* 海外あれこれ * |
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( その一 ) 2002/07/16 |
( そのニ ) 2002/07/20 |
( その三 ) 2002/07/26 |
( その四 ) 2002/08/02 |
( その五 ) 2002/08/08 |
( その六 )2002/08/16 | ( その七 ) 2002/08/23 |
( その八 ) 2002/08/31 |
( その九 完 ) 2002/09/06 |
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(その一) 1$=¥360 | 2002年07月16日 |
(数年ぶりに北海道に行って来た. 今回は自宅から車で大洗へ行き苫小牧までフェリ−を利用した.台風5、6号の影響で大半は雨と霧の北海道であった.) 夏なので軽い話題を幾つか書いてみたい! 1962年に大学を卒業し工作機械メ−カに就職した.1964年春にアメリカのデトロイトで開かれたASTMEショウと呼ばれた工作機械の展示会に展示機械の据付兼説明員として出張を命ぜられた.これが百回を超える海外出張の始まりとは夢にも思はなかった ただ一人での出張なので大変だと思ったが、当時は海外へ行くことなど普通には考えられなかったので、不安な気持ちより是非見聞を広めたいという気持ちが先行した. パスポ−トは渡航一回限り有効で、為替は1$=¥360で簡単に外貨は手に入らなかった. 航空機はDC8で座席は通路の両側に3人、3人の配列だったが狭いとは感じなかった. 食事のプレ−トには食後の一服として5〜6本入りの煙草の小箱があった. ハワイのホノルルで通関と入国審査があった. 心配していた言葉(英語)は通関での質問に答えられたので一安心した. 中学、高校の頃確か平川唯一?先生のカムカム英語(英会話)講座をNHKのラジオでやっていて一生懸命聞いていたのが役に立った. Detroit市の展示会では何とか英語で機械の説明が出来たが、全く通じなくて困ったこともあった. 会場内のコ−ヒ−スタンドにコ−ヒ−を買いに行った.何回コ−ヒ−と言ってもスタンドの小母さんには通じなかった. 最後はシ−.オ−.エフ.エフ.イ−.イ−.(Coffee)とスペルを言って分かって貰った. 考えてみればはコ−ヒ−の場合はハヒフヘホのヒではなくf(エフ)のコ−フィ−でないと通じにくい(特に日本人慣れしていない人には)のだろうが、コ−ヒ−スタンドでコ−何とか言っているのに何故分からないかと大変いぶかしく思った. 後年英国で別の経験をした.ロンドンで夜遅くホテルが無くやっと見つけてピカデリ−サ−カスまでタクシ−で行こうとしたがさっぱり通じない. 挙句の果てにスペル(ピ−.アイ.シ−.シ−.エイ.デ−.アイエル.エル.ワイ,Piccadilly)を言ったら簡単に通じた. 今回は発音の問題ではなく抑揚(イントネ−ション)の問題だった. ピカデリ−ではなくピッカデリ−のように発音することを学んだ. その後何十回となく海外出張を繰返す内に学校で習った英語は殆どが米語なのだと思った. 例えば英国では地下鉄は Tube が普通、Candy は Sweets で、送迎の足はLift. Apartmenthouse は Flat などなど. 話し方の響きも米国風と英国風では全く異なる. 意味が分からなくても、後方で話している英語を聞けば米国人か英国人かはすぐ分かった. タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(そのニ) スウエ−デン(Sweden) 駐在 | 2002年07月20日 |
入社して3年目に、開発に関係していた機械が欧州に売れ出したこともあって、北欧のスウエーデン(Sweden)に駐在することになった. 簡単に外貨が手に入らないのでStockholmをベ−スに一人でアメリカ、カナダを含めて欧州、旧共産圏諸国、アフリカ等への工作機械の売りこみ、教育、メンテナンスを担当した. アメリカと欧州では機械の修理に行った私に対する待遇がまったく異なって面白かった. アメリカでは普通の修理員として昼食なども特に気にかける様子もなく、自分で売りこみに来たトラックから買って食べた. 英国にはよく行ったが、朝は9時頃お茶の時間があり紅茶とビスケットを出してくれた .コ−ヒ−にはミルクを半分ほども入れるが、ミルクを入れて欲しい時はwith milk とは言わずwhiteと言う. 昼食は幹部食堂へ行きウイスキ−とかビ−ルを少し飲んでから給仕付きで食事をしたのには驚いた. 幹部(日本で言えば、会社の規模にもよるが、課長か部長に相当する)用食堂とかトイレがありトイレの鍵を各自持っていた. アメリカではこのような経験は無かったので分からないが恐らく同様だったろう. 英国に限らずスウエーデンなども同様で、よく行ったストックホルムの工場では工員、事務員、幹部、役員と4種類の食堂があった. 公平の為に書けば、恐らくアメリカでは汎用機械の修理が多く、欧州では、開発されたばかりの最新鋭のコンピュタ−制御工作機械(数値制御工作機械)の修理やプログラミング教育での訪問が多かった. つまりアメリカでは工員待遇で、欧州では大学卒のエンジニア待遇だったのだろうか? 言葉は英語が分かればまあ大丈夫かとは思ったが、世界中皆英語を話すわけでもなく、自分の英語だってあやしいので、でたとこ勝負と覚悟した. 機械の専門用語はその国の言葉で言えれば問題点も理解も早く分かるので一生懸命機械のオペレ−タに尋ねた. 1964年秋東京オリンピックが終わってから駐在員としてアメリカで4週間位仕事をしてニュ−ヨ−クからスウエーデンへ向かった. 入社してから2年半しか経たず、高精度の機械修理などとても自信がなく、ひたすら考えて対処するしかなく、大量の図面を持参した. 欧州には同業の機械メーカ3社しか現地駐在員(Stockholm,Paris,Düsseldorf)がいなくて、競争相手よりは日本代表の気持ちで顧客の満足を得られるよう互いに助け合った. よく白夜の国スウエーデンと呼ばれるが、私が着いたのは11月末で朝は9時過ぎないと明るくならず午後4時頃にはもう暗くなった. 今と違いTVの外国の紹介なども余り無く、何もわからなかったが、自分が住む国や、聞いたこともない言葉(スウエーデン語)に対する興味が尽かず、心配心などどこかに行ってしまった. タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(その三) 外国の言葉 | 2002年07月26日 |
学生時代(1960年前後)にAudrey Hepburn主演の Roman Holiday(ロ−マの休日)という映画を見た.名の通りロ−マが舞台でスペイン坂という場所でのシ−ンが印象に残っていた. SwedenのStockholmへの出発を直前にして、何故かロ−マやスペイン坂に似たような都市かと勝手に想像していた. 実際には勿論違っていたが. 一番の興味はSweden語を覚える過程だった. 子供は知らず知らず言葉を覚えていく. 読んだ事も、聞いた事もない、何の事前知識もない言葉を、大人の自分がどうやって覚えて行くのだろう? 日本では辞書が手に入らなかったのでNew Yorkで英語ースウエーデン語の辞書を買った. Stockholmに着いて数日で北の方に出張した. 切符を自分で買い出かけたが、必死になって覚えた最初の言葉はGår Tåget till Stockholm? (Does train go to Stockholm?, この汽車はストックホルムへ行きますか?)だった. 街に買物や食事に行っても英語が常に有効とは限らない. だからポケットには常に英語ースウエーデン語小辞典やメモ帳を持っていた. 例え単語が分かっても正しく発音出来なければ通じない. 一番役に立ったのはメモ帳だった. 画は下手でも、何でも欲しいもののポンチ画を見せると直ぐ分かって貰えた. そしてスペルを書いてもらって覚えるようにした. 然しそれでもたまには互いに意思の疎通が出来ず、あるレストランではキッチンにつれて行かれ欲しい物を指差せと身振りで言われたこともあった. 決して恥ずかしがらず、積極的に当ればそれほど困ることはないと思った. 単語を書けても、正しく発音出来なくて相手に分かって貰えなかったり、自分が聞取れなかったりした単語もあった. 数を言うのにSju(7)、Sjutton(17)、Fyrtio(40)、Sjuttio(70)等はどうしても正しく発音出来ず、また40、70はどちらも同じように聞取れた. 自宅の電話番号に49や43が入っていて(二桁ずつ呼ぶ)、Taxiなど電話で依頼したとき、自宅の番号を上手にいえず苦労した(一桁ずつ言った). また国は違っても似たような単語があり、スウエーデン語が分かってドイツでも通じたりした. 多分順序は逆(つまり南から北へと移って行った言葉もあると想像している)だろうけど、 例えば, betala(払う,スウエーデン語)とbezahlen(払う,ドイツ語), beställa(予約する,スウエーデン語)とbestellen(予約する,ドイツ語) Flygplats(飛行場,スウエーデン語)と Flugplaz(飛行場,ドイツ語) 等々等々 またフランス語,ドイツ語,スウエーデン語,ポーランド語,ロシア語間等でも似た単語があり欧州の人達は他国の言葉も簡単に覚えられそうで羨ましかった. 傘はParapluie(仏), Paraply(スウエーデン) 家具はMeuble(仏), Möbel(独), Möbler(スウエーデン) 窓はFenêtre(仏), Fenster(独), Fönster(スウエーデン) 薬局はApotheke(独), Apotek(スウエーデン) 等々, これまた枚挙に暇が無い. 旅を重ね(といっても仕事での旅だが)、国が変わる度に発見があり楽しかった. タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(その四) カジノ | 2002年08月2日 |
ドイツでの変な勘違いのこと! Sweden語で Utgång は出口、改札口の意味と分かっていたので、ドイツ(旧西ドイツ)のホテルで Notausgang のサインを見た時 ausgang は Utgång に似ているので出口の意味だろうと推定、Not は英語は否定の意なので合わせて「出口ではない(通りぬけ禁止)」と勝手に思っていた. 正しくは正反対の非常口のことであった (Notは非常の、Ausgangは出口)! タクシーを利用すると、地名の xxxstraße を告げるので Straße は通りの意味と分かっていた. 何気なく道路標識をみていて Einbahnstraße という標識がよく目についた. 同じ地名が結構あるなと感心していたら一方通行の通りのことだった! 初めの頃は辞書を持参の旅(仕事の)だったが、重くて嵩張るので次第に持参しなくなったが、薄い和英辞典のみ常時携帯した.それは日本にレポ−トを書くとき忘れた漢字を探す為であった. 時々日本工作機械工業会や日本金型工業会などが参加している国際会議で講演する仕事があって外国を訪問した. London, Berlin, Venice 等々で日本の最新鋭の数値制御工作機械やそれによる高性能の金型の無人加工等について下手な英語で講演した. ある時 ISTA ( International Special Tooling Association, 国際金型工業会 ) 主催の会議がドイツの Baden-Baden (Stuttgart の近く)で開催された. Baden-Baden は国際会議で有名で、立派な国際会議場があるが、温泉やカジノでも有名だった. 会議が終わって夜経験の為カジノへ行った. 数人の同行者の中にネクタイ無しの方がいて入口でストップされた. だがちゃんと隣に貸しネクタイ屋があって借りて入場した. そこで驚いた. 大半の男性はタキシードを着用し、ルーレットの台ではチップを賭ける人の側で何人もの人がじっと出目を見て記録を取っていた.チップは一枚が確か1マルク(当時は1マルクが70〜90円位)で最低の賭けは100枚単位だったかと思う. 勿論賭ける度胸も資金もなく早々と逃げ帰った. トーマス.マンの Buddenbrooks ( ブッデンブローク家の人々)に出て来る(記憶が正しければ)Travemünde はドイツの北方バルト海に接する保養地でカジノでも有名だったと思うが今はどうなのだろう? 1960年代の終わりの頃南アフリカ(南アフリカ連邦共和国)の Johannesburg へ展示会参加の為出かけた. Sweden にいたので London、Rome 経由で飛んだ. かの有名なApartheid (アパルトヘイト、人種隔離政策、今は廃止されている)の国だったので、どんな待遇を受けるか少し心配だった. 当時日本とは貿易が盛んだった故か、南アの時の首相の国会答弁「日本人を名誉白人待遇とする」だけで法律上人種隔政策の対象外の保証は無かった. 差別されるのは勿論嫌だが、名誉白人というのも嫌だった. 現地では何事もなく過ごしたが、入国時に人種を、つまり白人、黄色人、黒人などと記入させられた. 言葉はアフリカーンズ (オランダ系移民の言葉) が使われているが、(英語も使われている)、ドイツ語とオランダ語に似ているので少し理解出来た. その後日本政府も制裁のため戦略物資に該当する機械類や、アパルトヘイト政策を助長する物資の輸出を禁じた. 今は解除されていると思う. タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(その五) オ-デコロン | 2002年08月8日 |
日本と他国では固有名詞の表現が違うので注意が必要である. 英語のズーリック(Zürich)は日本語ではチュウリッヒで、ローム(Rome)はローマ、パリス(Paris)はパリ、ネープルス(Naples)はナポリ. ターキイ(Turkey)はトルコ、ベルジアム(Belgium)はベルギー. ミューニック(Munich 英語名、München 独語名)はミュンヘンである.聞く時は想像すれば分かるが、書くときは覚えていないと書けない. ドイツの都市、英名コロン(Cologne 英語、Köln 独語)はケルン(日本語呼び)の事である.因みにオーデコロンはこの地名から来ているが、英語で Cologne Water, 独語で Kölnicshwasser、 仏語でEau de Cologne と書く. 中国の政治家の名前(地名もそうだが)は日本では漢字読みだが、英語読みでは全く異なるので、中国語が分からなければまるで見当がつかない.例えば Jiang Zemin 氏は 江沢民 氏のことである. 政治、経済面の話題で外国の人とコミュニュケーションを図る時など、外国の新聞の見出しをよく見て人名、地名をチェックしておかないと話しが通じないことになる. 外国で相互理解が出来るかどうかは、互の感が鋭いか鈍いかで随分違うと思う.一度ドイツのDüsseldorf から車でパリ、グルノーブルを経由し、ピレーネ山脈を超えてスペインのバルセロ−ナ(Barcelona)へ行った.市内で現在位置が分からなくなり、通行人に現在位置を聞いたが言葉が通じなくてさっぱり要領を得なかった. 地図を見せ、地面を指差したが駄目だった.この程度の質問くらいジェスチャーで分かって貰えると思ったが一方的な考え方だったのか? スペインと言えば 内乱時を描いた Hemingway 原作の映画 「誰が為に鐘は鳴る」 を見た人は多いと思う.英題は For whom the bell tolls だが、前置詞の後に関係代名詞を置くのは誤りで正しくは Whom the bell tolls for ではないかと習ったような記憶があるがどうだろうか? 主演のスウエ−デン人女優 Ingrid Bergman を日本ではイングリッド バーグマンと呼ぶ.ところが有名なスウエ−デン人映画監督の Ingmar Bergman をスペルが同じでもイングマール ベルイマンとスウエ−デン語読みで呼ぶ. 彼女がハリウッド映画で活躍したから英語読みなのだろうか??? ところで東京でシャイナゲーワやデンエンコーフへの行き方を尋ねられて何処のことか分かりますか? Shinagawa (品川)、Denenchofu (田園調布)のことです! タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(その六) 毛沢東語録 | 2002年08月16日 |
初めて中国へ行ったのは日中国交回復(正常化)前であったから、1972年以前のことだった. 紅衛兵や毛沢東語録(Sayings of Chairman Mao) などの記憶がある. 国交が無かったので、日本から中国への定期直行便などはなかった.先ず香港へ飛び徒歩で国境の深せん(Shenzhen) を渡った.そこから広州まで汽車に乗り(広州で確か一泊した)飛行機で北京に飛んだ.中国旅行社(中国の旅行代理店)の人が駅や飛行場へ送迎してくれた. 商談中の機械の説明のための訪中だったが、当時の中国語では表現出来ない技術用語が数多くあり顧客と相談しながら言葉を(単語)作った. 当時は中国の輸出入公司が窓口だったので、北京で公司の係員と顧客の両方に説明した. 休日には公司の係員が郊外の万里の長城や明の一三陵へ案内してくれた.その後も訪中の度に何回か案内して貰った(断り切れずに). 中国語は勿論分からなかったが、時には筆談で相互に理解し合った.ただ省略漢字は分りにくかったが、想像で何とか理解した.発音は「四声」が難しく、話すことは難しかった. 昔漢文を勉強した時は返り点ばかりが頭に残ったが、要は主語、述語、目的語の順(つまり英語などと同じ)に単語を連ねれば良いと悟った. 休憩時には、私の好きな陶淵明、李白、白居易、杜甫等々の作品について筆談で話し合った. ただ残念ながら、知っている漢字も辞書なしではもう書く能力を失っていた. 機械の説明会なのだが公式には技術交流と言った. 一回で約1週間位かかった. 会期中に公司の偉い方が(総経理とか経理と呼ばれる、日本では社長とか部長に当る)歓迎の宴を催してくれた.そうなると、後日答礼の宴に招待する必要があった. 私も責任者だったので若者なのにホスト役を幾度となく務めた. 中国式では、接待主はレストランの応接間に座って客を待った. 来客が到着するとひとしきり雑談をし、やおら別室のテーブルに案内する. 丸テーブルで主賓席は接待主の右側に位置し副主賓は正反対側となる. 接待主は料理毎に必ず主賓に大皿から取り分ける. そして挨拶のあとは頻繁に両国の友好を願って茅台酒(まおたい酒、小麦と紅こうりゃんから作る蒸留酒、50度以上)で乾杯した.50度以上もある強い酒で文字通り何回も乾杯するのは大変きつかった. 次第に慣れてくると酒に強い人に乾杯を代わって貰った. そうしたら相手もピンチヒッターを連れてくるようになった. その頃はいわゆる人民服を着ている人が多く、最近TVで見る中国の服装からは一寸当時を偲ぶよすがにもならない. 殆どは北京へ行ったが1980年代後半には、天津、上海はもとより、四川省の成都の奥や、黒龍江省の大連の近くへ飛行機と車に乗り継いで、或いは何十時間と汽車にゆられて出かけた. 特に汽車の旅では食事が思うようにならなかった. ホテルで電気炊飯器で米を炊いてにぎりめしを沢山作り、それを食べながら旅した. 住んでいる人達には失礼だけど、北京は独特の匂いがした. モスクワでも同じ経験をした. 同行者に尋ねると誰もが否定したが、私はそれは恐らく石炭暖房の匂いだろうと今でも思っている. タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(その七) 南半球と左回り | 2002年08月23日 |
初めて韓国へ行った時はまだ戒厳令があって、24時から4時までは外出が禁止されていた.外国人は対象外であったが、東洋人は韓国人に間違えられる恐れがあると思い夜分遅くは外にいないよう注意した.当時の食事は粗末で、ご飯には雑穀が半分位混じっていた.外国製のタバコを吸う事も禁止されていたような記憶がある 確か月1回ほど避難訓練があり、例えタクシ−で空港へ向かっていても車を止めて指定された所へ避難した.飛行機に乗り遅れないかと心配した.家電用金型加工のための工作機械の売りこみに通ったが、現在の発展を見ると韓国の人々の努力が実った結果と感心する! 台湾が先か、韓国が先か定かではないが台湾にもよく通った.台北の飛行場は現在の空港ではなく台北市内にあった(今は国内線用になっている).仕事は別として北京、四川、上海、広東料理、台湾料理、客家料理等々、朝昼晩の三食とも中華料理を食べた.全然飽きることなく何を食べても美味しかった. 中国、香港、マレーシア、シンガポール、英国、ドイツ、北欧、アメリカ等行く先々で中華料理を食べた.世間では香港が一番美味しいといわれているが、私には台湾が二番目に美味しかった. 一番は、日本語を話す機会が半年に一回も無かったストックホルムでの中華料理だ.白いが粘り気のないご飯と搾菜(ざあさい)だけでも十分美味しかった. 香港の飲茶は有名だけれども、シンガポールでは点心(発音はデンサム?)と呼んだ気がする.ところで中国語圏を歩いていて、何人ものラムさんに会ったが漢字は林と書くことに気がついた.多分広東語の発音だと思うが、その頃アグネス.ラムという女性タレントがいて、この人は林さんだろうかと想像していた. その頃一番の問題は、無人加工の機械を設置すればボタンを押すだけで製品が完成すると期待されることであった.加工そのものはプログラムすれば自動的に無人で行われたが完成品が出来るとは限らなかった. 精度の高い製品にするには、設計図と機械だけでは駄目で、室温のコントロール、適切な加工条件、加工工具や冶具取付具の知識(生産技術)が必要である.そこで機械を買うから金型加工の先生を紹介してくれとよく頼まれた.同じことを韓国や、シンガポール、マレーシアなどでも依頼された. 東南アジア諸国では(台湾、香港は勿論、マレーシア、シンガポールなど)機械加工に携わっている人は中国人が多かった.我々は漢字を覚えていない時はカタカナとかひらがなで書いてしまうが、中国語を話す人達は漢字を忘れた時はどうするのか不思議に思っていた. 或る時質問したら、簡単な漢字を当てるという答えだった.ということは同じ意味を書くのに人によって違うのだろうか? 機械は一台でも千差満別の品が加工されるのを見るのは楽しかった.15年以上前のことと思うがルービックキューブと呼ばれる数を並べる玩具が流行した.香港の顧客がそれを製造していて、ダンボール一箱の製品を会社に送ってくれたことがあった. シンガポ−ルは赤道よりやや北に位置する.ここに来ると何故か南十字星と渦巻きを思ってしまう.南十字星は北半球では見えないと言われている.渦巻きは北半球では右回り、南半球では左回りと聞いていた.シンガポ−ルは赤道に近いのでふと上記二つのことを思い浮べるのだろうか? オーストラリアで渦巻きを確かめてみた.ホテルの洗面所で渦を作ったが左回りだったかはっきりとは覚えていない.南十字星も見たような見なかったような!でも年甲斐もなく「南十字星」という言葉に何か魅せられている. タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(その八) 生きるべきか死すべきか | 2002年08月31日 |
海外行きの殆どは仕事の為の出張であったが、休暇では子供達の成長につれて夏には家族揃って近場では、グアム、サイパン、マレ−シア等、遠地では英国や北欧へ時々出かけた. ただ短い休暇しか取れなかったのが残念であった.子供達が独立してからやっと長期休暇 (といっても二週間どまりだが) が取れるようになった. 引退してからは夏には30日〜40日くらいかけて主として英国と北欧を回っている. 数年前の夏、米国のBoston, 英国, 北欧のCopenhagen, Stockholm を回った. Bostonといえば独立戦争の引金になったあの有名なBoston Tea Party (ボストン茶会事件)だが、私はハ−バ−ド大学(Harvard University) や MIT (Massachusetts Institute of Technology) を思い浮べる. 然し実際には両大学共に Boston 市内ではなくチャ−ルズ川を隔ててケンブリッジ (Cambridge)市にある. Harvard大学では構内を散策したのみだが、MITではかって大学の先生方を案内した時に教室見学をした事がある. その時、学生時代に卒業論文を書くのにMITのProfessor の論文を一生懸命読んだ事を思い出した. 今でもその教授の名前を覚えている. ボストンの北にメイン州 (Maine) がある. ロブスタ−(Lobster) の産地で有名だが近いのでボストンでも Maine のロブスタ−は名物料理だ. 料理といっても茹でるだけのが一番美味しい. Boston の地ビ−ルに Samuel Adams がある. Amber Beer と呼ばれ琥珀色をした味の濃いビ−ルだ. 多分、ボストン茶会事件を引き起こす役割を演じ、独立宣言に署名し、アメリカ独立に大きな役割を果たした Samuel Adams (1722〜1803) の名前に由来していると想像している. 外国製では好きなビ−ルの一つだが最近は日本でも飲める. 英国では行く度に英国人の友人達とロンドン郊外のパブに行った. 好きなパブはの名前は The Thatch (藁葺き屋根)といい100年以上の歴史がある旧いパブだ. 昔の英国人は随分背が低かったようで170cm の私でも頭がつかえるほど天井が低い. カクテルの Martini (マテイ−ニ-,ベルモットとジンの混合)が好きでオ−ダ−するとよくイタリア産の食前酒と間違はれた. その度に友人がバ−マウスとジンの「カクテル」と説明する. バーマウスとは Vermouth (ベルモット)のことである. Martini は欧州でははやらないのか? 私の観察では英国人の多くが Jintonic (ジントニック,ジンとトニックウオ-タ−の混合)を好み Martini は少数派のようだ!? Denmark の Copenhagen の夏は、湿度の低いこともあり、ビ−ルが美味しい. 日本では飲めない強いビ−ル、例えばアルコ−ル 10.5 %vol の Carlsberg MASTER BREW など好きである. Copenhagen の北方44kmに Helsingør という港町がある. そこにあるKronborg Slot (クロンボリイ 城)はシェ−クスピア の 「ハムレット」 の舞台として有名である. Copenhagen から電車で、或いは2kmも離れていない対岸の Helsingborg (Sweden) からフェリ−で行った. 休暇で近くに行く度に訪問した(4〜五回位). 城の入口に近い壁にシェ−クスピアの胸像のレリ−フがある. そこにはシェ−クスピアが王子 Amleth (アムレ-ト) のつずりの最後の h を頭に持っていき Hamlet (ハムレット)としたと記述がある. かの有名なセリフには幾つもの訳がある.、 To be, or not to be: that is the question. ハムレット 第3幕第1場、 William Shakespeare 「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」 (坪内逍遥 訳 ?) 「生きるか、死ぬるか、そこが問題なのだ」 市河三喜.松浦嘉一 訳 「しかあるべきか、しからずか、それが思案のしどころぞ」 別宮貞徳 訳 等々,,,, どこからこのような翻訳が生まれるのだろう.ただ感嘆するばかりである! 私は訳者が定かではないが、「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」という訳のセリフが好きだ. タイトル[海外あれこれ]に戻る |
(その九) Roundabout | 2002年09月06日 |
海外で運転するのは余り好きではない. 然し英国とスウエ−デンでは、休暇の折にはいつも車を借りて(Rent-a-Car) 運転した. 英国は日本と同じ左側通行で運転し易く、スウエ−デンは右側通行でも道路が混んでなく運転が楽だからだ. スウエ−デンに限らないと思うが、スウエ−デンでは昼間でもヘッドライトを点灯して運転する. 白昼でもヘッドライトを点灯した車が来るとよく分かる. 1車線の道路では追いぬき車の為に低速車は路肩に車を寄せる. ヘッドライトが後方に見えるとスムーズに路肩に寄せられた. 慣れていない外国人の為にレンタカ−はエンジンを始動させると同時に点灯するように配線されている. 最近は日本でも白昼にヘッドライトを点灯して走る車(特にタクシ−や配送トラック)が増えた. 新聞に依れば日本でも昼間の点灯で事故の件数がかなり減ったそうだ. 日本の道路は交叉点が多いがロ-タリ-は少ない. ロ-タリ-という言葉は米語から来たのだろうか?因みに原語では Rotary (又はTraffic Circle,米語), Roundabout (英語), Kreisverkehr (独語), Rondell (スウエ−デン語)等々. 英国で運転すると頻繁に Roundabout にぶっつかるが、これが大の苦手だった. 中を回っている車に優先権があるので入口で一旦停止するが、原則として信号が無いので停止するのを忘れる. 大変危険である. 出口が4箇所以上あるような大きな Roundabout で、どの出口か分からない時は焦ったが慣れると中で分かるまでぐるぐる回った. 気がつくと同じ事をしている車を見かけて、他にも同様な人がいると安心した. 大きな Roundabout は複数の車線があって、右回りで一番最後の出口に出る場合どの車線にいれば良いのか今でも分からない. パリの凱旋門は少なくとも五車線以上の大きなロ-タリ-にあるが、そこへ車で入る事など考えたら恐ろしくなる. 随分長い間何回となく外国を訪れた. 仕事と休暇で行った国を列記してみた.
今後更に新しい国に行くことは殆どないだろう. しかしこれから是非行きたい場所は幾つかある. それらは、
などなどであるがいずれも一度は滑ってみたいスキ−場である. ( 海外あれこれ ) 終わり タイトル[海外あれこれ]に戻る |