* スキーとの出会い *

[ホームページ] [徒然なるままに] へ移る


その一
2002/06/03
そのニ
2002/06/07
その三
2002/06/14
その四
2002/06/22
その五 完)
2002/06/29





(その一) スキ−部山班           2002年06月03日


1958年といえば随分昔のことになってしまったが、当時は何故か分からないながら弓道に憧れていた.大学に合格したら是非入部したかった.4月の初め、入学式のあと雪解けで薄汚れた感じの構内を歩きながら、道に並んでPRをしていた運動部の入部案内の列に弓道部を探した.然し見当たらなかった.

どうしようと考えていたところに「スキ−部山班」の看板が目に入り、何となく入部した.部活には余り熱心ではなかった(二年目後半からは工学部に移行したので結構学業が忙しかった).でも入部が雪とスキ−との付合いの始まりとなった.

一年目の五月に札幌市郊外の定山渓の奥にある無意根山(1,464 m)の合宿に初参加した.雪は固まっていたので登るのには体力不足以外には問題なかった.然し下りは滑ったこともない身が山から滑り下りるのだから大変だった.

子供の頃田舎で、下駄スケ−トなるものをやっていたので、その延長線上でスキ−も転ばないで滑れたが止らない.必死で止る練習をした.カラ松やトド松の間を抜けて滑るのだから、下手をすれば衝突して大怪我をしかねなかった.8号目位にある山小屋で、夜寝袋に包まりながら今日の無事に安堵し、明日はどうなるかと心配だった.

五月といえども山は未だ春の漂いで、滑り、転び疲れて一休みすれば、受験勉強に明け暮れていた暗い青春時代は正に忘却の彼方へと去っていった.

周りには人声もなく、燦燦たる日光を浴びて雪の上に寝そべれば、五月の山スキ−はもはや単なる運動ではなく、学問への興味(大袈裟?)と新しい交友への期待観に溢れる人生そのものだった.

「 In May 」 ............. James Thomson 「 五月に 」...ジェイムズ トムソン   平井正穂 訳
. .
The church bells are ringing: ああ、教会の鐘が鳴っている……
How green the earth, how fresh and fair ! この緑の大地のこの鮮やかさ、美しさはどうだ!
What rapture but to breathe this air ! この大気を吸っただけで、万物は恍惚となっている!


タイトル スキーとの出会い] 戻る




(そのニ) 山スキ−と山の唄 2002年06月07日
石狩岳 (1,980 m) 1959年2月 石狩岳 (1,980) 1959年2月
石狩岳 (1,980 m ) 1959年2月 石狩岳 (1,980 m ) 1959年2月

スキ−には大別してゲレンデ(Skigelände)で滑るか、山で滑るか、二つの滑り方があると思う.学生時代には主として山スキ−をやった.山にはスキ−をつけたまま登る.雪が深いからとても歩いては登れない.

傾斜面をスキ−で登るのだから、出来るだけ後方に滑らないようにシ−ル(アザラシの毛皮、毛並が強いので、前には滑るが後ろには抵抗があって滑らない)をスキ−の滑走面につけて、稲妻状に登る.

凡そ5〜6人位のグル−プがリング状になり、先頭がラッセル(雪かき)に疲れると最後位へ下がり二番手が先頭にたつ.こうやってぐるぐる回りながら登っていくが、足につけた(履いた)スキ−で膝上まで潜った雪をはね上げて行くのは重労働だった.

気温が零下20度くらいでも汗びっしょりになるが、一寸休むと震えだすほど寒かった.山の頂上に辿りついてシ−ルを外す時、流れ止めなど無かったから、若しスキ−を脱いで流してしまったら、とても歩くことは出来ない(簡単に腰辺りまでは雪の中に沈んでしまう).

そうなると即遭難につながるので平地で一生懸命スキ−をつけたままでシ−ルの装着の練習をした.片足で立ちながらなので、バランスを上手くとれず大変難しかった.

一日の行動が終われば、山小屋やテントで休みながらよく皆で歌を唄った.二部合唱や輪唱だった.音痴なので今までカラオケなどで歌ったことはないけど、当時の歌は少しだけど未だ覚えている.

覚えているといっても、例えばここにあげる歌詞はうろ覚えだし、単語も不正確で作詞家、作曲家なども皆目見当がつかない.今ならそれにパイプの煙と一杯のコニャックが加わるのだろうが.

Zigeunerleben ( 放浪生活 )

Lustig ist das Zigeunerleben faria faria,
Brauch dem Kaiser kein Zins zu geben,faria faria,
Lustig ist es im Grünen Wald,
wo das Zigeuners Aufenthalt,
faria faria faria faria faria faria !

Il Capitano ( 山の大尉 )

山の大尉は傷ついた 日はさし昇る山の朝
部下の山岳兵達に 山岳兵は訪れた
もう一度ここで逢いたいと 「大尉殿、何の命令です
息たえだえにことずけた われらはここに着きました」
………………… ………………
タイトル スキーとの出会い] 戻る





(その三) 手稲山の初滑りと銀嶺荘 2002年06月14日

銀嶺荘(春香山)
銀嶺荘 (春香山 1960年頃)


学生時代(1960年前後)は毎年11月になるとそわそわした.いつ近くで初滑りが出来るか、雪の便りをひたすら待っていた.

大学にはポプラ並木の中ほどから工学部への貨車の引込み線を横切って歩いて通ったが、ポプラ並木の周りは農学部の実習農場で、視界を遮るものはなく手稲山(1023.7m)がよく見えた.


山頂に雪らしき気配がぼんやリと見えるといよいよ初滑りである.毎年「勤労感謝の日」が初滑りの日となった.まさか手稲山が後年冬季オリンピックの会場の一つになるとは思ってもみなかった.

頂上まで車道があり麓から約10km ほどを歩いて登った.道路の上を滑るので積雪が余りなくても初滑りには十分だった.この10km を滑る下りるのに何回転ぶかが問題だった.

4年目(四年生)になってやっと転ばないで滑れた.これで大学生活とともに手稲の初スキーも卒業だと思った.あれ以来滑ったことはないけど、まだ当時のコースは残っているのだろうか?

手稲山の奥に春香山(906.9m)がある.そこに確か北海道新聞社所有の山小屋、銀嶺荘があった.登るのに何時間かかったかもう覚えていないが、一泊でよく滑りに行った.

手稲山と異なり車道などないので、山道を雪を踏んで登った.上の方は雪が深くシールを付けて登った.土曜の夜は小屋は札幌からのスキーヤーで大変混雑した.

月曜日に「精密加工学第一」の講義があったが、担当教授は山岳部OBで、休講(後日代講)をお願いするとOKしてくれて、教授、助教授、技官の先生方、学生(精密工学科のほぼ全員、30名)で土曜泊を避けて日曜日に行ったことがあった.

日曜日なので夜の山小屋には我々以外は誰もいなかった.食料品は全て持参し、小屋では自炊をした.スキーの名人に持って貰い割らないように担ぎ上げた酒やウイスキーを飲みながら教授達による人生講義を楽しんだ.

ほろ酔い気分になると、頭にラテルネ(Laterne、ランターン)をつけて小屋の周りで夜滑った.雪は正にパウダースノーで山笹の上に積もっているから、直滑降で転ぶと雪煙で体が見えなくなり収まると雪の中に潜っていた.

ふと夜空を見上げると、雲間に月が見えた.ラテルネ(懐中電灯のこと)など外して、寒さも忘れて心地よく、転んでは滑り、滑っては転んだ.



タイトル スキーとの出会い] 戻る






(その四) ニセコ合宿 2002年06月22日

学生時代はゲレンデスキ−は札幌市内の藻岩山や宮の森スキ−場へ行ってクリスチャニアやウエ−デルンの練習をした.前方へ転ぶような(いわゆる顔面制動)スキ−をしないと上達出来ないと言われた.

半日滑れば十分だったので、大学へスキ−を持って行き、午前の授業を終えてから出かけた.市電が往復で25円、バスが片道20円位で帰りはバスに乗らないで滑って市電の停留所まで戻った.

当時はリフトなど余り無かったし有っても乗らなかったので、100円あれば電車とバスに乗り帰路に市内の喫茶店でコ−ヒ−が飲めた(50円).

山スキ−も近くの山で練習がてら随分楽しんだが、一年の集大成としてクリスマス前後にニセコでの合宿があった.大学の山スキ−部(スキ−部山班)が大学の内外を問わず広く同好者を集め(70人〜100人位)、記憶が正しければニセコ温泉郷「青山不老閣」で一週間ほど合宿した.

参加者を1グル−プ当り6人位に分け、山スキ−の部員が一人はサブリ−ダ−として先頭に、一人はリ−ダ−として最後尾について毎日朝宿を出て山へ登り夕刻戻って来た.

ニセコアンヌプリ(1,308m), ワイスホルン(1,045m), ニトヌプリ(1,080m), チセヌプリ(1,134m),シャクナゲ岳(1,048m)等の山々に一日一山ずつ登った.

晴天の日は別として、吹雪の中では先ずリ−ダ−が先に滑った.数百メ−トル滑って異常が無いのを確認してから残りの者が一人ずつ滑った.この滑り方を繰返し、行方不明者が出ないように決して前の者を追越してはいけなかった.

リ−ダ−やサブリ−ダ−は雪でぼんやりとしか見えない地形と磁石だけを頼りにグル−プを安全に麓に下ろした.大学生活で普段見慣れている学生像とは大違いで、本当に頼もしく見えた.

山の上方には木が無く白一色なので、雪が降ると目標物が分からず、向かい風が強いと下降速度と向い風の速度が相い拮抗して、滑っているのか止っているのか分からなくなった.ストックを雪に刺すとすぐ後方に流れるのでやっと滑っていることが分かった.

大広間で行われた全員参加のミ−テングで教養学部のドイツ語の教官がつくずく言った.[普段のスキ−部の学生は余り授業には出て来ない、勉強はしない等本当にいい加減な学生で困ったものだと思っていたが、吹雪の中を全員を安全に下ろす姿を見て感動した!]

このような合宿からリ−ダシップについて学んだが、それ以上にグル−プのメンバ−に迷惑をかけないように互いに譲り合い協力するメンバ−シップについて学んだ.

それは後日自分のいきざまに影響を与えた.



タイトル スキーとの出会い] 戻る





(その五) ニセコとスイスの山々 2002年06月29日

冬のニセコは大変だが新雪を滑る楽しさと難しさを存分に味わうことが出来た.それ以上に3月〜5月の春スキ−は快適だった.函館本線のヒラフ駅かカリブト駅(今はニセコと呼ぶのだろうか?)から宿までリックとスキ−をかついで歩いた.運が良ければ牛乳運搬の馬ぞりに荷物だけ載せてもらった.

麓にある、今風にいえばペンションのはしりのような所や、中腹の国鉄山の家などに泊まりそこから頂上までスキ−を担いで登った.スキ−にシ−ルを付けて登るのに比べて随分楽だった.

時には自衛隊の雪山訓練を見かけた.小さなプロペラ機で登山中の我々より低い高度で旋回しながら食料の入った箱を直接雪上に投下していた.

ニセコの頂上近辺には毛の色が茶色がかった野生の兔がいた.小屋の親父さんによれば、兔は前足に比べて後足が長いので上から下方に追うと逃げ切れずに簡単に捕まえられたそうだ.

中腹に当時の国鉄山の家があった.その近くに(といっても1キロは離れていたかと思うが)露天温泉があった.余り熱くはなかったので冷えた体で入るのは簡単だが出る時は寒かった.露天なので、滑って来た者が急に止まるとスキ−のテ−ルで押出された雪が飛び込んできて大変だった.

晴れた日には頂上から遥か下方の駅が見え,そこを目指して長い尾根を超えて滑り下りた.山の上の方には一本の木も無く全てが見渡せた. 途中で後をふりかえり長々と続く自分のシュプ−ル(Spur)を見てもっと綺麗なSpurを描きたいとつくずく思った.

雪に覆われた岩山というか裸山のニセコを滑って、写真で見たスイスの山々を想い浮かべた.いつか機会に恵まれたら是非滑ろうと心に決めた.



(スキ−との出会い)終わり


タイトル スキーとの出会い] 戻る