅で下車して市内で1泊した. 東北新幹線と連結で走る福島まではいわゆる新幹線のスピ−ドでひた走りだが、福島からは本来在来線だった路線を走るので、谷間や、山間をゆっくり走るので近くの景色ものんびり見れて楽しかった.

翌日(9月7日)は好天ながら結構暑かった. 山形からロ−カル線の仙山線に乗り山寺駅で下車. 山寺駅のプラットホ−ムから立石寺のある山や建造物が目前に見えた. 駅舎も観光地にありながら清潔感があり、9月になったので観光客は少なく好感が持てた.

暑い中、水分を補給しながら1150段あるという階段を数回休みながら上がった. 昨夜は果たして上り切れるかと心配したが、案ずるより産むが易しで,斉藤茂吉と小宮豊隆の蝉論争のことを思い出しながら40分ほどで登れた. 茂吉が油蝉、豊隆がニイニイ蝉を主張. 現地調査の結果芭蕉が訪れた7月13日には油蝉は鳴いておらず豊隆の勝ちとなった.

因みに私が行った日は(9月7日)ミンミン蝉しか鳴いていなかった.
  


     閑さや 岩にしみ入る 蝉の声  (立石寺 にて 松尾芭蕉)
                                     

上の句は山寺で詠んだ句で芭蕉の傑作の一つとして有名だが、何とこの句に到達するには次のように推敲を重ねたそうである.
 
     (1) 山寺や 石(いわ)にしみつく 蝉の聲
     (2) さびしさや 岩にしみ込む 蝉のこゑ
     (3) 淋しさの 岩にしみ込む せみの聲



下りは早い. 上りより足に体重がかかるような感じで膝がガクガクした. 仙山線で車窓からの風景を楽しみ仙台へ. 東北新幹線で福島経由郡山へ行き2泊. レンタカ−で両親、祖父母、先祖の墓参をして計3泊4日の旅は終わった. 来年は岩手県平泉の金色堂に行きたい.


山寺の階段 山寺遠望
山寺の階段 2009.09.07 山寺遠望 2009.09.07



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11.天心 と 点心 2009.12.03

Top of Gornergrat
 Matterhorn 遠望   Gornergrat 3089m   2009.2.4 

私は福島県立磐城(いわき)高校を卒業生した. 高校三年生当時の仲良し7人組も卒業後夫々の人生を歩み、未だ現役もいるが大半は引退し隠居生活を送っている. 3人は地元のいわき市に帰り他の4人は東京と神奈川県に住んでいる. 年に1回1泊の旅行をし過ぎ去りし昔を懐かしんでいる. 

今年はいわき市在住組が幹事で茨城県北茨城市大津町の五浦温泉に出かけた. そこはいわき市のある福島県とは県境を隔てて直ぐ南にある. 恥ずかしながら五浦と書いて「いずら」と読めなかった.

五浦と言えばアンコウ鍋で有名なようだが、実は近代日本を代表する文明思想家、岡倉天心が居を構えた所であることを知った. 

天心は東京美術学校(現東京芸術大学)校長の職を辞して1897年に弟子達と共に日本美術院を創設した.やがて天心は五浦に住み、1906年には日本美術院を再編成して、4人の愛弟子、横山大観、下村寒山、菱田春草、木村武山 を呼び寄せ、日本画の近代化を目指した美術活動が展開された.

平山郁夫作 [日本美術院血脈図] の背景には、披露宴の紅白幕を垂らした谷中の日本美術院が描かれている. 愛馬にまたがり、東京美術学校制服をまとった天心を中心に、横山大観、菱田春草下村寒山木村武山らの創立会員から、最前列の奥村土牛、前田青頓(せいそん)、安田靫彦(ゆきひこ)など、本作の出品された再興院展50回目の同人までの顔ぶれが並んでいる. 

この作品からは、天心が志した洋画に対抗する日本画の創設と近代化の歩みを、東京美術学校から日本美術院へと引き継ごうしている
平山氏の意欲がうかがえる. 天心の美術学校制服を白にしたことで、新たな神話がイメ−ジされている
」.  
     
以上茨城大学五浦美術文化研究所発行 「岡倉天心と五浦」 より引用

宿泊した五浦観光ホテル、別館大観荘の海に面する部屋の目前に、海面すれすれに建つ、天心が海を眺めながら思索にふけったといわれる六角堂があり良く見えた. 

本文を書いている途中に
平山郁夫氏の死去を知った(12月2日). 私は氏の作品が大好きで、特に北欧の木々、湖等を茫洋と描写する画風を大変気に入っている.ご冥福を祈ります.

ところで、Wikipedia によれば; 明治36年(1903年)、天心は米国ボストン美術館からの招聘を受け渡米. 羽織・袴で天心一行が街の中を闊歩していた際に1人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけられた.「お前達は何ニ−ズ?  チャイニ−ズ?  ジャパニ−ズ?  それともジャワニ−ズ?」. そう言われた天心は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キ−か?  ヤンキ−か?  ドンキ−か?  モンキ−か?」と流暢な英語で言い返したと言う逸話がある.

さてここからは全く岡倉天心とは関係なく、また異次元のことであるが、ふと点心のことを思った. 仕事で香港に行く度に忙しい時間の節約にと昼食によく飲茶(ヤムチャ)店に行った. 店内を餃子、焼売、春巻き、チマキ 等々を入れ巡回しているワゴン車がら好きな食物を取って食する. この食べ方を飲茶と思っていた.

一方、シンガポ−ルでは似たような食べ方を点心(確かデイエンサムと発音)と呼んでいたと記憶している. 国が違えば呼び方も違うのかと長い間思って来た. 一寸調べてみたら考え違いをしていたことが分かった. 以下Wikipediaに依る、

[飲茶(ヤムチャ)とは中国広東省、香港、マカオを中心に行われている習慣で中国茶を飲みながら点心を食べることである. 点心とは中華料理の一つである. 菜(中華料理の主菜)と湯(中華ス−プ)以外のものを言う]. 

日本式の飲茶はどうも点心を腹一杯食べることが主で、お茶は二の次になっているようである. シュウマイや餃子、春巻きなどを食べ、ビ−ルを飲むのは飲茶とは言えないようだ.

更に余談になるが最近偶然に二つのNHKのBS放送を見て感心した. まず歌手の「ちあきなおみ」特集番組だったが、喝采を歌った演歌歌手と単純に思っていた. 番組を見たら ポップス、シャンソン、ポルトガル民謡のファド などを次々と歌うのには驚いたが、歌唱力も凄いが彼女の美しい日本語の発音を聞いて素晴らしいと思った.

二つ目は再放送だったが、Mont-Blanc(モンブラン、4810m)の裾野をフランス、イタリア、スイスの三ヶ国を通り一周するマラソン大会である. 裾野とは言っても高い峰峰を昼夜の別なく、且つ一睡もしないで160kmを22時間で走るという過酷な競技である. 観衆の応援も然りながら家族総出で助け合うシ−ンは美しく、70歳の老人が完走するのを見て感激した. 「もう老人だから」と言うのは言分けに過ぎないと自分に言い聞かせた.



Horse Taxi Drying Room
馬車のタクシ− Zermatt 2009.2.4 ホテルの乾燥室  Zermatt 2009.2.4


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12.謹賀新年 2010.01.03

初日の出
 ベランダから見る 初日の出               2010.1.1 

新年おめでとうございます.本年もどうぞ宜しくお願いいたします.

折にふれ言うことは、このホ−ムペ−ジはただひたすらに元気な印として書き続けているということです. 粗末な文章ですが、時間がある時はこれからも読んでいただければ幸せです.

かねて長い間、プロスキ−ヤ−として有名な、大学の先輩(学部は違うが)でもある、三浦雄一郎さんに是非お会いしたいと願っていた. お父上の三浦敬三さんのことは私の学生時代からお名前を知っていた. 雄一郎さんの弟さんとは教養部では同級生だったし一緒にスキ−部の山小屋番をしたり滑ったこともあり、有名な兄上に一度お会いしたかった.

機会を窺っていたら、昨年12月に東京神田神保町の学士会館にて.札幌農学振興会東京支部と北大獣医学部同窓会関東支部共催で.三浦雄一郎さんと芥川賞受賞作家の加藤幸子さん、の講演会・対談が開かれることを知った. チャンスとばかりに久しぶりに学士会館へ出向き講演と対談を興味深く拝聴した.

三浦さん(獣医学部卒)も加藤さん(農学部卒)も北大スキ−部卒として紹介された.  このお二人はスキ−部山班(山岳スキ−)に所属し、学年は違うが(三浦さん4年生の時加藤さん1年生)部活で顔見知りだったそうだ. 

私がスキ−部山班の1年生の時、加藤さんは4年生で、スキ−部山班の厳冬期裏大雪山縦走のサポ−ト隊で一緒だったことがあった. その後私は教養部から工学部へ移行し、忙しくなって部活からは足が遠のいてしまった.

三浦さんのチョモランマ(エベレスト)登頂の記録映画の上映や体験談を聞いたが、彼が20歳の時大雪山のスキ−から札幌に戻って、ヒラリ−氏とテンジン氏のエベレスト登頂のニュ−スを聞き自分もいつかエベレストに登ると決めたそうだ. 当時北大山岳部やスキ−部山班の部員は先を越されたと非常に落胆したらしい.

爾来50年、紆余曲折の末50年目に70歳でエベレストに登頂、更に75歳にて再度登頂. 75歳の登頂は70歳の時頂上の天候が悪く周りがよく見えず、園遊会に招かれた折頂上からの眺めをうまく説明できず、再度好天の日にアタックしようと考えたからだそうだ.

三浦さんはこの先80歳で再再度エベレストに登頂すると公言した.いつまでも若い心と鉄の意志を持つ人に強い印象を受けた. 今春は札幌郊外の手稲山で転倒し(麓の駐車場付近で)骨盤骨折の大怪我をし二ヶ月入院したそうだ. 失礼ながら正に猿も木から落ちる、弘法にも筆の誤り、上手の手から水が漏れる、だと思った. もう78歳になるのに若々しく殆ど60歳代に見える.

加藤さんは父親、自分、娘の三代北大卒で、(因みに三浦さんは敬三さん、ご自分、弟さんが北大卒)、入学した時に山岳部に入部を申し込んだら前例がないと断られ、それではとスキ−部山班に頼んだら大激論の末女性としては扱わないと言われて入部を許可されたそうだ. 入学1年半後の学部移行では農学部の犬飼教授(南極の犬、タロ−,ジロ−を育てて有名)に動物学を勉強したいと話したら、山でヒグマに襲われたら 大変と断られ、結局農学部農学科で園芸を学んだそうだ.

農林省の農業技術研究所に入り、その後自然保護協会に移り1963年退職し、前から望んでいた文筆生活に入り、新潮新人賞、芥川賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞などを受賞し現在に至っている. 

講演の前にお二人に会い暫し話が出来大変嬉しかった.

三浦さんのような強い意志も体力もない自分だが、せめて気力だけは強く持ち日々を楽しく過そうと、話を聴きながら、つくづく考え、思った. 今春は3度目になるがGrindelwald(スイス)で滑ろうとずっと願ってきたが、いつも同行してくれる友人達となかなか都合が合わず、さりとて単独で行けば家族が心配するので結局諦めた. それでも2月初旬に北海道のニセコアンヌプリで滑ることを決めた.



大晦日の散歩道
大晦日の散歩道         2009.12.31


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13.ニセコアンヌプリ 2010.02.17

ニセコ国際スキー場
 ニセコ国際スキー場               2010.02.03 

2月初旬、スイスのGrindelwald行きを変更して2年ぶりに北海道ニセコ町に行った. 当地にあるニセコアンヌプリ国際スキ−場で滑って来た. ニセコアンヌプリ(1308m)は北海道後志(しりべし)支庁にあり西方にイワオヌプリ、ニトヌプリ、チセヌプリが北方にワイスホルンがある.

カタカナ表記なのでアイヌ語と思っていたが、Wikipediaによればどうも和人が作った言葉らしい. つまりアイヌ語で 「NISEY-KO-AN-NUPURI,絶壁・に向かって・ある・山」 を意味する. 南西斜面を下るニセコアンベツ川の水源によることから和人がアイヌ語風に作り上げた「幽霊アイヌ語地名」
と言われており絶壁に向かってある山状ではない.

スキ−場はニセコアンヌプリの東南〜南西の斜面の三箇所にあり、東側から夫々ニセコグラン・ヒラフ、ニセコビレッジ、ニセコアンヌプリ国際スキ−場と呼ばれている. 私や同行の友人達はニセコアンヌプリ国際スキ−場にあるホテルが好みで、なぜならホテルからスキ−を履いてリフトやゴンドラ乗場に滑って行けるしまたロッカ−室まで滑って下りられるからである. そしてスキ−場も空いていて静かでのんびり滑ることが出来るからである.

前にも書いたが学生の頃は冬になると上記のニセコアンヌプリ、イワオヌプリ、ニトヌプリ、チセヌプリ、ワイスホルンに麓の合宿宿の青山温泉不楼閣からスキ−の裏面(滑走面)にシ−ルを着けて日帰りで登った. この青山温泉不楼閣が懐かしくてニセコに行く度に所在を尋ねるが確たる返事を貰えない. そこで今回一寸調べてみたらどうやら蘭越町にあって既に廃業されたらしい.

「青山温泉はニセコのスキ−文化の発展に大きく影響を与えた北大スキ部の合宿所となっていた. 多いときには130人を超える宿泊客があったそうだ. また、多くの宮様が不老閣に宿泊された.秩父宮様のスキ−行も青山温泉不老閣に滞在されたし、他に李王垠殿下(朝鮮王朝最後の皇太子)、高松宮様、三笠宮様、秩父宮妃様が宿泊されたそうだ」.

ところで2月初旬と言えば日本列島に寒波が襲来し、大雪となり大変な天候だったがニセコを含めて北海道も当然大変シバレユルクナカった. ニセコの気温は約−15℃〜−20℃
だった. カタカナは北海道の方言で「シバレル」は気温が激しく冷え込んでいることで、「ユルクナイ」はつらい、大変なことを意味する.

下左の写真の「ぱらだいすヒュッテ」はニセコアンヌプリ国際スキ−場の中腹にありせいぜい20名も入れば満員になるような小さい小屋である. 暖かい飲み物やケ−キ類、自動販売機等しかなく食事は出来ない. そのせいか立寄る客も少ないので我々は好んでそこで一休みする. 友人はホットワインが目当てで寄るようなものだ.

多分ガイドブックにあるか、当地で口コミで知るのか外国人の客が多い. ある時ふと気がつくと客のうち日本人は我々4人だけで他の10人以上もいる客は皆外国人ばかりで一瞬これまで行ったスイス、フランス、イタリ−等の山小屋にいるような錯覚に陥った.

ニセコの帰路札幌に寄った、丁度雪祭りが始まったので. ニセコではスキ−の服装をし寒さを覚悟していたのでさほど寒さを感じなかった. しかし札幌の雪祭り会場の大通り公園は
−12℃位でも普通の冬の服装ではとても寒くて震え上がった.

幾つもの見事な雪像の中にDresden(ドレスデン、独)のFrauen Kirch(聖母教会)がある. 写真右下. ドレスデンでは1945年2月の米、英軍による無差別爆撃で多数の死者が出た. ドレスデンは無防備都市宣言をしていたので、国際法違反ではないかと英国内でも大きな話題となった. この雪像の聖母教会も爆撃で灰燼に帰したが、2005年に世界中からの寄付を基に教会の瓦礫を集めて再建され、和解と平和のシンボルとなった.

朝日新聞の朝刊(2010.2.15、13版4面)には、「極右に負けない1万人の鎖」という見出しでドレスデン大空襲後65年を迎えて追悼集会が開かれ「極右、ネオナチ」がデモ行進を計画したため、市民グル−プらが体をはった「人間の鎖」で対抗したとある.

上記記事は更に[ドレスデン大空襲では8割以上の建物が瓦礫となり、3万人以上の市民が死亡したと言われる. 極右は「爆弾によるホロコ−スト」と位置づけ、「犠牲者としてのドイツ」を強調している] と書いている.

シバレタ北海道から帰宅して驚いた. 気温は+19℃もあった. スキ−に一緒に行った友人からのメールには庭の梅が満開と書いてあった. そこで思い出した有名な歌を.

東風吹かば にほひをこせよ 梅(の)花 主なしとて 春を忘るな (春な忘れそ)

                           菅原 道真 (拾遺和歌集)

菅原道真と言えば学問の神様として広く親しまれている. 丁度今は受験シーズンもたけなわである. 昔貰った大学合格電報「オメデトウ クラーク」を思い浮かべながら受験生の皆さんの健闘を祈っている.



ぱらだいすヒュッテ ドレスデンの聖母教会
ぱらだいすヒュッテ 2010.02.04 ドレスデンの聖母教会(雪祭り) 2010.02.05


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14.沈丁花 2010.03.24

沈丁花
 沈丁花               2010.03.13 

私の哲学の道(つまりいつも歩いている、人家の中を通る約2kmの桜並木、散歩しながら好んで思索に耽っている)を散策していると、風に乗って馥郁たる香が漂ってくる. 沈丁花の香である. この香が漂うとまさに春を感じこの先には初夏の到来があると思うのである. 沈丁花は季節的には春の花だが私には昔の思い出からどうしても初夏を想ってしまう.

前にも書いたと思うが私は大学を1962年に卒業し就職した. 入社2年7ヶ月後、丁度東京オリンピックが終了した1964年11月ころSwedenに駐在した. 初めての外国生活、仕事に疲れてアパ−トに帰る夜半、誰一人歩いていない道端にかすかに沈丁花の香が漂っていた. 

丁度白夜の季節が始まった頃の初夏の夜の香という記憶が強くある. 沈丁花の香も名前も全く知らなかった. 帰国して同じ香に接して初めてその名前を調べて知った. いまでもこの香から北欧の初夏を想い、そして北欧の夏の景色を想い、北欧を画題にした東山魁夷の世界にのめり込んでしまう.

沈丁花(じんちょうげ)の学名は 「Daphne Odora」 でDaphneはギリシャ神話の女神ダフネにちなみ、Odoraは芳香あることを意味する.


   沈丁花 いまだは咲かね 葉がくれの くれなゐ蕾 匂ひこぼるる

   庭石の かげに咲きたる 沈丁花 いま咲ける花は この沈丁花


                                    若山 牧水


3月ももう後半となり卒業式は大半は終わったろうか? 自分の卒業式のことは殆ど記憶に無いが考えれば、小学校、中学校、高校、大学の計4回あった. 幼稚園には入っていなかった. かすかな記憶を辿れば、多分小学校と中学校の卒業式では、式の終りに在校生がまず「蛍の光」を歌い続いて卒業生が「仰げば尊し」を歌ったような気がする.

歌の内容が民主主義にそぐわないとか、時代に合わないとかで次第に歌われなくなり、今の生徒はこれらの歌を知らないと思う. 然し私は世の批判はあろうともこれらの歌の旋律と歌詞も内容によっては好きなところがある.

「蛍の光」はスコットランド民謡の Auld Lang Syne を原曲とし、作詞:稲垣千頴、作曲:不詳の日本の唱歌である.

    螢の光 窓の雪 書(ふみ)読む月日 重ねつつ、
    何時しか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く.


「仰げば尊し」も作詞、作曲不詳のスコットランド民謡を元にした唱歌であると言われてるが、日本人の作詞、作曲という説もある.
.    
    朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓 蛍の灯火 積む白雪、
    忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月 今こそ 別れめ いざさらば



上述の唱歌を口ずさむとどうしても下記の唱歌を思い出してしまう.

「故郷(ふるさと)」

    兎追ひし かの山 小鮒(こぶな)釣りし かの川
    夢は今も めぐりて 忘れがたき 故郷(ふるさと)


    如何(いか)にいます 父母 恙(つつが)なしや 友がき
    雨に風に つけても 思ひ出(い)づる 故郷


    志(こころざし)を はたして いつの日にか 帰らん
    山は青き 故郷 水は清き 故郷



3月に卒業して、更に学び或いは仕事に就き我が将来を夢見て日々過せし吾は今何をしているのだろう? 前にも書いたがふるさとをつくづく思う吾はやはり齢を感じどうしても感傷的になってしまうのか?


    ふるさとは遠きにありて 思ふもの  そして悲しくうたふもの
    よしやうらぶれて 異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや
    ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ
    そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや


           
室生犀星 「抒情小曲集  小景異情(その二)」



ところで、工作機械の世界には、日本、欧州(ドイツ、フランス、イタリ−),アメリカ(シカゴ)で隔年回り持ち開催される工作機械見本市があった. 最初に勤めた会社ではこの見本市開催時に顧客や代理店の方々を招待してレセプションを催すが、閉会時皆で肩を組んでAuld Lang Syne」を歌った. 歌詞こそ国ごとに違っても、旋律は変わらず世界的な民謡だとつくずく思った. 


ニセコアンヌプリ(1) ニセコアンヌプリ(2)
ニセコアンヌプリ(1) 2010.02.03 ニセコアンヌプリ(2) 2010.02.03


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15.草枕 2010.05.29

無意根山 春合宿
 春合宿            札幌郊外 無意根山   1958.5 

いつもの散歩道を歩いていてふと夏目漱石のことを思った. 夏目漱石の草枕に次のような文章がある.

「山路を登りながら、こう考えた. 智に働けば角がたつ. 情に棹させば流される. 意地を通せば窮屈だ. とかくに人の世は住みにくい. 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる. どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る. 中略、
 
 うれしい事に東洋の詩歌(しいか)はそこを解脱したのがある. 
採菊東籬下、悠然見南山(きくをとるとうりのもと、ゆうぜんとしてなんざんをみる) ただそれぎりの裏(うち)に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる. 垣の向こうに隣の娘が覗いてる訳でもなければ、南山(なんざん)に親友が奉職している次第でもない. 超然と出世間的(しゅつせけんてき)に利害損得の汗を流し去った心持になれる. 以下略  」


夏目漱石と言えば小説家、評論家、英文学者として有名である. 小説の作品も、短編小説では「草枕」、中篇小説として、「坊ちゃん」、「虞美人草」、「三四郎」、「それから」、長編小説では「我輩は猫である」などが代表作として有名な作品である.

夏目漱石は英国に留学した. 私は英国に留学した作家がまさか漢詩に詳しいとは考えもつかなかったが、採菊東籬下は陶淵明の「飲酒」にある. それで一寸調べたら、漱石は漢詩も多数作り作品の数は200を超えるそうだ. 漱石と言えば小説ばかりが有名で、果たしてどれほどの人が彼の漢詩を知っているのだろうか?

因みに、前にも書いたが、陶淵明の連作「飲酒」、詩20首の第5首に次のような詩がある.

結廬在人境 イオリ を結んで人境に在り
而無車馬喧 而るに車馬の喧カマビス しき無し
問君何能爾 君に問う 何ぞ能く爾シカル やと
心遠地自偏 心遠ければ地自オノズカ ら偏ヘン なり
采菊東籬下 菊を采ト る東籬の下モト
悠然見南山 悠然として南山を見る
山気日夕佳 山気 日夕に佳なり
飛鳥相与還 飛鳥ヒチョウ アイ トモ に還カエ る
此中有真意 此の中ウチ に真意有り
欲弁已忘言 弁ぜんと欲して已スデ に言を忘る

ところで陶淵明は西晋(せいしん)から東晋(とうしん)の時代、約西暦400年頃の詩人である. 恥ずかしながら好きな漢詩の詩人達は陶淵明を含めてほぼ同時代の詩人と思っていたが、他の詩人は唐代(618〜907)の詩人で全くの勉強不足だった.

漢詩は中国の伝統的な詩のことを意味し、唐詩は漢詩であり、唐の時代に作られた詩のことである.

好きな詩人(有名な詩人と同じことになる)を羅列すると、陶淵明、杜甫、李白、王維、孟浩念、白居易である. 陶淵明と言えば「歳月 人を待たず、、、」が頭に浮かぶが、私は帰去来の辞 「帰りなんいざ 田園まさに荒れんとす、、、」が好きだ. 杜甫と言えば唐の文学を代表する詩人と言われている. 代表的な作品に「国破れて山河在り、城春にして草木深し、、、」がある.

好きな詩を列挙するれば尽きないが、何といっても好きな詩の一、二を争う王維の詩を挙げて今回は終わることにする.

「西のかた陽関ヨウカン を出 ずれば故人コジン 無からん」
         元二ゲンニ の安西アンセイ に使ツカイするを送る    王維


好きな漢詩のなかでも特に好きな詩である. これも高校時代に覚えた詩で、故人とは亡くなった人のことではなく友人のことだと分かって不思議に思ったのを未だ覚えている.


[送元二使安西]  王維
渭城朝雨軽塵  渭城イジョウ  の朝雨  軽塵ケイジン ウル おす    
客舎青青柳色新 客舎カクシャ 青青セイセイ として柳色リュウショク 新アラ たなり
勧君更尽一杯酒 君に勧スス む 更サラ に尽 くせ 一杯の酒
西出陽関無故人 西のかた 陽関ヨウカン を出ずれば故人コジン 無からん


無意根小屋 石狩岳
札幌郊外 無意根小屋 1958.1 石狩岳 1959.2


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16.盛者必衰の理 2010.08.13

桜並木
 散歩道の桜並木     2010.07.10

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

先日桜並木の散歩道を歩いていたら、上の言葉が出てきた. 知る人とぞ知る「平家物語」の冒頭部分である. 高校生の頃は一生懸命に暗記した覚えがある.

なにも大袈裟に盛者必衰と言う事ではないのだが、太い幹についた葉が重なって路上に陰を作っている桜並木の小道が急に影のない道になると知ってふと思い出した言葉なのである.

50年余りの長きに渡り地域の住人に憩いの場を与えて来た大木も齢には勝てず、台風来襲せば倒木の危険有りと判断されついに伐採されることになった.

悠々と世相を眺めて来たこれらの大木もついに寿命が尽きることから、意味は全く違うが盛者必衰の理をふと思い出したのだ.

さて、いつまで酷暑や大雨の季が続くかと異常気象を憂いている内に時は過ぎもう8月も半ばになる. 今夏は是非憧れのオ−ストリアのインスブルック(Innsbruck)やザンクト・アントン(St.Anton)などの
チロル地方へ行きたいと考えていたが、サッカ−のワ−ルドカップTV観戦に現を抜かしていたらもう行くには季節的には遅いのではと心配になり、急遽旅の手配を始めた.

余談だが、大学を卒業して工作機械の製造、販売会社に入社した翌年の1963年にアメリカのデトロイト市(Detroit)で開催された工作機械見本市に参加の為出張した. 丁度その頃アメリカの代表的な工作機械メ−カ−から日本で合弁会社を作らないかという申し込みがあった. 日本からの指示でこのメ−カ−を上司と訪問することになり、私が直接そのメ−カ−の社長に電話して面会の約束を貰った. 電話でパイロニアン ハウスというホテルを予約したと聞いた.

メ−カ−の所在地のミルウオ−キ−まで飛びタクシ−の運転手にパイロニアン ハウスと言ったがそんなホテルは無いと言われた. 最終的にはパイロニアンならぬタイロニアンと判明した.Tyrolean Houseのことで電話ではPとTの発音の違いが分らなかった. チロル、チロルと想っている今ならTyroleanと聞けば簡単にチロリアン(チロルの)と理解したのにとつくづく思う.

机の前のPCに向いっ放しになり航空機、ホテル、ユ−レイルパスの予約をしたり、ドイツ鉄道やオ−ストリア鉄道の時間表を見たりで全てPCで出来るのがとても楽で助かった. 欧州鉄道乗り放題のパスがあるが、私はドイツとオ−ストリアでしか鉄道に乗らないので近接する2カ国用のユ−レイルセレクトパスを購入した.

先ずドイツのミュンヘンへ直行便で飛びミュンヘンに1泊.  翌日はミュンヘン(Muenchen)から鉄道で南下し国境を越えてオ−ストリア(Austria)のインスブルック(Innsbruck)へ向かう. そこに連泊して、インスブルック(Innsbruck)は勿論、ザンクト・アントン(St.Anton)、ザルツブルグ(Salzburg)やドイツのガルミユッシュ−パルテンキルヘン(Garmisch-Partenkircen)にも足を伸ばしたいと思っている.  インスブルックに到着すれば後はその日の気分で行き先を決めて歩き回りたい.

ガルミユッシュ−パルテンキルヘン(Garmisch-Partenkircen)はドイツの南部にある観光地であるが、1936年の冬季オリンピック開催地であり、アルペンスキ−愛好家には良く知られている.

インスブルック(Innsbruck)では1964年と1976年の2回冬季オリンピックが開催された.   St.Antonと並んでスキ-ヤ−のメッカと言えよう.  ザンクト・アントン(St.Anton)はアルペンスキ−発祥の地と言われ、1907年Johannes Schneiderによってスキ−学校が設立されシュテムなどの技術が体系化された.

チロルと言えば、あの有名な アントン("トニ-”)ザイラ−( Anton["Toni"]Sailer ) を忘れる事は出来ない.  彼はチロル州キッツビュ−ル(Kitzbuehel)出身.  1956年イタリ−のコルチナ ダンペッツオ 冬季オリンピックでアルペンスキ− 回転、大回転、滑降 競技で金メダルを取り三冠王となった.  因みに同じ大会で日本の猪谷千春選手が回転で銀メダルを獲得した. ザイラ−は日本でも幾つものスキ−コ−スを設計した.





桜並木由来
相模が丘 桜並木


伐倒実施案内
     伐倒実施の案内   2010.07




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