Grow Old along with Me!

新しい頁にようこそ

Grow old along with me!
The best is yet to be,
The last of life for which the first was made,,,,,,,,,,,,,,,,
  Robert Browning
      "Rabbi Ben Ezra"


いっしょに年をとろう
最上のものはまだ先にある.
人生の最後、そのためにこそ最初は
作られた、、、、、、、、、、、、
  
ロバ−ト・ブラウニング  
        「ラビ・ベン・エズラ」 

               
別宮貞徳 訳

[ホームページ]へ戻る 弥生3月 2013.02.24
桜と沈丁花 2013.04.17
タ−ナ− 2013.07.02
4.藪入り 2013.08.23
5.秋きぬと、、、 2013.09.30
6.初滑り 2013.12.30
7.東風吹かば 2014.02.28
8.春眠 2014.05.03
9.寅さん. 2014.07.27
10.三四郎 2014.11.06
11.冬来たりなば 2014.12.21
  12.恵迪寮 2015.02.25
  13.コメンスメント 2015.04.08
  14.小諸なる 2015.07.27
  15.天高く 2015.10.21
16.冬の桜 2016.01.08 
 
 
 
 [徒然なるままに]



1.弥生3月 2013.02.24

羊蹄山
蝦夷富士(羊蹄山、1898m)   2013.01.28  

新年を迎えたと思ったらもう既に2月も半ばを過ぎ間もなく3月が来る. 睦月(むつき、1月)、如月(きさらぎ、2月)、弥生(やよい)、卯月(うつき、4月)、皐月(さつき、5月)などなど1月から12月まで旧暦の呼称を暗記した時が懐かしい. 3月と言えば受験シーズンの総決算の月であり、卒業の月でもある. 卒業式を英語で書けば誰しも Graduation Ceremony と書くだろうが、私は高校で Commencement  が正しいと教わった. つまり卒業は終わりではなく新しい世界への門出ゆえに Commence (始める) から Commencement と書くようになったそうだ. 然しどうも米語のようである.

前にも書いたが、半世紀以上昔、私は国立の北海道大学理類と私立の早稲田大学第一理工学部を受験した. 早稲田の発表が先で自分で合否の発表を見に行った. 幸い合格した. 続いて「オメデトウ クラ−ク」 という電報が来た. 北大にも合格出来たがこの電文が嬉しくて生涯忘れられない. 北大と早稲田のどちらで学ぼうか非常に悩んだ. 結局「Boys be ambitious」 という言葉が醸し出す魅力に憧れ北大への進学を決めた. 然し早稲田も好きな大学であり今でも応援している. 

先日BS放送で、「由紀さおり&安田祥子」 童謡コンサ−トを見た. プロゆえに歌が上手なのは当然としても、それにしても本当に上手に歌うのにはつくづく感心した. 私は音痴なので歌わないが子供の頃学校で習った文部省唱歌の歌詞やもメロデイは殆ど知っている. 私の一番好きな唱歌は「早春賦」である. このメロデイを聞き歌詞を見るとつい気持が50数年前に飛んでしまう. その頃の言葉、4当5落(4時間しか眠らないで勉強すると受験に成功、5時間以上眠ると不合格の意味)が当然だった受験生時代を思い出して、受験一本槍の我が青春を想うのだった. 2番目に好きな唱歌は「故郷(ふるさと)」である. 特に3番の歌詞が好きだ.

    「故郷」    作詞:高野 辰之、作曲:岡野 貞一

    3.志を果たして
      いつの日にか帰らん
      山は青き故郷
      水は清き故郷 

遠い昔この歌を大声で歌った頃は将来何かは分からずとも志を持ち、それを果たすことを考えていたのだろうか? 「Boys be ambitious」 に憧れたのはいつか志を果たすと誓ったからなのか?  我が故郷の両親は亡くなり、田園は福島第一原発の影響で荒れるに任せざるを得ない. そして自分は齢を重ねても何が自分の志なのか、故郷に帰る時が来るのだろうか、未だに答えは無く、ただただこのメロデイを口ずさむのみである.

ここ数年スキ−に行く度に、晴天時は別として曇天や降雪時には雪面が良く見えなくなったり、面前に雪の壁があるように思えて滑るのに苦労した. 昨年1月末、スイスのGrindelwaldへ行った時はこの現象が顕著に出た. それまでは眼の手術だけは嫌というか怖くて逃げ回っていたが、未だ心地よく滑りたいという気持ちが大きく両眼の白内障の手術を受ける決心をした. 昨年7月末に入院して手術を受けたが、何と片目10分もかからなかったのには驚いた. それでも術後の経過観察の為5日間入院した.

先月末に手術の効果を確かめるべく北海道のニセコアンヌプリへ出かけた. 恐る恐る初級コ−スを滑り、中級コ−スを滑り、上級コ−スも滑ったが雪面ははっきり見えて嬉しかった. 転ぶと起き上がるのが大変なので専ら初級コ−スを滑ったが幸い3日間で一度も転ばなかったので自信がついた. ただ太腿が痛くなってきたので、これからトレ−ニングを重ねて来春も滑りに行きたいと思っている. 

先日NHKや他のTV局や新聞等で、世界に先駆けて移動式携帯電話の実用化に貢献したことで、「工学ノ−ベル賞」と言われる、全米アカデミ−の
Charles Stark Draper Prize を授賞した 奥村 善久(金沢工大名誉教授)氏のことが報道されていた. いわゆるセルシステムを考案したそうだ. このニュ−スで15年ほど昔、アメリカ人の友人と話したことを思い出した. その時携帯電話が話題になって、英語ではMobile Phoneと言うのかと尋ねたら彼は「Cellular Phone」が正しいと言った.  その時はああそうか!と単純に思った. 今だったら胸を張ってCellular Phone は日本人が考案したCell System に由来していると言えたのにと残念に思う.




パラダイス ヒユッテ
パラダイスヒュッテ(ニセコ国際スキ−場)   2013.01.28  


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2.桜と沈丁花 2013.04.17

菜の花
菜の花(横浜市 子供の国)   2013.03.26  

菜の花や 月は東に 日は西に 子供の国に桜を見に行ったら菜の花畑に出会った. 暫し見惚れているとこの句が浮かんだ. ただ最近は物忘れがひどくて作者名が思い出せなかった. 帰宅して調べたら 与謝蕪村(1716年〜1784年) だった. 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の一人で、正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたそうだ. 蕪村の名前や数多くの作品を知る人は多いが本名は谷口(又は谷)信章で蕪村は号である. 

そして蕪村という号が、陶淵明(365年〜427年)の詩「帰去来辞」 帰去来兮 (帰りなんいざ) 田園将蕪 (田園まさにあれんとす) 胡不帰  (なんぞ帰らざる)」 から取られていることを知り驚いた. 彼は中国魏晋南北朝時代の文学者であり、郷里の田園に引退後、農作業に従事しながら日常生活に基づいた数多くの詩文を残した. 後世「田園詩人」と呼ばれる由縁である.前に数回書いたが、「陶淵明」と彼が作った「帰去来辞」は私の大好きな詩人とその作品である.

わざわざこどもの国に花見に行ったのは、いつもの散歩道の桜が少なくなったからだ. 樹齢60年以上の約140本の桜の大木の半分以上が老木故に強風で倒木の危険があると近年半分以上が切り倒されてしまい、見事な桜並木を見ることが出来無くなった. でも散歩道は巾4m、長さ1600mの整備された道で100m毎に始点からの距離が表示され、ところどころにベンチが置いてあり気持ちの良い路である. 通れるのは人と犬と猫だけでとても静かだ. 道の両端には色とりどりのの花が咲き、桜も何種類もの若木が、切り倒された跡に植えられ、未だ散りやらぬ花をつけている木もある.

今は「福禄寿、(淡紅色の八重桜)」が満開である. 道の両端に植えられた桜の若木は全て同じ種類と思ったが、枝に括り付けられた説明文を読むと、何と驚くなかれ26種もの桜が植えてあるのだ. とても覚え切れないので、歩きながらメモ書きしたのが以下に続く名前である. 読者の皆さんは何種類位知っていますか?

並んでいる順に書くと、太白(たいはく)、妹背(いもせ)、楊貴妃(ようきひ)、松月(しょうげつ)、花笠(はながさ)、糸括り(いとくくり)、苔清水(こけしみず)、有明(ありあけ)、天の川(あまのがわ)、雨情枝垂れ(うじょうしだれ)、鬱金(うこん)、修善寺寒桜(しゅぜんじかんざくら)、八重紅枝垂れ(やえべにしだれ)、紅枝垂れ(べにしだれ)、小彼岸(こひがん)、寒緋桜(かんひざくら)、啓翁桜(けいおうざくら)、河津桜(かわずざくら)、大漁桜(たいりょうざくら)、十月桜(じゅうがつさくら)、寒桜(かんざくら)、高砂桜(たかさござくら)、陽光(ようこう)、染井吉野(そめいよしの)、福禄寿(ふくろくじゅ)、そして英国生まれのAccolade(ア−コレ−ド)等がある. 全てを見分けられる専門家は大したものだとただ感嘆するばかりだ.

桜の蕾がかなり大きくなった3月も半ば、いつもの散歩道を歩くと馥郁たる香りが漂っている. 沈丁花の香りである. 周りを見回しても見つからない. よくよく探すと他の木々に隠れるように咲いていた. 花に近づいて嗅ぐ香より数メ−トル離れる方が香りが良い気がする. 3月といえば未だ初夏とは言えないが、私は北欧の初夏に匂う沈丁花に似た花を思い出す. 随分昔ストックホルムに住んでいた頃アパ−トの近くにその花が群生していた. 仕事帰りに通るとこの匂いが漂っていた. この匂い、香りは楽しくも辛くもあった駐在員時代を思い出させるのだ. 沈丁花は私には初夏の花である. いつも北欧の初夏を思い出す.

仕事でスウエ−デンの北の小さな村に行き、湖畔の宿に泊まったことがあった. 6月頃だったか? 白夜はもう始まっていて、夜10時、太陽が沈みかける頃に、淡い靄の中に、湖畔の白樺の木々がボンヤリ見えた. とても現世とは思えず、それこそ夢の世界にいると思った. 沈丁花の香りから北欧の初夏を思い、いつもその時の湖畔の風情を思い出す. そして東山魁夷の世界を想う. 毎日彼の北欧の絵が描かれているカレンダ−を眺めている.

先日TVのインタ−ビュ−番組で久しぶりに阿川泰子に会った. 彼女は番組で慕情の主題歌、Love is a many sprendored thing を歌った. 映画「慕情」の出演者、Jennifer Jones や William Holden を懐かしく思い出した. そして阿川と同じジャズ歌手のアンリ 菅野を思い出した. 残念なことにアンリ 菅野は51歳という若さで亡くなった. 少しハスキ−な歌声が好きだった. 昼下がりの散歩道には人影も少なく、止めどもなく物思いに耽りながら歩いているとやがてはかすかに、オ−ドリ−ヘップバ−ン(Audrey Hepburn−Ruston)が歌う ム−ンリバ−(Moon River),映画「テイファニ−で朝食を(Breakfast at Tiffnany's)」の主題歌、が聞こえて来たと思ったのは空耳か!



沈丁花
散歩道の沈丁花   2013.03.21  


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3.タ−ナ− 2013.07.02


タ−ナ−のアトリエ兼住い
2005年8月 撮影
 
タ−ナ−のプレ−ト
2005年8月 撮影

朝と言っても八時過ぎ、季節外れの鶯が鳴いている. ぼんやりと聞きながら今頃鶯は似合わないと思った. メジロも鳴いている. 梅雨なのにそれらしい気配がない. 今日も晴れている.  ひねもす何もせず、怠惰な日々を過ごしている我が身には季節の移ろいを覚える感性には縁がなくなってしまった. 

先日朝日新聞紙上でタ−ナ−展が10月に上野の東京都美術館で開かれることを知った. 前にタ−ナ−の事を書いたことがあったがこの記事を見てそのことを思い出した. 重複するが抜粋すると、 " Joseph M.W.Turner は英国が誇る風景画家である.  私がTurner(タ−ナ−)のことを知ったのは夏目漱石の「坊ちゃん」を昔読んだ時であった. [ 「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘の様に開いてタ−ナ−の画にありそうだね」  と赤シャツが野田に云うと、野田は「全くタ−ナ−ですね.どうもあの曲がり具合ったらありませんね.タ−ナ−そっくりですよ」 と心得顔である. ] ( 坊ちゃん )

四国、愛媛県松山市高浜町の沖、約150メ−トルに浮かぶ高さ18メ−トル、周囲約140メ−トルの小島がある. 名を四十島というが 別名をタ−ナ−島と呼ばれている. 「坊ちゃん」に野田が教頭の赤シャツにタ−ナ−島と呼ぶことを提案し赤シャツが賛成したが坊ちゃんは迷惑な話だと書いてある.

英国最高の風景画家タ−ナ−のアトリエ兼住まいの場所はテムズ河沿いに走る Cheyne Wlk 118番地と分っていたので散歩がてら探しに行った. 簡単に分ると思っていたが118番地が見当たらず大変苦労した. 近所の店や住人に尋ねても分らずやっと探しだした. あの有名な画家を知らないとは!と思った.

色あせたプレ−トに気づかなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうだ. プレ−トは古く不鮮明だが良く見ると、JOSEPH MALLORD WILLIAM TURNER. LANDSCAPEPAINTER(風景画家) B 1775 (出生)、D 1851(死亡)と記入してある."

2005年夏、Londonに行き2週間ほどテムズ河畔に近いチェルシ−(Chelsea)にアパ−トを借りて滞在したことがあった. 毎日散歩を兼ねて有名人のプレ−トを探したり好きなテムズ川のほとりを歩いた. 最近は行かなくなったが、数年前までは頻繁に英国に出かけた. 家かアパ−トを借りて同じところに長く滞在したり、車を借りて国中を巡ったこともあった. 

昔は旅行、特に海外旅行などと聞けば餞別を渡す習慣があったがもう今は無くなったと思う. 餞別と言えば昔読んだ土佐日記を思い出した. 「男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり」 という書き出しは今でも覚えている. この紀貫之作「土佐日記、935年頃の作」は土佐から京に帰る出来事を綴った日記文学で、餞別の由来となる言葉があることも知った. つまり「うまのはなむけ」が餞別となり今日になるまで使用されて来た. 新古今和歌集や伊勢物語などにもこの表現が使われているそうだ.  「土佐日記」を読んでから暫くは「何とか日記」に取り付かれ読み漁った.  例えば、

蜻蛉(かげろう)日記、藤原の道綱の母、975年頃の作」. 女流日記のさきがけとして知られ、源氏物語や多くの文学に影響を与えたとされる.

更級日記、菅原孝標(たかすえ)女、1020年〜1059年」、作者13歳〜52歳までの約40年間のことが記されている. 平安女流日記の代表作に数えられる.

十六夜日記、阿仏尼(藤原為家の側室)、1283年頃の作」. 紀行文日記で主として女性の京都から鎌倉への道中記である.

雲間に顔を出した太陽に誘われるように日課のWalkingへ出かけた. 整備された散歩道の両端には色とりどりの花が咲いている. 歩きながら路傍の花だなと思うと急に山本有三の作品「路傍の石」を想った. そして何の因果関係もないと思うが、志賀直哉「城(き)の崎にて」「小僧の神様」が脳裏に浮かんだ. いずれも私の好きな作品である. 直哉の無駄のない文章は、小説文体の理想の一つと見なされ評価が高い. 上手な文章が書けるようにと直哉の短編小説を
繰り返し繰り返し読んだ.



あじさい
散歩道の紫陽花   2013.07.02  


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4.藪入り 2013.08.23

立石寺芭蕉像
松尾 芭蕉像 (山形県 立石寺)   2009.09.07  

8月も下旬となり盆休みも終わり再び忙しい日々が始まった. 盆と言えば田舎育ちの私は8月と思うが、8月盆は正しくは月遅れ盆となる. 盆と言う言葉から「藪入り」を連想する. もう死語になったと思うが、今風に言えば一時休暇のことである. 住込み奉公をしている丁稚や奉公人が休みを貰い実家へ帰ることが出来る日である. 1月16日と7月16日の年に2回あった. 戦後、労働基準法の強化と日曜日が休日になったことから藪入りは廃れてしまった.

藪入りの話ではないが、私は丁稚や丁稚奉公と聞けば、先にも書いたが志賀直哉作 「小僧の神様」 を思う. 「秤屋で働く小僧の仙吉は寿司を食べてみたいと願っていたが高くて叶わなかった. ふとした機会で小僧の願いを知った貴族院の男が小僧に同情し後日行きつけの店を利用して寿司を奢ってやった」 という話である. 今時こんな悠長なことは多分ないであろう. この文章も今なら上から目線と捉えられるかも知れない. 
私は美談というより当時のゆったりした世相を感じるのである.


やぶ入りの 夢や小豆の 煮るうち 
与謝蕪村

藪入りや 泪先立 人の親
小林一茶

藪入の 田舎の月の 明るさよ
高浜虚子 


今年の梅雨明けは平年より15日早かった. その代りと言えるのか、猛暑が早々と到来した. 然し蝉の鳴き声は直ぐには聞こえずやっと7月26日にアブラ蝉の鳴声が届いた. 今は朝からアブラ蝉とニイニイ蝉の合唱が聞こえて来る.

閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

松尾芭蕉

閑けさや
、、、は誰でも知っている松尾芭蕉の有名な句である. 閑さや とか 静けさや とか 静かさや とか諸説紛々らしい. 山形県の山寺[別称 立石寺(りっしゃくじ)]
で詠まれた句であるが、この句で詠まれた蝉の種類で斉藤茂吉(昭和初期の歌人、山形県出身) と 小宮豊隆(夏目漱石門下、芭蕉研究家) の大論争があった.

斉藤茂吉はアブラ蝉を主張し、小宮豊隆はニイニイ蝉を主張した. 結局ラチがあかず現地調査をした. 句が出来た新暦7月13日にはアブラは鳴いておらずニイニイ蝉の勝利となった.

あたかも連想ゲ−ムの如く蝉といえば先ずあの有名な芭蕉の句を思い浮べる. そして今頃は、立石寺(山寺)にある芭蕉の像や、平泉の金色堂の側に立つ芭蕉像の周りや夏草繁る戦場の跡は、さぞかし蝉の声で賑やかだろうと思いを馳せてしまう.

真夏と言えば、ウイリアム・シェイクスピアの作品に「(真)夏の夜の夢、A Midsummer Night's Dream」がある. 喜劇形式の戯曲として有名だ. (真)夏とは云え、今のような猛暑に喘ぐ夏ではなく、夏至の頃の爽やかな夏の物語である. 暫くは猛暑が続きそうだ. ならばせめてエアコンを効かせた涼しい部屋でこの物語を楽しみつつ夏を過ごそう. 因みに、フェリックス・メンデルスゾ−ンの作品に「真夏の夜の夢」があるが、これはシェイクスピアの作品を基に作られた.
 然し今私はメンデルスゾ−ンの代わりに、オ−ドリ−ヘップバ−ンが歌う ム−ンリバ−「Moon River」,映画「テイファニ−で朝食を」の主題歌、を聴きながらこの文章を書いている. 読書に飽きたら夜の夢ならぬ昼寝でもしよう!



中尊寺 金色堂
岩手県平泉 中尊寺金色堂   2012.10.11  


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5.秋きぬと、、、 2013.09.30

すすき
すすき (箱根   2009.10.20  

天空に輝く中秋の名月(9月19日、今年は更に満月)、そして翌日の十六夜の月を眺め上げる時、虫の鳴き声は賑やかとなり、過ぎし日々の酷暑が嘘だったように思えた. つくづく秋の到来を感じた. 蝉の声も大分弱まったがそれでもアブラゼミなのかニイニイゼミかが鳴いている. 子供の頃ツクツクボ−シの鳴声を聞くと夏休みが終わると思ったものだ. 未だかすかにツクツクボ−シと聞こえて来る.

もう秋かと思えばどうしても次の幾つかの句を想う.

秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる 

藤原敏行(ふじわらの としゆき) 古今和歌集


心なき 身にもあはれは 知られけり
鴫立つ澤の 秋の夕暮

西行法師  新古今和歌集


あかあかと 日はつれなくも 秋の風

松尾芭蕉



秋もはや 其の蜩(ひぐらし)の 命かな

与謝蕪村


名月を とってくれろと 泣く子かな
 

小林一茶 


そして更に秋を想う詩がある. それはフランスの詩人 ポ−ル・ヴエルレ−ヌ(Paul Marie Verlaine) の詩、秋の歌(Chanson d'automne) である. 日本語訳が幾つもあるが私は上田 敏の訳が好きだ. 下に上田 敏と堀口大学の訳詞を併記する


Chanson d'automne
                
Paul Verlaine

Les sanglots longs
Des violons
 De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
 Monotone.



秋の歌  (落葉)

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し

上田 敏 訳(海潮音より)
秋の歌

秋風の
ヴィオロンの
節(ふし)ながき 啜泣き(すすりなき)
もの憂き哀しみに
わが魂を
痛ましむ

堀口大学 訳


上田 敏訳にある 「ひたぶるに 身にしみて うら悲し」 が秋の心を良く表現していて好きだ. 

先日久しぶりに映画 「The Glenn Miller Story, グレンミラ−物語」 を見た. 懐かしいLous Armstrong(ルイ・ア−ムストロング)やGene Krupa(ジ−ン・クル−パ)にもスクリ−ンを通じて会うことが出来た. 映画に流れる音楽も、Moonlight Senade, In the Moon, Little Brown Jug(茶色い小瓶)、Chattanooga Choo Choo, American Patrol などなど知っている曲をあらためて聞いた. 自分は音痴なので歌はないのにグレンミラ−(Alton Glenn Miller)の曲を幾つも知っていることに我ながら驚いている.


ところで北大同窓会、北大工学部同窓会等北大関連の行事では終会も迫る頃必ずと言って良いほど、恵迪寮歌「都ぞ弥生」を斉唱する. あるときこの寮歌のテンポが異状と言えるほど遅いことがあった. 何故かは分からぬまま、古い世代ではスロ−で歌うのかと思っていた. 最近インタ−ネットでその理由が分かる文に遭遇した. 第10回「広島エルム会」で農学部OBの出口廣志氏が講演された「北大寮歌の素晴らしさ」の要旨から一部引用させて頂きます.

都ぞ弥生(M45)−私の頃には1声2音という超スロ−テンポの時代で、5番までの全曲歌い終わるのに25分掛かっていました。「み−や−、こ−ぞ−、や−よ−、い−の−、・・・」このような歌い方がなぜ生まれたかです。戦争も熾烈化し兵員確保のために昭和18年10月文系大学生に学徒出陣令が公布されました。北大は理系大学のため猶予されたのですが、農学部の農業経済学科だけは文系と見なされ出陣令の対象となりました。学友の出陣に怒りを込め抵抗の意思を表すために、わざとゆっくり歩いて札幌駅まで見送ったのでした。一頃、国会で流行っていた牛歩戦術の先駆けであります。
 この歌い方は昭和18年10月に始まり、「もはや戦後ではない」と言われた昭和32年までの戦中戦後の十数年間歌い続けられて来ました。
   

偶然とはいえ長い間の疑問が解明された. 出口廣志氏に感謝いたします.



cosmos
コスモス (昭和記念公園)   2010.10.23  


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6.初滑り 2013.12.30

ニセコ国際スキー場&羊蹄山
ニセコ国際スキー場から羊蹄山を望む   2013.12.09  

そろそろスキ−シ−ズンが始まるが今シ−ズンはどうしようかとボンヤリ考えていた. 昨年は1月末からスイスに住む若い友人夫妻とグリンデルワルト(Grindelwald、スイス)で山荘(Chalet)を借りて1週間合宿した. 彼らは今秋来日した折に、来春も一緒にスイスで滑ろうと誘ってくれた. スイスでのスキ−は昨年で終わりと自分に言い聞かせていたが、誘いを受けて再び行きたくなった.

そもそもスイスやフランス、イタリ−、など(ヨ−ロッパ)アルプスのスキ−を昨年で終わりとしようと思ったのは、高地(3000m位)から滑り下る体力に自信が無くなり、一度転倒すると簡単には起き上がれないだろうという心配、捻挫など怪我をしたら周りに迷惑を掛ける恐れなどなどの懸念を考えたからであった. 勿論、日本からの同行者もいなく、単独で出かけることは家族に大変な心配をかけるので簡単に自分の我儘を通すことは出来ないと考えたからだった.

もう半世紀以上下手の横好きでスキ−を続けている. 一度だけ、数十年前に、オ−ストリアのサンアントン(St.Anton)でスキ−スク−ル入ったが、それ以外は何処のスク−ルにも入らずただただ我流で滑って来た. 思えば、キックタ−ン,ボ−ゲン,シュテムボ−ゲン、シュテムクリスチャニア、クリスチャニア、デラパ−ジュ,ウエ−デルンなど半世紀前に覚えた言葉と技術は今はどうなっているのだろう?  

最近のゲレンデは整備が良くて滑る方向を変えるのにキックタ−ンも必要ないくらいだ. キックタ−ンも幾つかの方法があり一般には谷側(斜面の下方)を向いて,止まった状態でスキ−を持ち上げて回す. 他にはスキ−を付けて山へ登る時は方向を変える時に少しでも高度を稼ぐために山側を見上げるようにしてスキ−を回す方法もある.  もの凄い急勾配の沢を登っている時のキックタ−ンば真下に谷底を見ながら行うので恐怖に震えたこともあった. ボ−ゲンなどは易しいと思うだろうが、腰まで雪に漬かり、背中に重い荷を背負い、 急な沢を滑り下る時など、クリスチャニアが出来なかった自分は滑りながらボ−ゲンで回転するしかなく、 方向転換時身体が谷側を向くとこれまた恐怖で怯えた. 若し転んだら谷底まで落ちるのは間違いなかったから.

学生時代に札幌近郊の無意根山、春香山や更に十勝岳、裏大雪などで深雪スキ−を経験し楽しんだ. 真冬の山に登り頂上から滑るにはとても単独で出来る筈はなく常に数人のグル−プを作り先頭にリ−ダ−最後尾にサブリ−ダ−の順で滑った. 吹雪の時など互いを見失わないように一人一人順に滑り絶対に前を滑る者を追い抜かないことを学んだ.

道標など何もない山の中を地図と磁石だけを頼りにグル−プの全員を無事下山させるリ−ダ−とサブリ−ダ−の力量の素晴らしさに尊敬の念を覚えた. また全員で助け合い、協力するチ−ムワ−クの大切さも学んだ. 私が山岳スキ−を通じて学んだチ−ムワ−クやリ−ダシップはその後の社会人生活に大変役にたった.

来春はどうしようかと考えていると、会社員の息子が帰省して曰く「来春の休暇は無理だが今なら休暇が取れると」.  それなら善は急げと急遽12月上旬に、いつも行く北海道のニセコ町のニセコアンヌプリ国際スキ−場に出かけることにした.  殆ど雪が無く滑れないかも知れないが折角のチャンスなので出かけた.  何とか滑れたが、ゴンドラで登り一基しか動いていないリフトを利用し、下りはゴンドラで下るのが公式な利用方法であった. 中には警告を無視して下まで滑り降りるスキ−ヤ−もいた.  

雪不足で長い距離を滑れなくても、少しだけでも滑れて良かったと思う新シ−ズンの「初滑り」に大満足だった.

帰路に札幌は初めてと云う息子に札幌市内の要所を案内した. 冬のポプラ並木を見せようと母校に行き、そこから大倉山ジャンプ競技場に行った. ジャンプ台のバッケンレコ−ド(ジャンプ台飛距離記録)は男子が伊東大貴選手の146m、女子は高梨沙羅選手の141mと知ってその長さに驚いた. 特に女子の高梨選手の141mは伊東選手とわずか5mしか違わずそれまた驚くばかりだった.

札幌の名物ラ−メンを食べ、ジンギスカン鍋と生ビ−ルに満足し、大通公園を歩き、時計台を眺めた親子二人の「初滑り」の旅だった. また暫くぶりに工学部を訪れ郷愁に駆られた旅となった.

間もなく新年を迎えます. 次回は新年となります. 拙いホ−ムペ−ジを閲覧頂き有り難うございます. 元気な印としてこれからも更新を続けて行きますので宜しくお願いします.

どうぞ良いお年をお迎え下さい.



大倉山ジャンプ競技場
大倉山ジャンプ競技場(札幌市)   2013.12.11  


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7.東風吹かば 2014.2.28

新潟県六日町スキーリゾート
新潟県六日町スキ−リゾ−ト   2014.02.01  

東風吹かば 匂(にほ)いおこせよ 梅の花 
     主(あるじ)なしとて 春を忘るな(春な忘れそ) 
                          菅原道真 拾遺集

菅原道真は平安朝きっての秀才ということで今日では学問の神様と云われている.  受験の合格を願う神頼みにはこの方の右に出る神様はいない. 新年を迎えたと思う間もなく2月になり、立春が過ぎて暦の上ではもう春である. 私は、春と云えば遠い昔の高校、大学の受験生だった頃を思い出してしまう.  当時は受験以外は何も考えずひたすら勉強をしていた.  2月、3月といえばどうしても受験を目前にして最後の足掻きをしていた頃を思い出す.  そして試験勉強が終わり本当に自分の春が来るようにと、毎日のように口ずさんでいた唱歌、「早春賦」が懐かしくなるのである

「春たちける日の歌」として作られた歌に、

袖ひちて むすびし水の  こほれるを
     春立つけふの  風やとくらん   紀 貫之  古今集

がある.  高校生の時から好きな歌で. 春待つ今日この頃になるとつくづくこの歌を想うのだ.  2月には数十年ぶりという大雪が2回降った.  いつもの散歩道には未だ名残の雪が残っている. でも自然は忘れることなく季節感を届けて呉れる. 散歩道の路傍に掻き集められた雪を根元に置き白梅、紅梅、寒桜、河津桜が我が世とばかり咲いている.  今日など4月並みの暖かさで、明日から再び寒くなる予報ではあるが、寒い寒いと言ってた冬も終わりもう春は直ぐそこにある.

大学を卒業し最初に入った会社の同期入社組6人が夫人も参加して年に一度旅行に出て旧交を温めている. 今年は京都に行くことになった. 訪問候補地に「哲学の道」が挙げられている. 私は京都が好きでもう何度も訪れているがその度に「哲学の道」を歩いた. 都ホテルから銀閣寺へ繋がるこの道が好きだ.  いつもの散歩道(遊歩道)では人と犬と猫しか歩かないが、そこを「哲学の道」に準えて「私の思索の道」と呼んでいる.  往復4kmの道をぼんやり歩くと何か思索に励んだような気がするから不思議だ.

京都には一方ならぬ思い入れがある. 高校生の頃湯川秀樹博士の自伝「旅人」を読んだ. 感動して是非京都大学の理学部(理論)物理学科で勉強したいと真面目に考えたことがあった.  後にこの自伝は湯川博士が書いたのではなく、作家の澤野久雄氏が代筆したと云う説があることを知った. 

私は二人の孫娘(中2と小4)とスキ−に行く約束をしていたので、ついでに娘夫婦も一緒に計5人で大雪の前の1月末に新潟県南魚沼市六日町スキ−場へ出かけた.

[ 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。 雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。]

これは有名な川端康成著「雪国」の冒頭の文である. 長いトンネルに入るまでは全く雪はなく、長い清水トンネルを抜けると果たして「雪国」の描写のように雪世界が見えるのかと心がときめいた. 周りが白っぽくなると新幹線はトンネルを抜けていた. そして今までの風景が一変し辺り一面真白な別世界があった. これが雪国だと思うと同時に映画で駒子を演じた岸 恵子を思った.

六日町スキ−場は寒波襲来直前だったので暖かく雪は柔らかく、広いゲレンデ、主に中級者&初心者向けのコ−ス、長い初心者向けの林間コ−スなど私や子供達には絶好のコ−スで十分に楽しむことが出来た.  また唯一のホテルはゲレンデの目前にあり殆ど歩かずともリフトに乗ることが出来とても便利だった. あと何年孫と一緒に滑れるかと思いながら存分にスキ−を楽しんだ.


林間コース
六日町スキ−リゾ−ト 林間コ−ス   2014.02.01  


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8.春眠 2014.5.3

竜安寺
京都 竜安寺   2014.04.21  

もう5月になった. 5月ともなれば夏のはしり(初夏)、朝寝をもう春眠とは表現出来ないだろう. 春眠といえばやはり4月頃がふさわしいと思う. 心地よい春の朝のまどろみから覚めてふと夜来の雨を想う. もう雨は上がって日が射している. 春眠といえば何と言ってもこの詩に尽きる.


春暁  孟浩然

春眠不覺曉   
處處聞啼鳥
夜來風雨聲   
花落知多少
春眠暁(あかつき)を覚えず 
処処(しょしょ)に啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来(やらい)風雨の声 
花落つること知る多少

隣のゴルフ場の木立から今朝も季節外れの鶯の鳴声が聞こえて来る. 春の雨が降ると子供の頃、わけも分からず、「春雨じゃ濡れて行こう」とよく言ったものだ.  行友李風(ゆきともりふう)作の戯曲「月形半平太」の中で主人公が傘を差し掛ける舞妓に言った有名なセリフである. 転じて一般にも小雨の中を傘なしで歩く時に気取った言葉として使われた.

この作品は「国定忠治」と共に新国劇を代表する作品として知られているが子供の頃は何も分からず、どこで覚えたのか「春雨じゃ濡れて行こう」だけが一人歩きしていた. 多分本を読んだか、映画で知ったかだろう.

雨といえば私の好きな、そして思い出す度に感傷に包まれる詩がある.

送元二使安西    
       王維


渭城朝雨潤軽塵 
客舎青青柳色新
勧君更尽一杯酒
西出陽関無故人
元二の安西に使するを送る    
                王維


渭城の朝雨は軽塵を潤(うるお)し
客舎(きゃくしゃ)青青(せいせい)柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関(ようかん)を出(い)づれば故人(こじん)無からん



元二という名の友人が安西都護符(今の新疆ウイグル族自治区・トルファン)へ出張するのを見送った詩である. 渭城は西方へ旅立つ旅人を見送り別れの酒を酌むところだった. 元二の旅立った朝は雨だった. 静かに降る春雨に軽がると舞い上がっていた砂ほこりも雨に湿っておさまった.  

旅館(客舎)の前の柳の並木も雨に洗われて青々と見える(柳は当時別離につきもの植物であり、旅立つ人には柳の一枝を手折ってはなむけにするのが習しであった).  そろそろ出発の時か、でももう一杯飲みなさい. 陽関の先にはこんなに気安く酒の飲める親しい友人(故人)はいないのだから. この詩は唐の時代に広く送別の歌として一般の人に愛唱された. 

以上吉川幸次郎、三好達治共著「新唐詩選」を参照した. 私は 勧君更尽一杯酒 西出陽関無故人 のくだりが大好きである. 


ところで今は薫風香る5月、梅雨には未だ早い. 青空があり風さやかに吹くならば、

Pippa's Song
  Robert Browning

The year's at the spring
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in his heaven--
All's right with the world!
ピパの唄   ロバート ブラウニング  
         平井正穂 編 
        「イギリス名詞選」  

歳はめぐり、春きたり、
日はめぐり、朝きたる.
今、朝の七時、
山辺に真珠の露煌めく.
雲雀、青空を翔け、
蝸牛、棘の上を這う.
神、天にいまし給い、
地にはただ平和!    


春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山
                      持統天皇  万葉集

さみだれに 物おもひをれば 郭公 夜深く鳴きて いづち行くらむ
                      紀 友則  古今和歌集

聞かずとも ここをせにせむ ほととぎす 山田の原の 杉のむらだち
                      西行法師  新古今和歌集 

4月、京都に旅した. 1962年春学校を出て直ぐ工作機械メ−カ−に就職した. その年の同期入社組が毎年1回集まって旧交を温めている. 今年は京都に行こうとなった. 二条城、竜安寺、金閣寺、銀閣寺、平安神宮、知恩院、清水寺など定番の観光をした. 京都は主に櫻の咲く頃に度々訪れているが、札幌と並んで何度でも訪ねたい地である. 
銀閣寺の側にはあの「哲学の道」がある. この道に因んで私の散歩道(遊歩道、片道2km)を「思索の道」と勝手に名付けて毎日往復4kmを思索に耽りながら?歩いている.  巾5mほどの小道は、人と犬と稀に猫しか歩いていない. 

季節になれば満開の桜を見上げながら、また路傍に咲く花を愛でながら歩く. 百花繚乱とまでは言えないが、それでも知っている(又は調べて分かった)花の名を列記すれば、石楠花(しゃくなげ)、大柴つつじ、久留米つつじ、平戸つつじ、三葉つつじ、蓮華つつじ、皐月(さつき)、花海棠、空木(うつぎ)、パンジ−、デイジ−、ハナミズキ、アヤメ、タンポポ、マ−ガレット、レンギョウ、ダッチアイリス、コトネアスタ−(紅紫壇)、スピレア(シモツケ、下野)、などなどある. ライラックも見つけた. 札幌の初夏を懐かしく思い出した. もっと咲いているが名前が分からない. 写真に撮ったのでゆっくり調べよう. 

ふと気が付いたが今春は沈丁花の香りを知らない. 暫く散歩道の一部が工事中だったので回り道して歩いていた. 多分工事中だった路傍に咲いていたのだろうと思う. 近くで嗅ぐより少し離れたところで幽かに漂う沈丁花の香りが大好きなのだ. 香を逃したことを大変残念に思っている.
    

金閣寺
京都 金閣寺   2014.04.21  


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9.寅さん 2014.7.27

寅さんの帽子とトランク
コンクリート製の寅さん愛用の帽子とトランク(寅さん記念館)   2014.07.14  



梅雨も盛りが過ぎたと思っている内に関東地方の梅雨明け宣言が7月22日に出された. 梅雨と言えばしとしとと降る小糠雨に濡れる紫陽花(あじさい)の花を思い浮べる.  然し最近の天候はじめじめする感じは殆ど無くなり大雨、雷が暴れ回る正に真夏の気候となってしまった. 日本全国どこが災害に会うか分からなくなり、台風のシ−ズン到来前に洪水等の水害に襲われるようになってしまった.  梅雨という実感が湧く前に終わってしまった.

学校の夏休みが始まりいよいよ本格的な猛暑がやって来た. 目前のゴルフ場の林から今朝初めて蝉の鳴声が聞こえたら、同時に鶯がホ−ホケキョと鳴いて驚いた. テッペンカケタカと鳴いている鳥もいる.  多分時鳥(ほととぎす)だろうが、特許許可局とも聞こえるそうだ. 鶯は梅の季節と思ったが、今時は決まりに囚われなくなったのか!

先日葛飾柴又にある「寅さん記念館」の招待券を貰った.  大学生の時からの友人を誘って見学に出かけた. 昔はフ−テンの寅さんこと渥美 清主演の映画「男はつらいよ」を見ることはなかった. 或る日何気なくTVのBS放送を見ていたらこの「男はつらいよ」シリ−ズが毎週土曜日に放映されることを知り毎週見るようになった. 未だ続いている. スト−リ−よりも映画に登場するシ−ンに魅せられた.  その時を表す道端の風情、人々の服装、自動車の型式など夫々が懐かしい.  柿が成る木の側を走る田舎のバス、どこまでも続く1本道、山あいに沈む太陽、何気ないワンカットに過ぎし日々の出来事が思い出され、郷愁に駆られた.  寅さんシリ−ズは山田洋次監督が手掛けた名作で日本の豊かな自然とそこに住む人々の温かい心を丹念に描いた作品であるとパンフレットに書いてあるが本当にその通りと思った.

記念館に入り寅さんの実家、団子屋の「くるまや」のセットと模型を見た. 驚いたことに実際には映らない所も丹念に作ってあった. 客が団子を食べる小座敷や、団子を作る(機械で餅を搗く)部屋もある. 更に隣の、通称タコ社長が経営する「朝日印刷所」には本物の活版印刷機もあった. 活字やそれらを拾う道具もあり全く本当の工場のようだ.

あと10作品くらいは放映されるだろうから、その度に映画に出て来る「くるまや」や「朝日印刷所」ても隠れていて分からないシ−ンなどは記念館で見た様子から簡単に想像できるのは楽しいことだ. 近くを流れる江戸川に足を運び、川を渡る「矢切の渡し」を遠望し、ついでに「うなぎ」も食して楽しい1日となった.

今朝の新聞にCDの広告があった. 何気なく見ていたら、イブ・モンタンの「枯葉」、ルイ・ア−ムストロングの「聖者の行進」、パテイ・ペ−ジの「テネシ−・ワルツ」、レイ・チャ−ルズの「我が心のジョ−ジア」、エデイツト・ピアフの「愛の賛歌」などなど知っている歌や歌手が数多く記されていた. 自分が歌うことに全く興味が無いが、いつの間にか歌が耳に入っていたのだと思った. 

ふと"Unforgettable"を思い出した.  もう随分前のことだが、多分ラジオで耳にしたのだろう、父親のNat King Coleが1951年にリリ−スし大ヒットしたジャズのスタンダ−ドナンバ−である"Unforgettable"を1991年に娘のNatarie Coleがオ−バ−ダビング(録音済みの音声に別の音声を重ねて録音すること)した曲を聴いた. 40年の時を経て父と娘の絆が生んだ忘れえないデュエットに心を打たれ早速CDを買い会社の往復の車の中で繰り返し繰り返し聴いた. 1992年のグラミ−賞の3部門で受賞した. 


"Unforgettable"   作詞、作曲 Irving Gordon
 
Unforgettable, that's what you are
Unforgettable though near or far
Like a song of love that clings to me
How the thought of you does things to me
Never before has someone been more

Unforgettable in every way
And forever more, that's how you'll stay
That's why, darling, it's incredible
That someone so unforgettable
Thinks that I am unforgettable too

Unforgettable in every way
And forever more, that's how you'll stay
That's why, darling, it's incredible
That someone so unforgettable
Thinks that I am unforgettable too




「アンフォゲッタブル」   日本語訳: 東 エミ

忘れられない、あなたのことが
忘れられない、近くにいても離れていても...
まるで心の中で奏で続く愛の歌のよう 
あなたへの思いが、どれほど私に影響しているか
今まで誰にもこんな思いは抱かなかったのに 

忘れられない、どんなときも
そして永遠にあなたは私の中で生き続けるの
愛しき人よ、忘れることなどできない人がいることが
こんなにも素晴らしいことならば
私もあなたの忘れられぬ人になりたい...

忘れられない、どんなときも
そして永遠にあなたは私の中で生き続けるの
愛しき人よ、忘れることなどできない人がいることが
こんなにも素晴らしいことならば
私もあなたの忘れられぬ人になりたい...



時刻は16時を過ぎたが外は未だ暑い.  来春のスキ−を考えての体力維持や健康管理の為に何か脅迫観念に捉われたように猛暑の中を水を持って日課(4kmのWalking)を続けている.   さあ気合を入れて歩き始めよう!

             
 

葛飾柴又 くるまや
葛飾柴又 寅さん実家(くるまや)   2014.07.14  


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10.三四郎 2014.11.06

福島県立磐城高校
福島県立磐城高校 正門   2014.09.17  



私は福島県立磐城(いわき)高校出身で凡そ半世紀前に札幌にある「会津寮」に世話になり北大を卒業した.  この「会津寮」は寮生21名と食事の世話や寮の管理をする小母さんが誰からも財政的補助が無い状態で暮らす、完全自治寮であった. 最近はもう昔の面影はないが、当時は北大生の為の、「岩手厳鷲寮」、「秋田北盟寮」、「仙台寮」、 「米沢寮」、「信州寮」などが近くにあった.場所は札幌の桑園駅の側で、大学教授がかなり住んでいたことから、博士通りと呼ばれている通りに沿っていた.

毎年この「会津寮(今は一般財団法人福島学寮と呼ぶ)」の卒業生が集うOB会の総会が関東と札幌で交互に開かれている. 今年は札幌で10月に開催された. 私はこの先札幌へ行く機会は減るばかりと思い参加することにした. 
寮生活は半世紀以上過ぎた昔のことだが、正に私の青春時代の間只中だったと大変懐かしく思い出すのである.  朝日新聞で今夏目漱石の「三四郎」を連載中だが、私が高校生の頃夏目漱石の「三四郎」、森鴎外の「青年」等々を読み 非常に旧制高校の時代に憧れた.  良く分からないが、受験勉強に追われていた高校生にとって日々真剣に真理の追究に熱心だったのが旧制高校生のように思えたからだった.

北大に入学し同郷の先輩を頼って「会津寮」に入寮した.  4年に渡る寮生活には、全く同じとは言えないだろうが、憧れていた旧制高校の雰囲気があった.  勿論経験していないので何が旧制高校の雰囲気か分かる筈もないが、何事も議論する、正しい事を追究する気迫が感じられた.  自宅や下宿から通学していた同級生に尋ねても、当然寮生活の醍醐味は分からず、自分にはとても幸せな青春を過ごすことが出来たのだと有難く思っている.
   

学生生活を精神的に満足していたその頃、旧制一高生の 藤村 操 が1903年5月22日に日光の華厳滝で自殺し、傍らの木には「巌頭之感 」が書き残されていたことを知った. その書き残された文を読み衝撃を受けた.
 

巌頭之感

悠々たる哉天壤、 遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレ−ショの哲學竟(つい)に何等のオ−ソリチィ−を價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、 胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、 大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。


悩みはあっても人それぞれであるが、自分には先ず上記のような文章は書けないと思った.  自殺を決意し滝底を見下ろして果たして自分はあのような文を書けるのだろうか?  人生に対する我が想いを真に考えたことがあったか?

後世、夏目漱石の「うつ病」は彼の自殺に起因していると言われてるそうだ.

札幌滞在中の一日母校の北大構内を散策した.  正門から入り古河講堂、クラ−ク博士,農学部、理学部、工学部などを横目に、北へ北へと歩いた.  久しぶりにモデルバ−ンを見たいと思ったからだ.  昔の「札幌農学校第二農場」は今は重要文化財になっているが、そこにモデルバ−ン(Model Barn,模範家畜房)がある. 眺めるだけでゆったりした気分になれるのだ. 然し残念なことに来春まで工事のため入場禁止だった.  近くに低温科学研究所がある.  材料試験機を納入したが、零下数十度という低温のためうまく動かず何度も部品の交換をした事を思い出した.

構内の木々は紅葉し秋も盛りと大勢訪れていた観光客も大喜びしていた.  工学部から西5丁目通りへ出る道の両側に金色に輝く銀杏並木がある.  学生の頃は全く知らなかったと友人に話したら、半世紀も昔には未だ苗木だったろうと返されてしまった.

卒業した工学部の前に立ち暫し往事を偲んだ.  11月になるとそわそわして、確か屋上があったと思うが(現在は新しい建物になっている)、そこから手稲山の降雪状況をチェックしたものだ.  11月23日(勤労感謝の日)は毎年手稲山頂に上がりそこから10km近く(山頂のTV塔へ通じる車道)を滑り降りて、何回転倒するかを数え、自分のスキ−術を測る指針となっていた. 4年生になってやっと無転倒で下ることが出来た.

これから何回訪れるだろうかと思い多少感傷的な気分になった.




銀杏並木
北大工学部近くの銀杏並木   2014.10.25  


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11.冬来たりなば 2014.12.21

柿
散歩道の柿(座間市)     2014.11.30  



いつの間にか師走、それももう20日過ぎとなり年の瀬が迫りくる. まさに「冬来たりなば、春遠からじ」を想う気分である. この言葉は人口に膾炙しているが誰の作か興味が湧き調べたら作者は英国のロマン派詩人 Percy Bysshe Shelley と知り驚いた.  恥ずかしながら日本人の言葉とばかり思っていたからだ. この言葉は彼の長詩、[Ode to the West Wind, 西風に寄せる歌] の第5章の最後に出て来るのだ.  それは[If Winter comes, can Spring be far behind?] で誰かが「冬来たりなば春遠からじ」と訳したのが広まったのだ. 訳者は上田 敏とか木村 毅とか諸説紛々でありはっきりとは分かっていないようだ.

最近は季節感が乏しくなり12月の声を聞いてもさっぱり年の瀬の感じがしない.  多分昔からの行事が廃れてビジュアルな出来事が無くなり季節感が乏しくなって仕舞ったからだろう. とはいえ来るスキ−シ−ズンを迎えて何処で滑ろうかと考えるのは季節感がないと言うのに矛盾していると我ながら思う.

ここ数日は全国的に大雪、強風、に見舞われ更に爆弾低気圧による高潮の被害を受けた地域もある. 心から被害を受けた方々にお見舞い申し上げます.  そのような時期にスキ−などの遊びごとを云々するのは不謹慎の限りだろうが、我が人生はスキ−あっての人生故(一寸オ−バ−)日課のWalking中何処へ滑りに行こうかと思案する時期である.  思案と言っても要は北海道のニセコアンヌプリかスイスのGrindelwaldかのどちらかなのである. もう知らない所では滑りたくなくなった. 齢の為せることなのだろう.

今秋喜寿を迎えた. 最初に勤めた会社には29年在籍した. 辞めた時は役員の端くれだったが任期途中の退社だったので、自分では中途退社と思っている(正式には諸般の事情から株主総会で任期満了退任となっている).  この会社のOB会(定年退職者の集まり)から会員になるようお誘いがあり喜んで会員にさせて貰っている.  29年も在籍したので大勢の知人、友人にOB会で会えるのは楽しいことだ. 前置きが長くなったが、このOB会から喜寿の祝いが送られて来たので大変驚いた. 自分では77歳になった実感が無かったし、喜寿なる年齢を全く意識してなかったからだ. そしてOB会から長寿の秘訣を聞かれて更に驚いた.  自分では90歳を超えたら長寿と言えるだろうかと思っていたからだ.  つらつら思えばよくぞ77歳まで生きて来たと我ながら感心しても良いと考えるに至りこの先この命大切に生きて行こうと思う.

私は万葉集、古今集、新古今集などの古歌が好きだ.  暗記した句が幾首もある. 先日(2014年12月13日付き)、朝日新聞の
「be」 のbeランキングの頁に「百人一首で好きな歌」トップ テンが紹介されていた. 私は「百人一首」なるカルタ取りをしたことは無いがトップ テンの大半は知っているので驚いた. ここに第5位まで引用させて頂くが全て空んじている歌である.

1位    ★ 田子の浦にうち出でて見れば 白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ    
                                 山部赤人 新古今集

2位    ★ 花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに   
                                 小野小町 古今集

3位    ★ あまの原ふりさけ見れば春日がなる 三笠の山に出でし月かも
                                 阿部仲麻呂 古今集

4位    ★ 春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山
                                 持統天皇 新古今集

5位    ★ 久方の光のどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ
                                 紀友則   古今集

6位から20位のなかで下の4句も知っている.

6位    ★ ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
                                 在原の業平  古今集

12位   ★ 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天橋立
                                 小式部内侍  金葉集

15位   ★ いにしえの奈良の都の八重櫻 けふ九重ににほひぬるかな
                                 伊勢大輔  詩花集

16位   ★ あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む
                                 柿本人麻呂  拾遺集

百人一首(小倉百人一首)とは、和歌が生まれた頃、万葉集の昔から大歌人100人の代表的な歌を1首づつ、平安〜鎌倉時代の有名な歌人の藤原定家が選んだ歌集のことである. 1首づつなので好きな歌人の他の歌がないのは寂しい.  ところで、1位に似た歌が万葉集に, ★ 田児の浦ゆ打出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける  として載っている.  作者は同じく山部赤人である. 果たして二句あるのだろうか? 似たような歌が万葉集と新古今集に同じ作者名で載っている事は昔から知っていた. 然しそれ以上のことは知らなかった.  万葉集の原文は 「田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留」 である.  万葉集の歌は山部赤人が「不尽山(ふじさん)を望める歌」という題で作った長歌の反歌として歌われた. 後世万葉仮名を読める人は少なく口伝しているうちに変化したものと考えられている. つまり万葉集と新古今集の歌は元は同じということである.

私が北大を受験したときの古文の問題にこの田子の浦の歌が出たと思っているが、今になると万葉集からなのか、新古今集からなのか記憶が定かでない.

さて喜寿になったと先に書いたが、長い人生には未だ先がある.  下に有る漢詩のように現状に甘んじることなく常に精進の精神を保ちたい.

漢詩  「偶成」  朱子

少年老い易く学なり難し    一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢   階前の梧葉已に秋声

上の漢詩は、中国の思想家 朱子 の作と長年云われて来たが後年研究が進み日本の室町時代の僧、観中中諦(かんちゅう ちゅうたい)の作という説が強くなっている.

長年の閲覧、有難うございます. 元気の印として更新を続けて行きますのでどうぞ宜しくお願い致します.  間もなく2015年を迎えます. 
新年も良い年でありますようにお祈りします!


散歩道
晩秋〜初冬の散歩道(座間市)    2014.11.30  

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12.恵迪寮 2015.2.25

アンヌプリ国際スキー場
ニセコアンヌプリ国際スキー場     2015.02.04  >


先日NHKが北大の恵迪(けいてき)寮の特集番組を放映したのを見た. 北大は母校であり学生時代の4年間を恵迪寮ではないが「会津寮」というわずか寮生が21名で、どこからも補助や干渉のない完全自治寮に世話になったことから、興味深く見た. もう半世紀も昔の寮生活だったが、現代寮生の日々の生活に、相通じることもあり、また時の流れを感じさせるシ−ンもあった. 昔は社会や政治体制に反対することに興味が湧かないという、いわゆるノンポリという気質が多々あったと思うが、現代の学生には、社会や政治体制よりも個々の生活に干渉されたくないというノンカンショウ組が増えている印象を受けた.

番組で歌われた「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂う宴遊(うたげ)の莚(むしろ) 、、、、、」 とは、北大恵迪(けいてき)寮の明治45年度(1912年)寮歌『都ぞ弥生』の一番の」歌詞の冒頭である. この歌は人口に膾炙され、卒業生達は同窓会、同級会などなど北大に関係する集まりでは必ず大声で歌った. 正確さを求めるなら、斉唱のリ−ダ−が前口上を大声で述べ、続いて寮歌の斉唱が始まる. それは次の通りである.

吾等(われら)が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)は、げに過ぎ易し.
然れども見ずや穹北に瞬く星斗(せいと)永久(とわ)に曇りなく、雲とまがふ万朶(ばんだ)の桜花久遠(くおん)に萎えざるを.
寮友(ともどち)よ 徒らに明日の運命(さだめ)を歎(なげ)かんよりは楡林(ゆりん)に篝火(かがりび)を焚きて、去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌(うた)はん.

この後に、都ぞ弥生の場合は「明治45年度寮歌、横山芳介君作歌・赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、「アインス、ツバイ、ドライ」と続け、歌に入る (「アインス、ツバイ、ドライ」は、ドイツ語で「一、二、三」の意味である).
この前口上は「楡陵謳春賦」と呼ばれ、実際には昭和11年度寮歌である『嗚呼茫々の』の序文として宍戸昌夫君よって寮歌と共に作られたのである.

手元に、過去の資料を編纂して昭和三十五年(1960年)五月一日、北海道大学恵迪寮発行の、「恵迪寮寮歌集」がある. 145頁に渡って恵迪寮歌が収められており、折に触れて好きな寮歌の頁を開いている.

この寮歌集の冒頭に、半年という短期間ながら在寮したという、作家 有島武郎 の序文が載っている. 文の一部を引用させて頂く.

、、、、半年ばかりの短日月であったが、私も寮の飯を喰い、寮の寝台に寝たものです. 私の部屋は南寮の二階の西の隅で、其所から毎日手稲山の後ろに落ちる夕日を拝む事が出来ました. 而して寮生諸兄は私を齢の違った友達として取扱ってくれました. 一緒に円山の雪辷りにも行き、一緒に鶏の雛を盗む鼠族の征伐もし、討論会には議長に祭り上げられて、散々油を搾られ、食堂では一菜に舌鼓を打って飯の喰い競らべもしました. その記憶は今でも眼に見えるように頭の中に烙き付けられて居ります. 然し時は過ぎて消えました. 夫れを思うと、不思議に自分の過去がなつかしまれます.、、、、一九一六年四月 有島武郎 

有島武郎は一九二三年に軽井沢で自殺し45歳の生涯を閉じた.

ところで2月初めにいつもの北海道虻田郡ニセコ町のニセコアンヌプリ国際スキ−場に出かけた. 丁度その頃は北海道の東側は猛吹雪と大雪で荒れていた. 果たして滑ることが出来るか心配しながら出かけた. 幸い現地は日を追うごとに天候が良くなり、滞在3日目には晴天に恵まれた. 一日に昼食時間を含めて4〜5時間滑ったが、これを3日続けたらもう十分滑った感じになった. 無理をしないように、慎重に、中級と初級コ−スばかり滑った. 一度静止状態で方向転換する為にジャンプしたら尻餅をついてしまったが、滑っている時には一度も転ばないで滑った. ただ長く滑ると太腿の内側が痛くなってきた. 「太腿の鍛錬」が次回までのトレ−ニング課題である. この課題を克服出来れば次回も結構大丈夫だと思った.

ニセコのスキ−場は外国人スキ−ヤ−が多いので有名だが、彼らは主に比羅夫エリア(グランヒラフ)で滑っているが今年は西側の国際スキ−場(ここは静かで、コ−スも広く、私のお気に入りである)にも出没していた. リフトに乗合せた外国人に尋ねたら、オ−ストラリアから3週間半の日程で滞在しているとの事で、余りの長さにただただ驚くばかりだった. 季節は間もなく3月を迎え次第に気温が上がってきた. スキ−場の気温は-5℃〜-10℃位だったと思うが、予め寒さを覚悟してのスキ−なので殆ど寒さを感じなかった. むしろ羽田に着いてからの方が寒いと思ったほどである.

間もなく、間違いなく春がやって来る. 私の散歩道の木々も次第に蕾が膨らみ、寒桜や河津桜はもう咲き始めた. 春と言えば、先ず思うのは卒業式だ. 随分昔の事だが(昭和25年〜28年頃)、小学校や中学校の卒業式では在校生が全員で「蛍の光」を合唱し、続いて卒業生が「仰げば尊し」を歌ったものだった. 高校や大学の卒業式の記憶は定かではない. 小学卒業以来、高校卒業以来、大学卒業以来、一度も会わなかった同級生が沢山いる. 彼らは今どこで何をしているだろうか? 懐かしさがひしひしと込み上げて来る.



ニセコ国際パラダイスヒュッテ
ニセコ国際スキー場パラダイスヒュッテ    2015.02.04  

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13.コメンスメント 2015.4.08

白木蓮
マンションに咲く白木蓮     2015.03.28  

いつの間にかとつくづく思う. もう3月も過ぎて4月を迎えた. 2011年3月11日に起きた東日本大震災に遭遇し亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表します. 被害を受けた方々に心からお見舞いを申し上げます. そして当夜私がお世話になった避難所の栃木県小山市立小山第二小学校体育館を運営されていた小山市役所のご担当の皆様、小学校教職員の皆様のご親切に深く感謝申し上げます.

3月11日の14時過ぎに、私は翌日に福島県田村市の親戚で営まれる法事に出席すべく東北新幹線に乗り郡山駅に向かっていた. 何気なく車内の電光表示のニュ−スを見ていたら突然表示が消えた. 直ぐ車内放送があり停電だと知った. 多分急ブレ−キが掛ったのだろう、列車は小山駅を惰性で通過して停車した. その直後凄まじい縦揺れが来て、正に航空機が乱気流に遭遇した時のように列車が激しく上下に揺れた. 必死に前の座席の背もたれにしがみついた.

車内は停電して非常灯がつき車掌のアナウンスも暫くはあったが電源の保持のため次第に少なくなった.2〜3時間後に列車を降りて徒歩で約1km離れた小山駅に向かうことになった. 外は暗闇になり自分の荷物を抱えて線路上を歩くのは大変だった. やっとの思いで小山駅にたどり着くと避難所に向かうように案内された. 市内は停電で暗く、前を歩く避難者を見失なわないように15分〜20分ほど歩き小山市立第二小学校の体育館に辿り着いた. そこには既に100人位の避難者がいた. 真っ暗闇の体育館には非常灯が1個点灯しており、市役所の職員の方々、学校の教職員の方々が徹夜で世話をして呉れた.

あの時から早くも4年が過ぎた. 津波で亡くなられた方々や、未だ自宅のあるところに戻れないで不自由な生活を強いられている方々がいることを決して忘れはしない.

3月は卒業の季節である. 私が小学校、中学校、高校を卒業した頃は、式では在校生が「蛍の光」を歌い、卒業生が「仰げば尊し」を歌って別れを告げた. それが卒業式の定番だった. 「仰げば尊し」は1884年唱歌として発表されたが、原曲は、1871年にアメリカで出版された「Song for the Clothe of School」らしい.


原曲
「Song for the Clothe of School」

We part today to meet, perchance, Till God shall call us home;
And from this room we wander forth, Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.

直訳
私たちは今日別れ、まためぐり逢う、きっと、神が私たちをその御下へ招く時に.
そしてこの部屋から私たちは歩み出て、自らの足で一人さまよう.
幼年期から今日までを共にした友は、生き続けるだろう、過去の中で.
しかし、光と愛の御国で、最後には皆と再会できるだろう.

一方、「蛍の光」は1881年尋常小学校唱歌として発表された. 原曲はスコットランド民謡の「Auld Lag Syne」で作詞は稲垣千穎(ちかい)である. 北大生の頃は、実家のあった福島県と札幌の往復には必ず青函連絡船(青森と函館間の連絡船)に乗った. 出港の度にドラの音と一緒に流れる「蛍の光」に何故かシンミリした. 特に春休みで帰省する時には度々、船上の東京方面に就職する若者たちと岸壁の見送りの者を結ぶテ−プを見て、出港のドラの音、「蛍の光」を聞いて、別れの辛さを思い感傷的な気分になった.

NHKの連続テレビ小説「マッサン」ではしばしば「Auld Lang Syne」の曲が流れ、エリ−役のCharlotte Kate Foxが歌うシ−ンもあった. 未だ会社勤めの頃、国際工作機械見本市が、東京(以前は大阪でも)、欧州[ハノ−ヴァ−(独)、パリ(仏)、ミラノ(イタリ一)で順に]、シカゴ(米)の3か所で交代で開催されていた. 海外営業を担当していたので、開催される度に、世界中の主なる顧客を招いてレセプションを開いた. レセプション終了時に参加者全員が互いに肩を組み「Auld Lang Syne」を歌った. 懐かしい想い出である. 


原詩 (スコットランド民謡)
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?

CHORUS
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.


意味
旧友は忘れていくものなのだろうか、
古き昔も心から消え果てるものなのだろうか.

コ−ラス
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか.


3月後半から桜の季節となる. どうしても校庭に咲く桜と入学、入社式の様子が脳裏を掠めてしまう. 桜は春の代名詞である. 満開の桜を見て人は心を驚かせる. しかし次のような歌もある.

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ
                         紀 友則   古今和歌集

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
                         在原業平   古今和歌集

4月は入学、社会人への旅立ち、の季節である. 私が社会人になり時折帰省すると、亡き母は口癖に「逢うは別れの始めなり」と言って、私が数日しか滞在出来ないことを嘆いた. 私はその度に、「別れは逢うの始めなり」とこの諺を逆にして母を慰めた.  

この諺は、中国、中唐期の詩人 白居易 の「和夢遊春詩」の句「合者離乃始、合うは離るるの始め」から来ている. 離別は悲しいが、先には新しい世界が開かれているのだ. 


ところで4月8日は「花まつり」の日である. 仏教の開祖 釈迦 の生誕を祝福する仏教行事である. 子供の頃、甘茶を飲んだ日として覚えている. 「天上天下唯我独尊」は釈迦の言葉である. 目を見開いて見渡せば、どの生命も、どの生命も皆光り輝いている. 

卒業を英語に訳せば誰しもGraduationだと思うだろう. 私もその単語を思った. しかし確か高校で、米国では Commencement  と言うと教わった. 元々の意味は「始まり」であるが、卒業は新しい生活の始まりだからだ.

若者よ、新しい世界の始まりが待っている. 大志を持って大きく羽ばたいて欲しい!




こどもの国の桜
こどもの国の櫻    2015.03.30  

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14.小諸なる 2015.7.27

千曲川遠望
長野県小諸市古城 千曲川遠望     2015.06.24  

学生時代に夏休みを終えて札幌へ戻る時、東北本線の列車が盛岡駅を過ぎる頃に、いつもそうだったが、芭蕉の句を追って平泉に寄りたくなった. 長い間希望が叶わなかったが数年前やっと平泉を訪ねることが出来た.

「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡   松尾芭蕉
 
更に夏に山形県の立石寺(山寺)も訪ねた. 芭蕉の句の蝉を巡って、有名な歌人斉藤茂吉(アブラゼミ)とドイツ文学者小宮豊隆(ニイニイゼミ)の蝉論争を想い浮かべた.

閉けさや 岩にしみいる 蝉の声       松尾芭蕉


その頃(学生時代)から何故か島崎藤村の詩「千曲川旅情の歌」に心を奪われ千曲川のほとりを当てもなく散策したくなった. 望んでから半世紀後やっと6月に小諸なる古城のほとりの藤村ゆかりの宿に泊り千曲川を眺める事が出来た. 然し人が成長する如く川も変化する. 「緑なすはこべは萌えず、若草も藉くによしなし」と歌われた川岸には人家が立ち小さなダムもできて、歌われた面影はもうなかった.


「小諸なる古城のほとり」   −落梅集−   島崎藤村

小諸なる古城のほとり   
緑なすはこべは萌えず   
しろがねの衾の岡邊     

あたたかき光はあれど    
浅くのみ春は霞みて     
旅人の群れはいくつか    

暮行けば浅間も見えず  
千曲川いざよふ波の     
濁り酒濁れる飲みて     
雲白く遊子悲しむ
若草も藉くによしなし
日に溶けて淡雪流る

野に満つる香も知らず
麦の色わずかに青し
畠中の道を急ぎぬ

歌哀し佐久の草笛
岸近き宿にのぼりつ
草枕しばし慰む


「千曲川旅情の歌」       −落梅集−   島崎藤村

昨日またかくてありけり    
この命何を齷齪(あくせく)  

いくたびか栄枯の夢の    
川波のいざよふ見れば    

以下略

今日もまたかくてありなん
明日をのみ思ひわづらふ 

消え残る谷に下りて
砂まじり水巻き帰る


この「小諸なる古城のほとり」 と 「千曲川旅情の歌」 は、後日藤村が 【自選藤村詩抄】 にて 『千曲川旅情の歌、一、二』 として併せた.

私は昔詩を読んで以来、小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ と 暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛  の行が強く記憶に残っている. 何となく気忙しい日々が続く中でふと魂を遊ばせるような気持になるからだ.


藤村が7年間部屋を借りて文筆に励んだという宿に泊まった. 休息所に数年前の新聞記事が置いてあった. 記事によれば、この宿が「藤村ゆかりの宿」という看板を出していたら、「しまざき ゆかり さんはどんな人」と尋ねる客がいたそうだ. この歌(詩)は明治38年(1905年)発行の「落梅集」により初めて世に出た. 時が過ぎ藤村を知らない人がいるのも、正に明治は遠くなりにけりである.

藤村の詩と言えば、ロマン主義文学の代表的詩集として[若菜集]にある「初恋」や「秋風の歌」などが良く知られている.


「初恋の歌」    −若菜集−   島崎藤村

まだあげ初めし前髪の  
前にさしたる花櫛の    

やさしく白き手をのべて  
薄紅の秋の実に
    
以下略

林檎のもとに見えしとき
花ある君と思ひけり

林檎をわれにあたへしは
人こひ初めしはじめなり

「秋風の歌」     −若菜集−   島崎藤村

しずかにきたる秋風の  
舞いたちさわぐ白雲の  

暮影高く秋は黄の     
そのおとなひを聞くときは 

以下略
西の海より吹き起こり
飛びて行くへも見ゆるかな

桐の梢の琴の音に
風のきたると知られけり



関東地方の梅雨が明け猛暑が続いている. ニュ-スが蝉が鳴き出したと言ってるが、確かに目前のゴルフ場の林から蝉の鳴声(多分ミンミンゼミ)が聞こえて来る. 一方では鶯も鳴いている. 猛暑でも鶯が鳴くのには驚いた. 暑い日々が続き、何か自然界に異常が起きたのかと思ってしまう!

ふと昔の夏はどうだったのかと考えたら、清少納言の随筆「枕草子」が頭をよぎった. 春夏秋冬の変化を書いているが、夏の項では、

夏は夜. 月のころはさらなり、闇もなほ. 蛍の多く飛びちがいたる.  また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもおかし. 雨など降るもおかし.

暦が旧暦としても、猛暑の描写はない. 作品が出来たのが平安時代中期(西暦1000年頃)と言われてるが、其のころの夏は随分過ごし易かったようだ.  だが兼好法師が著した「徒然草」の第55段には次のように書いてある. 

「家の作りやうは、夏をむねとすべし. 冬は、いかなる所にも住まる. 暑き比(ころ)わろき住居は堪え難き事なり」. 

つまり家を作る時には夏の住みやすさを優先に作るが良い. 冬は住もうと思えばどこにでも住める. 猛暑時の欠陥住宅は我慢できない. 時は鎌倉時代末期(1300年前半)、場所は多分京都であろう. となればやはり夏は結構暑かったのだろう. ただ言葉では暑いと言うが、温度的には現在とは違いそれほど暑くはなかったのだろうと勝手に想像している.

私が子供の頃(65年〜70年位前)にはエアコンや電気冷蔵庫なるものは一般に存在しなかった. それでも現在のような猛暑の記憶はない.



千曲川旅情詩碑
小諸市懐古園 千曲川旅情詩碑    2015.06.24  

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15.天高く 2015.10.21

散歩道の柿の木
散歩道の柿の木    2015.10.04  


柿喰へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

                      正岡子規

秋のよの あくるもしらず 鳴く虫は
        わがごと物や かなしかるらん
                      としゆきの朝臣(藤原敏行)  古今和歌集

今年の夏は猛暑に辟易していたが、「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通り次第に凌ぎやすくなって来た. 彼岸が過ぎたと思ったら富士山冠雪のニュ−スや北海道からの雪の便りがあり間もなく冬がくる. 気が付けば今は未だ秋なのに全く虫の音を聴かない. 目前のゴルフ場が雑草対策の薬を撒いているからだろうと家人は言っている.

秋も盛りといえばこの言葉が浮かんでくる. 「天高く馬肥ゆる秋」. 空が澄み渡って高く見え馬も食欲を増して立派に肥える秋のことと思っていた.  が良く調べると、中国の言葉で「春夏の牧草を十分に食べ立派に太った馬に乗って北方の騎馬民族が秋の収穫を略奪に来ることを指し警戒を怠るなという意味なのだそうだ.

天高く馬肥ゆる秋とくれば次の言葉を思い出す. 一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ である. 徳川家康の家臣、本多作佐衛門重次、が長篠の戦の際陣中より妻に送った手紙である. 短い文章に要点が網羅されている名文として大変参考になる.

秋になると思い出す. それは「Festival of Cyoyo(重陽の節句、9月9日)」のことである. 昔々Patrick Lafcadio Hearn(パトリック ラフカデオ ハ−ン、日本名 小泉八雲)が書いた[Of a Promise Kept]を読んで以来重陽の節句という言葉が忘れられない. 彼は上田秋成の「菊花の約、雨月物語」を翻訳して上記のOf a Promise Keptを書いた. 再翻訳されたのが日本名「菊華の契り」である.  友人が約束した9月9日には必ず戻ると約束し帰って来たが実は亡くなっており帰ってきたのは幽霊だったという怪談である.


秋は清らかである. 

「山居秋暝」         「山居の秋の暝(くれ)」

空山新雨後
天気晩来秋
明月松間照
清泉石上流
竹喧帰浣女
蓮動下漁舟
隨意春芳歇
王孫自可留

  王維  唐詩選
空山 新たに雨ふれる後(のち)
天気 晩来 秋なり
名月は松の間に照り
清泉は石の上を流る
竹の喧(かまび)すしきはもの浣(あら)う女(むすめ)の帰るにて
蓮の動くは漁(すなど)りの舟の下がるなりけり
随意なり春の芳(はな)の歇(う)せんこと
王孫(おうそん)は自(お)のずと留まる可(べ)し

                              王維  唐詩選

人気のない山が雨に洗われてのち、
天気は夕方を迎えていよいよ秋めく
明るい月が松の木の間から光を輝かせ
澄んだ泉は 巌の上に音を立てて流れる
竹薮のほうで洗濯女たちが賑やかに帰り

蓮をぬうて川を下る漁舟も、その影は見えない
春の花の季節はすでに遠く去った
私はあくまでもこの清らかさを愛して、ここに留まる

            主として「吉川幸次郎」訳

因みに「唐詩選」とは、中国明の李攀竜が編纂した唐代の漢詩選集を云う.



秋にはせめて華やかな身造りをして、侘しく厳しい冬の到来を待とう.

「The morns are meeker than they were」     「秋の朝」 エミリ−・ディキンスン

The morns are meeker than they were --
The nuts are getting brown --
The berry's cheek is plumper --
The Rose is out of town.



The Maple wears a gayer scarf --
The field a scarlet gown --
Lest I should be old fashioned
I'll put a trinket on.



           Emily Dickinson
朝が、前よりも遠慮しながらやって来るようになった.
木の実はだんだん茶色くなって、
クロイチゴもキイチゴもほっぺがふくらみ、
バラの花は旅に出て、しばらく帰ってこないはず.

カエデの木は派手なスカ−フを巻き、
野原も赤いフリルのついたドレスを着始めた.
この流行に遅れてしまわないように
わたしもなにかアクセサリ−をつけよう.

          
      エミリ−・ディキンスン

      共訳:Arthur Binard・木坂 涼

Emily Dickinsonはアメリカの詩人である.

今はもう10月半ばを過ぎ冬も間近である.  そろそろ來シ−ズンのスキ−行を考える時になった. 単独行は万一転倒した時に起き上がれないと困るので諦めざるを得ない. 同行者を選ぶのも楽しみの内か?



八王子市郊外のコスモス
コスモス 東京都八王子市郊外    2015.09.19  

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16.冬の桜 2016.01.08

10月桜
散歩道に咲く10月桜       2016.01.03  

謹んで新年のお祝いを申し上げ、ご健康とご多幸をお祈り致します.

ビジネスの世界から引退し、知人友人の皆様に元気の証しと思い、2002年5月にこの拙いホ−ムペ−ジを開設以来ほぼ14年過ぎようとしています. 今回の更新が第145回目となります.
 長きに渡って閲覧頂いた方々に心からお礼を申し上げますと共に今後もどうぞ宜しくお願いします.

新年は穏やかに明けた. 紺碧の空を見上げると森羅万象暫し世の中の出来事を忘れ新年の到来を祝っているように思った. 日課となっているWalkingの散歩道には、暖かい気候に誘われたように、十月桜や冬櫻が咲いている. 長閑な眺めを楽しむのも正月だからこそである.

元日や 上々吉の  浅黄色    小林一茶

北国や 家に雪なき お正月    小林一茶


日本全国暖冬に戸惑っているようである. 降雪がなくて喜ぶ人あれば、悲しむ人あり. この有様では真夏の気温がどうなるか考えるのも恐ろしい. とは言えスキ−大好きの私は、どこで滑ろうか、とよそ様の苦悩も考えずに能天気な気分でWalkingを続けている始末である.

思い返せば大学入学と同時に山岳スキ−部(正しくはスキ−部山班)に入部して以来既に半世紀過ぎた. 学生時代は本格的に深雪に埋もれながらスキ−登山に励んだ. 会社勤めになってからは、ゲレンデスキ−に転向した. 然し札幌郊外の手稲山の山道(約10kmの下り)以外に長い距離を滑っていなかったので、また新田次郎の小説や、北海道ニセコ地方のワイスホルン山頂から滑り下った経験から本場アルプスで滑ることを夢見ていた.

故に引退してからは十分時間があったので長距離スキ−を求めてスイスアルプス、フランスアルプス、イタリ−のドロミテ地方(コルチ−ナ ダンペッツオ)などで滑って来た.  特にスイスのグリンデルワルド(Grindelwald)やツエルマット(Zermatt)のマッタ−ホルン(Matterhorn)などは各3回づつ滑ったので凡そのコ−スは諳んじるほどになった. スキ−ではないがアイガ−北壁に魅せられて、Grindelwaldへは夏にも1週間滞在したこともあった. 

間もなく80歳(今78歳)になる. この先何年滑ることが出来るか予測出来ない. 自分の体力との勝負となるが、願わくば大学の大先輩の三浦敬三氏、ご子息の三浦雄一郎氏のようにずっと滑り続けたいと念じるのである.  三浦一家と言えば、雄一郎氏の弟さんは私と大学の教養部時代同級生だった. 一緒にスキ−部が管理する大学の山小屋の小屋番をしたり、山で滑ったりした事を思い出した. 流石に血筋は争えずスキ−は上手だった.  

学生時代には同級生達とよくスキ−登山をした. チョッカリ(直滑降のこと)が得意な級友が皆が見守る中、直滑降に挑戦、途中で転倒し深雪に埋もれて姿が見えなくなったことがあった. その級友はもう他界してしまった. 数年前には卒論で同じ講座にいた同級生が、昨年は教養部時代の同級生が旅立ってしまった.

門松は  冥途の旅の一里塚 
めでたくもあり めでたくもなし    一休 宗純


めでたい正月なのに、冥土の旅の一里塚と考える年齢になったのは確かである. 何とかそのような気持ちを振り切って、がむしゃらにスキ−を続ける人生を目標としたい.


冬櫻
散歩道に咲く冬桜       2016.01.03    

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