続 海外あれこれ とか スキ−とか |
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No 1 2002/12/13 |
No 2 2002/12/22 |
No 3 2003/01/01 |
No 4 2003/01/14 |
No 5 2003/01/25 |
No 6 2003/02/11 |
No 7 2003/02/22 |
No 8 2003/03/05 |
No 9 2003/03/16 |
No10 2003/04/07 |
No11 2003/04/21 |
No12 2003/05/09 |
No13 2003/05/24 |
NO 1. キックタ−ン,斜滑降,ボ−ゲン 2002/12/13 スキ−をする人なら、上記は何を意味するかは分かる.だがこのキックタ−ン,斜滑降、ボ−ゲンを確実に出来る人はスキ−ヤ−の何%いるだろうか? 今はスキ−リフトやゴンドラがいたる所に設置され、滑ると言えばゲレンデでのスキ−が一般的である. つまり良く整備された雪面上を滑るので余り苦労しなくても曲がれるし滑り下りることが出来る. 斜滑降、ボ−ゲンをやる人を見かけても、まともにキックタ−ンをしてる人は少ない. 然し上記の三つが完璧に出来れば、どんな急斜面でも、深雪でも確実に転ばないで下りる事が出来る. キックタ−ンの仕方にもいろいろある. 谷側に向かってスキ−の方向を180度回すのが一般的である. しかしこの方法は、角度が30度以上もある急斜面では、万一転んだ時身体が空を向いて(上向き)いるので雪面の確保が出来ず、非常に怖い思いをする.斜面が凍っていて、転ぶと止まらないような雪面では特に恐怖感をもたらす. そのような時確実にキックタ−ンが出来れば安心して滑ることが出来る. 今は山スキ−や冬山登山の愛好者しかスキ−を履いたままで斜面を登る人はいないかも知れない. 稲妻状に登るが、この場合の方向転換には山回りのキックタ−ンがポピュラ−である. つまり山側に向かってスキ−の方向を180度回すわけだが、転んでも山を向いている(下向)ので身体の確保がしやすく、谷を見ないので恐怖感も瞬時忘れる. 更に,一段高い斜面にスキ−を置くので高度が稼げる. 何十回、何百回と繰り返すので、キックタ−ン毎に高度が稼げて馬鹿に出来ない. 重い荷物を背負って深い雪の斜面を滑り下りるのは相当な技術が要求される. スピ−ドが出ている時に急なタ−ンをすると、身体は曲がるが荷物は慣性があり曲がらない. 転べば雪が深く簡単には起き上がれず、体力をいたずらに消耗し危険である. ボ−ゲンでゆっくりと曲がるのも安全策として大切である. それ以上に大切なのは、どんな所でも絶対に転ばないで滑り下りることである. それは体力を温存し怪我や遭難を防ぐことに繋がる. 斜滑降とキックタ−ン、斜滑降とボ−ゲンの組合せでどんな斜面でも転ばないで下りることが出来る. 簡単なようだが、キチンと練習していないと出来ない技術である. 最近はスイスなどの高い山で滑る機会があるが、年齢的にも体力的にも派手なスキ−は出来ない. また転ばないで怪我しないように下りるには、場所によっては斜滑降、キックタ−ン、ボ−ゲンが随分役に立っている. 昔習った技術に感謝する昨今である. |
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Kleine Scheidegg、スイス | Kleine Scheidegg (近傍)、スイス |
NO 2. 初めての海外スキ− 2002/12/22 1964年12月初旬,入社3年目の年に会社としては初めての駐在員としてアメリカ経由でスウエ−デンはストックホルムに赴任した. 今は懐かしいと思う苦労は嫌というほど経験した. その話は別の機会に譲るとして、右も東も分からぬ、知人も数人しかいない街で最初にしたことは、NKというデパ−トでスキ−とストック、靴を購入することだった. スキ−は日本でも気に入っていたKästle(ケスレ−),ストックは地方名だが日本では工具メ-カ名で有名なSandvik(サンドビック)製を買った. 然し予想に反してストックホルム市内には日本でいうようなスキ−場は無かった(後日市内でTバ−が1本あるスキ−場らしきところへは行ったが). 仕事は赴任早々から忙しかったがクリスマスから年末にかけては余りする事もなかったので、一人でスキ−に出かけようと考えた. 立派なスキ−場は国内にはそれほど無さそうだった.秘書に友人がホテルに勤めているというスキ−場を教えて貰いそこへ行くことにした. Sälen(セ−レン)といいストックホルムの北方、ノルウエイの国境近くに位置している、 凡そ北緯61度、東経13度近辺にあるスキ−場でかなりの人が知っていた. 今の日本のスキ−場は人が多すぎることを除けば随分設備が整っているし、アフタ−スキ−も楽しめる. しかし、30年以上も前だが、一人の田舎から出てきたような若者が滑る事一筋を念頭に乗込んだものだから、現地では勝手が違いカルチャ−ショックを受けた. 先ずスキ−場とは言えTバ−が1本しかない小高い丘という感じで、滑っている人も少なかった. 近くには私が泊まっているホテルしか建物がなく、昼食はそこで食べるしかなかった. 夜明けは遅く、午後3時頃には暗くなって来た.また非常に寒かった. 宿泊客は少なくとも1週間は泊まっていた.1日3食全て泊まっているホテルで摂るが、食事のテ−ブルは決まっていて毎回同じテ−ブルについた. 確か4人だったがホテルの考えで皆一人で来ているエンジニアが配列されていた. ナプキンは毎回食事の後に自分の名がある棚に仕舞い次回も同じものを使用した. 昼食はスキ−服とスキ−靴着用でOKだが、夕食はネクタイとス−ツを着用した. 毎日昼食は私にとっては見た事も無い豪華なヴァイキング(Smörgåsbord,スメルゴスボ-ド )だった. 夜は食事のあと同じテ−ブルのエンジニア達と街へ遊びに出かけたり、ホテルの温水プ−ルの側でJenka(エンカ)という、縦に長く繋がって躍り回るダンスに興じたりした. その後休暇でスイスやオ−ストリアにスキ−に行ったが、いつも一人旅だったのでSälen(セ−レン)の時のように皆と興じたことは無かった. 北欧ではノルウエ−は別かも知れないが、スラロ−ムより歩くスキ−の方が手軽に楽しめるようだ. 私が住んでいた所の近くに森と沢山の湖があった. 森の中の小道には、頭上に道に沿って色付の豆電球があった.それは悪天候の時自分のコ−スを教えてくれた.5km、10km、15km等のコ−スがあり、休日には多くの市民が弁当を背負って歩き且つ滑っていた. もっとこの歩くスキ−を経験しておけば良かったと悔やんでいる. |
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GALA湯沢 |
NO 3. MOËT et CHANDON Dom Pérignon
2003/01/01 (モエ エ シャンドン ドム ペリニヨン) 今まで何十回となく正月を迎えたけれど外で迎えたのは数回しかない.一度はオ−ストリアのSt.Anton(ザンクト アントン、サン アントン)であった. 随分昔のことだがストックホルムからスウエ−デン人グル−プのチャ−タ−機でドイツのMünchen(ミュンへン)へ飛びそこからオ−ストリアのSt.Antonまでバスで行った. 昔のことで殆ど覚えてないが、長い距離を乗ったゴンドラから降りて遥か遠くの街までシュプ−ルのない純白の新雪を歓声をあげながら滑ったことだけは鮮明に記憶している. 数年前の暮れから正月にかけて北海道の富良野へ行った.その時は大好物のシャンパンを背負って行った.シャンパンを飲みつつ年を越すのが慣しだった.色々な銘柄の中で特にMOËT et CHANDONが好きだ. ワ−ルドカップ富良野の女子回転コ−スに挑んでみたが瘤が凄くて転ばずに下りることなどとても出来なかった. 2000年だったか正月ではなく春3月に大学時代からの友人と二人でニセコにスキ−に行った.学生の頃は何度となく通ったが、暫くぶりに行ってみるとその様変わりに本当に驚いた. 当時はリフトもゴンドラも無く麓の青山温泉不老閣という温泉宿に泊まり毎日グル−プ毎に一山ずつ(ニセコアンヌプリ、イワオヌプリ、チセヌプリ、ワイスホルン等)一日ががりで登り且つ滑り下りた. 晴れた日には遠く岩内の先に日本海が見えた.ニセコの山々は麓まで木々がない.そこにいると写真等でしか分からないアルプスの山々とはこんな感じかと想像をした.正に周りに何も無い白銀の世界だった.そして必ずや本場スイスで滑ろうと望を抱いた. 時が過ぎるとともに希望が少しずつ叶えられて来た.昨年は念願のスイスのGrindelwaldでアイガ−北壁に圧倒されながら滑る事が出来た.この場所は大学の亡き恩師が口癖に賞賛した所である.だから同級生は殆どが行かずとも知っている. 何才まで滑れるか分からないが、身体を鍛えて体力のある限り念願の海外スキ−を楽しみ続けたい. 新年を迎えてあらためて強くおもうのである. |
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NO 4. Zermatt(ツエルマット)と St.Moritz(サンモリッツ) 2003/01/14 近々スイスのツエルマットにスキ−行きたいと思っている. 30年以上も昔の話だが一人でツエルマット(3月頃)とサンモリッツ(5月頃)に行ったことがある. 当時は仕事で欧州諸国へストックホルムから毎月出張していた. ただ一人の海外駐在員で周りには日本人も数名しかいなく、孤独感と仕事の不安感の中で困難な日々を送っていた. そのような環境に負けるなと自分を励ます思いで夢見ていたのはアルプスの白銀の世界で滑ることだった. 多忙の為なかなか実現出来なかったが、スウエ−デンから他国へ出張の折は常にスキ−靴とウエアをス−ツケ−スに入れていた. 英国に行った時、幸運にも仕事が早く片ずき数日間時間が出来たのでチュ−リッヒ(Zürich)へ飛んだ. ガイドブックも読まず何の予備知識もなく中央駅の案内所でベストなスキ−場を尋ねたらそれがツエルマットだった. すぐ汽車に乗りツエルマットに向かった. 借りたスキ−はHeadのメタルスキ−だった. その頃日本では材料がヒッコリ−の合板が主流だったので是非メタル製を試して見たかった. 休暇というほど長期滞在も出来なかったのでひたすら滑った. 登山電車でGornergrat頂上駅へ着くと正面にMatterhorn,後方遠くにMonte Rosaが見えた.山小屋でのんびり昼休みをしているスキ−ヤ−を横目に、霞んでいるZermattの街まで一気に滑り降り、登山電車に又乗っては滑り降りた. それでも1日2回が限度で、2回目は誰もいなくなり後ろをパトロ−ルの人達に追われるように滑った. Zermattの街を見下ろすように周りを高い山々が取り囲んでいる. 朝起きると窓の外は曇りの感じだが、窓から首を出して空を見上げると快晴だった. St.Moritzへ行ったのもやはり英国の帰路だった. ホテルの予約をチュ−リッヒ中央駅の案内所でしたのは覚えているが、どうやって辿りついたか全然記憶にない. 滑る所も5月ゆえ限定されていて、ホテルに頼んで車で送って貰った. 雪質はひどいザラメで、革製の靴が鞣めされるのではないかと心配するほどだった. 然し春(初夏?)の陽気の中で滑るのもまた快適であった. 昨年滑ったGrindelwaldは3月だったので、真冬のスイスで滑った経験がなく、今回は是非厳冬の中で滑ってみたい. |
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Piz Gloria 2971 m |
NO 5. James Bond、Her majesty's 007 (女王陛下の007) 2003/01/25
昨年の3月初め憧れのスイスのGrindelwaldにやっと滑りに行った. 大学の恩師から聞いていたこともあって、会社勤めを始めた頃に新田次郎著「アルプスの谷 アルプルスの村」を購入した. もう内容は覚えていないが恐らくGrindelwaldも書いてあったに違いない. その時から滑ってみたい場所の第一候補となった. Grindelwaldといえばアイガ−北壁登攀のベ−スとして有名である.行く事を決めて図書館の倉庫に入っていた新田次郎著「アイガ−北壁」を読んだ. 想像したのは聳え立つアイガ−(Eiger 3970 m)に繋がる平原の外れにGrindelwaldの町があって、そこから町の人や観光客が望遠鏡で北壁にへばりついているクライマ-を見守っているという状況である. 実際は想像と全く違っていた. Grindelwaldはあまりにも山に近かった. 大きく角度をつけて見上げないと頂上近くは見えなかった. すぐ側に文字通りそそり立っている氷と岩の山を見上げるのは圧巻であり圧倒された. Schilthorn(シルトホルン、2971 m)の頂上にジェ−ムス ボンドの映画「女王陛下の007」に出てくる360度回転するレストラン Piz Gloria(ここをクリックすると写真へ))があるということで、現地で一緒になったご夫妻と若いガイドの4人で出かけた.何せ下りは難コ−スの連続なのと、雪に降られて方角も分からず、ガイドを頼んだのは正解だった. Grindelwaldから登山電車、バス、ゴンドラ(3回)を乗り継いでレストランに辿りついた.生憎の雪で何も見えず残念であった.途中2台目のゴンドラの高度計が一気に1000 mも変化するのを見て下りは大変だと覚悟を決めた. 滑り下るコ−スは写真の左側しかなく急勾配で難しそうだった. 然し, この時ばかりは幸いにと言うべきか雪で周りが良く見えなかったので恐怖感も和らぎ、急勾配も雪が柔らかく転んでも途中で止った. 結果的には麓の駅まで長い滑降を楽しめた. 3月始めで気候も暖かく、頂上付近を除きノンビリ滑れて大変楽しかった. |
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Matterhorn in February 4478 m |
NO 6. 懐かしのツエルマット( Zermatt )
2003/02/11 先週スイスのツエルマットへ行って来た. 前回行ったのは1965年5月だったので本当に懐かしかった. 当然ながら町やスキ−場は随分様変わりしたようにも思ったが記憶も薄弱なのでどう変わったかは定かではない. 昨年行ったGrindelwaldにはアイガ−が聳えているが、当地では仰ぎ見ればマッタ−ホルン( Matterhorn,4478 m)がある. 写真で見るのは殆ど晴天のマッタ−ホルンばかりだが、上の写真のように鋭い刃先のような頂上付近の岩が雲を切り裂いているのを飽かず眺めるのは楽しい. ツエルマットの街中はガソリン、デイ−ゼルエンジン車の運行は禁止されている. 但し馬力の必要なゴミ収集車は例外である. よって交通手段は電気自動車、馬車、テクシ−(徒歩)である. 排気ガスも出ないし、静かなのは結構だが音が聞こえないので、次から次と来る電気自動車は慣れないと避けるのが難しい. 今冬は寒いそうだが、宿泊先のホテルの玄関にある温度計は昼頃で−5℃、夕方で−8℃位で思ったより寒くなかった. 但し山の上は別である. 次回以降に具体的に書くが、Klein Matterhorn(クライン マッタ−ホルン 3885 m)にゴンドラを乗り継いで上がった時は午前11時頃で−28℃だった. それでも心底寒いとは感じなかった. でも写真を撮ろうと片手だけ手袋を数分脱いだら、たちまち痛くなって来た. 3885 m と言えば富士山より高い. 寒さより酸素不足で高山病にかからないかと心配した. 街の薬局で買った高山病対策用の飴をなめたせいか(?)頭痛はなかったが、ふらふらと目眩がして息苦しくなった. スキ−から戻り町を散歩していたら、教会の側の墓にピッケルが立て掛けてあるのを見かけた. NEW YORK の人で On Breitohorn (4164 m) とありI chose to climb と刻んであった. 次回から数回に分けてツエルマットを取巻く山々でのスキ−について書いてみたい. |
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Gondola Station on Kl.Matterhorn 3820 m |
NO 7. Klein Matterhorn 3885 m 2003/02/22 上の写真(写真が不鮮明で恐縮だが)はゴンドラを乗り継いで上がったKlein Matterhorn 頂上駅である. Zermattを取り囲むアルプスの山々の内で今回上がれた最高高度がKlein Matterhorn(クライン マッタ−ホルン、3885 m)の展望台(3880 m)だった. 頂上駅は3820 mにあり、そこからエレベ−タで展望台に行くのだが風が強く展望台の最後の階段が閉鎖されていた. だから山頂の3885 mまで上がれず3880 mが経験した最高高度となった. 富士山(3776 m)がこれまで経験した一番高い所だったがゴンドラのお陰であっという間に記録を更新した. 高山病にならないか心配だった. 前日ガイド役の方から高山病対策のトロ−チ錠があると聞き薬局で購入した. それをなめていたからか頭痛などは無かったが、酸素不足なのか息切れしフラフラとなった. この山を越えてイタリ−側の Cervinia(チェルビニア)へ行く事が出来るが、滞在中は天候不順で残念ながら行けなかった. 風が強く気温は−28℃だったが, 短い時間しか居なかったので余り寒いとは感じなかった. 然し写真を撮る為に手袋を脱いだ右手はすぐ痺れてきたので寒さのせいかと驚いた. 強風のためゴンドラでTrockener Steg(トロッケナ- シュテ-グ, 2939 m )まで下り、そこからツエルマットの町(1620 m)へ滑り下りた. それでも約3000 mから1620 mまで長い距離を滑るのは大変楽しかった. ただ3000m付近では、スキ−が全然滑らなかった. 多分寒さのためスキ−下面と雪面の間に潤滑剤が造成されないのだろう 実際はTrockener Stegのレストランで昼食を摂り、Furgg(フルグ、2432 m)まで滑り、そこからキャビン(4〜6人乗り)でSchwarzsee(シュバルツゼ−,2583 m)へ上がる. あとは一気に下り林道を経て町まで滑り無料電気バスに乗って宿へ戻ると時間はもう16時頃で、朝9時前に宿を出てほぼ1日かかった. |
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A view from Rothorn 3103m (1) | A view from Rothorn 3103m (2) |
NO 8. Alpen-Metro, Rothorn 3103m
2003/03/05 相変わらず写真が不鮮明で恐縮だが、上の画像はZermatt(ツエルマット)滞在中には悪天候で駄目でやっと帰国日に上がった Rothorn (3103m) から見た山並みである. スウエ−デン国旗らしきものが見えるが何故掲げられているのかは分からない. Zermatt駅から徒歩で(勿論電気バスもある)10分位の所にAlpen-Metro、SUNNEGGA Express駅がある. つまり地下の高速ケ−ブルカ−であるが、ほんの数分で一気にSunnegga(スネガ 2288m)まで上がる. 数年前に、確かオ−ストリアだったと思うが、このような地下式というかトンネル内を走るケ−ブルカ−の火災事故があった.仮に似たような事故が起きたら上方に逃げるか、下方に逃げるか、どうしようと一瞬考えた. 答えは下方か? やっとZermattを去る日に晴天になったが、2日目以後は天候不良だったのでこのル−トの頂点 Rothorn 3103m から滑り下りることは出来なかった. ル−トとしては、Sunneggaまで高速ケ−ブルカ−で上がり、そこから4〜6人乗りのキャビンで Blauherd 2571mへ上がる.ここからは2日(2回)ほど下のケ−ブルカ−乗場駅まで(つまり町まで)雪の中を滑り下った. 途中上級者コ−スも通ったが下るにつれ林道も滑り最後は民家の軒先で終了となる大変楽しいスキ−だった. 晴れていれば Blauherd 2571m から100人乗り(らしい)のゴンドラで Rothorn 3103m へ上がり、下の町まで滑り下りる. Rothorn とスキ−マップに書いてあるが、近くにOberrothorn 3415m があり、正確にはUnterrothornと呼ぶようだ. |
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A distant view of Matterhorn 4478 m |
NO 9. Gornergrat 3089 m & E.Whymper 2003/03/16 ツエルマット駅前から出ているアプト式ラックレ−ル登山電車に乗ると約40分ほどでGornergrat(ゴルネルグラ−ト,3089 m)に着く. 驚いたことに車内では、英語、ドイツ語、フランス語の後に日本語で停車駅のアナウンスがある. まるで日本で電車に乗っている感じだ. 天候が良く、風が弱ければここからStockhorn (3405 m)までゴンドラで行ける. Gornergratから町までの下りは天候が良ければ、急傾斜も殆どなく楽しいコ−スである. 一度、降雪のため終点の一駅手前で降ろされ(Rotenboden、2815 m)、 なおかつ途中のRiffelberg(2582 m)で雪崩処理の為1時間位待たされた事があった. そこからの下りでは危険回避の為にあるトンネル内を滑った. 蛍光灯の下で滑ったのは初めての経験だった. トンネルを出ると雪崩防御のためにある庇の下を滑ったが風が強く、庇の上の雪が横殴りに飛んで来るので、涙がメガネに凍り付いて前が良く見えず大変だった. しかしそこを過ぎてFuriを経て町へ下るコ−スは危険な場所も無く楽しかった. 一般にはツエルマットと言えばマッタ−ホルン(4478 m)を思い浮べる. マッタ−ホルンと言えば北東から見る姿が代表的だ(ここをクリック). 然し当然場所、角度によって見える姿、形は異なる. GornergratやKlein Matterhornなどから見るのは普段見慣れていない南東からの姿である(ここをクリック) マッタ−ホルン登攀を長らく夢見ていた男がいた. 1865年7月14日13時40分、ついに初登攀に成功したが下りで7人のパ−テイの内4人が転落するという悲劇的な事故に巻き込まれた. 最後はフランスのシャモニ−で客死した. 知る人ぞ知る英国人Edward Whymper (1840〜1911)である. マッタ−ホルン登攀については彼の名著「Scrambles amongst the Alps (アルプス登攀記、浦松佐美太郎訳)」に詳しく書いてある. |
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A View of Matterhorn (4478 m) from Theodulpass |
NO 10. 「Scrambles Amongst The Alps] 2003/04/07 前項に一寸書いたが ウインパ−(Edward Whymper)と言えばマッタ−ホルン初登攀に成功したアルピニストとして世界的に知られている. Whymper 著「 Scrambles Amongst The Alps」では彼のマッタ−ホルン初登攀までの6年間に渡るアルプス登山記録が物語られている.日本語訳には、例えば、「アルプス登攀記、浦松佐美太郎訳、岩波文庫」がある. 訳者の浦松佐美太郎によれば、 [ウインパ−は1840年4月27日にロンドンで生まれ、 1911年9月16日にフランスのシャモニ−で客死した. 彼は11人兄弟姉妹の二男で水彩画家を父として生まれ、職業は挿絵画家であった. 彼の挿絵画家としての仕事が機縁となって山への情熱を持つようになった. 1860年イギリス山岳会が会員の登山紀行集[嶺(Peaks),峠(Passes)氷河(and Glaciers)]の第2集を編集することになり、それに入れる挿絵の仕事をウインパ−に依頼した. 21才の彼は写生帳と鉛筆を携え初めてのアルプスへの旅に出発した. この時の旅行が彼の生涯に全く新しい方向を与えることになった. 彼がロンドンに帰って来た時、すっかり山の魅力に取付かれてしまっていた]. 本著によればウインパ−はマッタ−ホルン初登攀までに実に7回の登攀を企てていた. 1865年7月13日午前5時半に彼を含む一行8名(最初は)はツエルマットを出発した. 初日はゆっくり登り、岩棚を伝いながら東壁へ出た. 12時半にはテントを張るのに都合の良い場所がみつかった.二名が偵察に行き残りはテントを設営した後のんびり過ごした. 14日の朝、夜明け前に登攀を開始したが人夫の一人をツエルマットへ帰した(これでメンバは7人となった). 東壁、北東山稜を経てついに午後1時40分頂上に立った 彼は7月11日にイタリ−側を出発したイタリア人一行が何処にいるか、もう登攀したのか気懸かりだったので、頂上につくやすぐに下方を見たら遥か下の山稜の上に小さく点々として見えた.イタリ−人達は引き返して行った. しかし輝かしい成功に喜ぶのも束の間、帰路4人が転落すると言う悲劇に見舞われてしまった. ツエルマットの町から遠くマッタ−ホルンの白く輝く姿を眺めると、ウインパ−ならずとも、知らず知らず山に引き込まれるような気分がする. |
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Ski run in the forest |
NO11. 林間コース 2003/04/21 相変わらず写真が不鮮明で申訳ない. 今回もZermatt(ツエルマット)のことです. 傾斜の厳しいコ−スを滑るのも緊張感があり悪くはないが、なんと言っても、年齢のせいか、森の中の林間コ−ス程楽しいコ−スはない. 日本と他国(例えばスイス)のスキ−場ではコ−スの広さやスキ−ヤ−の数など違いはいろいろあり単純には比較出来ないが、コ−スの長さと整備の良さには日本のスキ−場はスイスには太刀打ち出来ないと思う. 難コ−ス(上級コ−ス)でも良く整備されている. 季節的に降雪が多い2月だったので雪面は柔らかく、それにしては整備が良くて瘤が殆どなかった. アイスバ−ンもなくて転んでも滑り落ちる心配が無かった. アイスバ−ンが好きな人もいるだろうが、氷状の雪面を滑る時のガリガリという音や、急に曲がるとエッジを取られて倒しになる心配があるなど、私は大嫌いだ. 3000 m以上高い山から遥か彼方の町まで滑り降りる楽しさは筆舌に尽くしがたい. 高地では尾根を滑る時は風に飛ばされないようにとか、転ぶと起きるのが大変なので転ばないようにとか、下りる算段が脳裏にあり結構緊張を強いられるが、下るにつれて森の中のコ−スに来ると気分は一転しハイキング気分になる. ゆっくりと景色を眺めながら下って行くとハイキング道に合流し、歩いて登って来る人達とすれ違う. ぶっつからないように速度を落とし、やあやあと挨拶しながら遠く家々(別荘?)の軒並みを見やりながら下る. 道は次第に狭くなりスピ−ドを落すにはボ−ゲンが有効である. かなりの距離をボ−ゲンで速度をコントロ−ルするには相当の筋力(太ももの)がいる. 山頂からの長いスキ−滑走に終わりを告げるのは民家の軒先である. もう、すぐ下は道路で電気バスが走っている. 石段がありそのまま下るのは危険なので、諦め切れずに、渋々とスキ−を外すと、周りのスキ−ヤ−からその方が少なくともスキ−に傷がつかないよと冷やかされる. 林間コ−スは本当に楽しく緊張して下ったのが嘘みたいだ!!! |
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Playing Hackbrett (?) |
NO12. YODEL (ヨ−デル) 2003/05/09
大分昔(1960年頃)の事だが札幌郊外の無意根山(1464m)の7,8合目あたりに北大の山荘がありスキ−部山班が管理していた(下の写真、今はどうなっているか定かではない). |
北大無意根小屋 |
一年中部員が交代で小屋に行ってたが、ヨーデルの上手な部員がいて彼から歌い方を習ったり、皆で合唱したりした. 然し小さい時から音痴で歌う才能のない我が身には残念ながらとうてい同じように歌うことが出来なかった. ヨルレイヒ−とかヨ−ロ ヨツホッホとか何とも心地よい響きで、自分で歌えれば更に素晴らしいなと思った. そもそもヨーデルはアルプス地方の山中での連絡の為の叫びから発達したというのが今では定説になっているようだ. スイスに行けば何処ででもヨーデルが聞けるかと思っていたが当然そんなことは無く、CDを探すのにも結構苦労した. 今や正調ヨーデルを歌える人が少なくなって来て本場でも困っているようだ. ツエルマットのホテルで夕食前のカクテル アワーに見なれぬ、聞きなれぬ楽器の演奏があった. 帰国してから調べてみたが、定かではないがどうもドイツ語で Hackbrett (ハックブレット)と呼ばれている打弦楽器の一種らしい( 下の写真). |
ハックブレットはドイツやチロル地方でチロル音楽の伴奏に使用されているという説明もあるが、日本語ではシロホンとかツインバロンと呼ばれているようだ. 私はスイスではヨ−デルの伴奏にも使われているのではないかと勝手に憶測している. 一般にはHammer Dulcimerと呼ばれ、台形の箱に張られた弦を2本のばちで叩き演奏する打弦楽器でピアノの原型と言われている. Dulcimerは英語だが語源はラテン語で「美しい音色」という意味である. 未知の物は数多くあるが、旅の楽しみはスキ−に限らず面白い発見が有るからだ. |
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駅前広場(ツエルマット) |
NO13. 自然保護の町ツエルマット 2003/05/24 相変らず写真が不鮮明で申訳なし(大きい写真を小さくするからか?). Zermatt(ツエルマット)は自然保護の町である.すぐ下の村Täsch(テッシュ)までは車で入れるが、そこから先ツエルマットの町ではガソリン車の乗入れが禁止されている. 従って町の中では,人力以外の運搬手段は電気を動力とする車か、馬に引かせる橇のみである.ただしかなりの馬力が必要なゴミ集積車は例外で、デイ−ゼルエンジン車を使用している. 駅前広場には電気自動車のタクシ−に混じって馬橇が客を待っている.それにしても、重い荷物を運ぶので動物虐待の声が上がり、又電気自動車よりコスト高で、馬橇は年々減少しているようだ. |
電気自動車 |
上の写真は滞在先のホテルが使用している電気自動車である. 横幅は日本の軽四輪車位だろうか. とにかく小さいので小回りが利き、狭い通路も通れるので便利である. 町はそう広くないが結構坂の上にホテルがあるので、果たして登り切るパワ−があるのかは分からない. 暖房もどうなっているのか尋ねるのを忘れた. 冬は町中では日中でも、マイナス5℃〜マイナス10℃位にはなるだろうが、遠距離走行などないだろうから暖房は不要なのか??? 然し小さいからと言って馬鹿には出来ない. 運転手は慣れているせいか、狭い道でも結構飛ばすし、電気が動力なのでエンジン音が殆ど聞こえないので、後方から来る時には随分怖い思いをした. 昔風の手でゴム袋を押すラッパとか、鈴などを鳴らせば良いのにと言っていたら、時々そのような車に出会った. 日本では同じような自然(環境)保護をしている観光地があるかどうか分からない. もう雪のシ−ズンも終わりました. この項も次のシ−ズン到来まで休みとなります. |